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千古玦塵〜千古の愛天上の詩 Part5

七万年越しの、夢

現れたときのこの上品なこと!
ため息もの
立っているだけであらゆる雰囲気を自在に醸すことができるのが張暁晨だ
いったい、全く専門的な教育や指導を経ずにどうやって身につけたのだろう?
現場の叩き上げでここまで来た彼の努力は如何許りか
そして苦節の末に同年代のどんな俳優にも負けない、それでいて独自の特色を持った表現力を身につけて演技派と呼ばれるようにまでなった
それが最高に誇らしい

張暁晨は元モデルで
当時は"正統派美男"と呼ばれ賞レースなどに挑戦していた
それがきっかけで出場したオーディション番組からアイドル歌手になった

その彼の新たな前途を潰したのが暮光役の後輩付辛博だった
ピンで頑張る先輩を尻目に
井柏然と組んだユニット《BoBo組合》の人気は空前のものに

先輩は瞬く間に沈んだ太陽となり
後輩たちはまた俳優にもなり
李易峰、井柏然、辛付博の名は常につきまとい
何かにつけ比較され揶揄される対象となった

暁晨はアイドル歌手二年め
アイドルの肩書きのまま舞台劇に出た
このことは舞台を神聖視する方面からかなり批判が出たが暁晨の才を見抜いていた監督が擁護し
出来得る限りの準備をしてくれた

同期の親友、名門上海戯劇学院のホープで、現在も確かな演技力で各賞に輝く王伝君とダブルキャストにし
ベテラン俳優に指導を頼んだ

暁晨は本格的な演技は未経験
自分が舞台をぶち壊しにしては大ごとと
大変なプレッシャーの中力を尽くした

そんな暁晨が見た最初の俳優は主人公を演じた李宗翰だった
彼の演技に夢中になり
毎日舞台上の彼のパフォーマンスがどれほど素晴らしいか日記に熱く綴った
彼は暁晨のことも励ましてくれ、演技を褒めてくれた
最初に見た、目の前の憧れの存在だったーーー

そして
李易峰は不祥事で自らを滅ぼし
付辛博も出演するこの作品で
堂々特別出演として魔尊玄一を持てるもの全てを使い演じてみせている

希望と夢を確と定め
7万年の時をただひたすら努力して今日の日を迎えた玄一
"晴れ舞台"はもうすぐだーーー

決戦へ、いざ

上古を失い
毎日抜け殻のように過ごしている白玦に
炙陽はボケてる場合かと喝を入れに来る
玄一は必ず疲弊しているこの機を狙い仕掛けてくるはずだ、と。
そういや…、先だってチェックに行ったっきり忘れていたが

炙陽がにらんだとおり
玄一は仕掛けてきた

みな神界では
天啓の滅世陣法と
混沌の劫で疲弊し
天啓、月弥、上古と、立て続けに重要な神を失った痛手で動揺している
少しでも保たせるため
まずは炙陽と白玦が前線で出迎えた

卑怯者めーーー
よくも上古を利用したな

"知るものか
七万年前
お前たちは私のいのちを同じように奪うつもりだった
そのときも今と同じ気分だったか?"

上古は惜しみ私なら構わないと?
そんなことがあるものか
何より許せんものが天命なのだ

"同じ混沌主神であっても
上古と貴様では雲泥の差"
白玦は己の価値観を振り翳す

それに対して玄一は何も返さず
攻撃を墨羽に指示する
元より神界の連中全てを殲滅するため来ているのだ
その攻撃は鋭く速く強大だ

白玦たちは受け流すだけで精一杯である
この作品で
白玦との演技合戦を楽しみにしていた私だが
とにかく別撮り別撮りで落胆した

このいちいち決まる憎らしげな姿!
それでいて決して下品にはならない
どこまでもノーブル
それが張暁晨だ

地面に縫い止められても平然と返す太々しさ
唯一共に撮影したかと思われるカットだが
別々にも作れそうだ

ここまでで全く玄一に対して歯が立たない二人
それに対して玄一にも怒りが込み上げる

私の兄弟たちは四人揃って無能なのだな
七万年いったいどれほど怠惰に過ごして来たのだ
私の七万年はどんなものだったか思い知るがいい

私がこの天界でどれほど強大な力を有しているか
私がどれほど優れているか
貴様らごときが神と呼ばれ
私が魔と呼ばれるなら

即ち魔がこの世界を統治するに何の不都合もないということだ
魔こそ尊ばれて然るべき
私こそがーーー!

予告にあった部分だ
凄まじい玄一の魔力が炸裂する
神界の神々たちがいつしか集結しての総力戦
玄一1人に成す術がない

目の前に集結した神たちを見下ろしながら
七万年の苦節を思う
こんなやつらになぜ私が敗けねばならん
こんなやつらのために私の命は引き換えになるところだったのだ
それを避けられたのは天命ではなく
私の才によるもの
絶対に負けるものか
絶対に容赦はせん!

玄一の魔力は神々たちが怯むほど

するとなぜか炙陽が
自分の神力を白玦に注いだので
気づいた周りの者たちは次々と倣った
最後の膂力を白玦に託そうというのだ

"ならばその皆から消し去ってくれる"ーーー
貴様らなど一人だろうが全員だろうが無能な者どもの集まりだ
神など
魔には及ばぬことを教えてやる"

つぎに玄一が取り出したのは弓。

《水滸伝》や《神医安道全》などでも披露していた。暁晨ファンにとっては矛のつぎに馴染みの武器だ。

張暁晨の力を持った鋭い瞳が映える。
私は快哉を叫んだものだ。

まずは炙陽が

次いで雷神が、そして災難神がと
矢継ぎ早に特攻してゆく

次々と襲う神たちの攻撃を受けながら
玄一は徐々に翻弄されてゆく

止めは白玦の随獣だった

玄一はここで弓を取り落とすーーー

それまで何もできずにいた白玦が
意を決したかその弓を奪い番える

渾身の力を意地でかき集め
対抗しようと吼える玄一

しかし
放たれた矢にふとーーー
何かを悟ったのか玄一はそのまま射抜かれる
覚悟はしていても
毎回思わず悲鳴が出てしまう瞬間だ
悪役にはいつも"最期の瞬間"がつきものなのだ

主役は滅多なことでは死なない
死んだとしても
何万年後かに復活したりするのである

玄一ごと轟音とともに砦が崩壊し
玄一はどうなって
どんな様子か
死んだなら死顔はどんなか
画面を追う次の瞬間

そこには
主人公とその涙しかなかったーーー

そのまま"六万年後"と無慈悲にも表示が出る
玄一は
敗れたのだった
孤立無援で全ての神の全ての攻撃を独りで捌き
"最期は神々の力を結集させた白玦の放つ矢"によって葬られた

玄一の起こした反乱と及ぼした被害と犠牲の巨きさを残す戦場跡
さながら神界の悪夢
玄一が何を残したか
玄一とは何だったのかーーー

これが張暁晨が演じた魔尊玄一の全てであるーーー。

エピローグ

玄一が退場することを表す暁晨の投稿

放映当初
私は全49集中たった16集での退場に動揺した。
勝手にラスボスだと思い込みーーーだってクランク・インからアップの日ーーーおよそ3カ月もの間いたはずなのだ。
たったこれだけのはずがない
きっと復活するのだ、そしてーーー
と望みを繋いだが、その日のうちに暁晨の"収官(演じた役のパートが全て終了し撤収という意)作文"が上がってしまったのである。

この収官作文は、全ての出番が放映されたときに彼が毎回出すもので、スタッフやキャストなど関係者への感謝と、撮影中の交々が綴られるのだが、これが出るということは即ち、もう劇中での玄一の出番は全くないということの証明なのだ。
私は崩れ落ち、諦めるしかなかった。
しかし、今回の作文は過去最高というほど長文だった。
私は内容を読み、仰天した。

《玄一の退場に寄せて》
ーーー玄一の出番はそう多くはありません、ですが、撮影には4カ月以上かかりました。
劇中の彼と同じく、僕は多くの時間待機させられたものでした。

"じっと動かず七万年"というせりふが度々登場しますが、僕は彼がそのような長い時間を、空中に浮きながら何をして過ごしていたのだろうと思いました。

スタッフは非常に細部まで拘りを持って臨み、キャラクターについてもそれは発揮されました。僕は今回全てのカットを二度通して撮影したのです!
当初玄一の撮影はもののひと月で終了していたのです。ところが、後から扮装の問題が持ち上がったのです(1回目の撮影では、玄一の造形は、紅い唇に貌は白塗りで、アイラインは灰色、髪が顔を覆っていました)。
僕が演じる玄一の内面とよりマッチさせるため、スタッフは再度全ての扮装を替え、撮り直したのです。

一度目と思われる玄一の写真

撮影はクランク・アップぎりぎりまでかかり、僕もそんなわけでその日を迎えたのです。

4か月間、それは時に楽しく、時に苦しむ日々でした。葛藤し、どう納得させるべきか悩みながらも、それらと自問自答しながら折り合いをつける方法を学び、強靭な粘り強さを身につけることができたと思います。ですから、この月日に僕は感謝したいと思っています。

5月から10月の間の撮影中、僕は10㎏目方を失い
70㎏あった体重が60㎏になってしまいました。
体重減少は過酷を極め、食べられるけれどあまり食べられず、僕はなるたけ食べるよう努力しましたが、今現在(一年後の6月)になっても、撮影前の体重に戻せず苦労しています。

今回僕は30mもの高さに吊るされていました、これほどの高さは未経験で、上空は何も周りになく高所恐怖症の僕はその状態の恐怖を何と表せばいいかわかりません。手足は刻刻と痺れて感覚が無くなり、その状態でアクションをせねばならない。

同様に、完全に何もない緑幕の中で想像力を駆使して演技するのは経験もなく非常に困難で、今回の自分の演技には全く満足していません。
様々な内的、外的要因に加え、二度の撮影での弊害に見舞われ、多くの不自由なことがらがーーー宛ら封印され束縛されている玄一のようで、まるで辛酸を舐めたような心地です。

僕は全く良い状態ではありませんでした。できることなら、もっと良い僕の姿(演技)を、皆さんに見てもらいたかったです。

実は僕は2018年から撮影をしておらず(最後は映画《陰陽師瀧夜曲》)、加えて今見ていただいた玄一は約二年のブランク明けとなる2作目(映画は撮られたものの、監督の不祥事によりお蔵入りとなったため)で、僕が出ていたものが放映されるのはじつに3年ぶりなのです。
(それがこんな出来のものだなんて)皮肉なものです。少し残念です…多くの成長はあったものの。

しかしながら、僕は再び戻って来たのです(自分の作品が放映されたという意)。これからも止まることはありません。
《千古玦塵》と玄一に感謝を。
玄一、僕はこの名前が気に入っています。
(玄一の玄は深淵なるものという意味がある)

張暁晨

公式より
"張暁晨先生、玄一を繊細かつ立体的に捉えていただいたことに感謝いたします。
たっぷり休養され、更なる俳優としてのご成長をお祈りいたします。玄一が貴方の成長の助けとなったなら、幸と存じます"

ーーー私はこの感謝論文を読んだのち絶句した。
全てのカットを撮影したのち?
衣装やメイクがどうも暁晨の芝居としっくり来ないから?
もう一度全ての玄一のコンセプトを一新し、全て撮り直す⁉︎
そんな事態になることがあるのか?
あっていいのか?
暁晨はスタッフの拘りと見做してお茶を濁していたが、不満は明らかだ。
何のための定粧(広報のためのポスター撮りを兼ねた衣装合わせ。髪型やメイク、衣装などのコンセプトや造形を確認する作業)だ。

玄一の定粧画像

その通り、およそ自己表現というものを孕む仕事ならば、私もピアニストの端くれ、よく暁晨の苦悩が理解できる。

鑑賞するだけの一般の素人の方々にはなかなか分からないことかもしれないが、
表現というものはいつでもどこでも同じものを生み出せるものではない。
そう書くと、プロたるもの、出来なければならないのではないか。出来て当然ではないか
と思われるかもしれない。
勿論それを目指して鍛錬している。
しかしそれは今回はできた、しかし今回は出来なかったというような低レベルの話ではない。
提供するものはその時自分が出せる最高のもの、それ以外ありえない。
しかし、その時生まれるものは、反復、及び経験の鍛錬によるものプラス、降ってくる奇跡的な感性の賜物が時にあるのだ。

暁晨も常々語っている。
"演じているとき、今までの自分では考えもつかなかった表現やインスピレーションが湧いたり、演じながら垣間見える、己自身の成長みたいなものを発見すること、それが見えることが、演じる最大の魅力とやり甲斐である"
と。

今回の暁晨の苦悩、それは"全て撮影してから"
という、この状況のせいだと思う。
最高のものを出した後に、もう一度最初からーーー
全て最初から、「やり直す」。
スタッフからしたら、造形もしっくり来る状態でやり直したい、それは理解できる。
けれども暁晨には、一度目の自己の最高がまだ五感の記憶に真新しいなかでの作業。

何度やっても"あの感覚"を超えられない。
仮に以前よりよく出来た箇所があったとしても、所詮二度目。一度目の快感や達成感は得られない。

見えないストレスは溜まってゆき、眠れず、食べられずーーーその苦悩と葛藤を、彼はリアルタイムで私たちに発信し、そして冗談に潜ませていたのだった。

短い出番に落胆しただけでなく、こんなわけのわからない災難に見舞われていたとはーーー

秘密を孕んだ夏の種明かし

しかも撮影期間延長の弊害は《千古玦塵》だけに止まらなかった。
公式スタッフはお気楽に
"ゆっくり休んで次に備えて"などと言っているが、暁晨はクランク・アップの足で、我が家ではなく自身の主演映画の撮影場所に飛行機で移動、そのままクランク・イン。

間の準備期間、オフなどに影響があったのは明らかだ。
そして
のちに放映された映画《1921》。

定粧を撮影している暁晨

これはようよう調べてみれば、この7月末に上海で撮影されていた。
もう一つ、《贅婿》。
こちらも特別出演という名目で出た。出番はわずか2シーンのみという、カメオ扱い。


汗だくの暁晨の襦袢

更に、前記した《雪中悍刀行》ーーーこちらも、跨ぐかたちで11月にクランク・アップ、11月末の愛息の誕生日までに仕事を全て終わらせ、北京に戻るという素晴らしいパパぶりを見せ

《雪中悍刀行》洪洗象。2021年末放映
ぐるぐるちゃんはパパの苦労を知らない

つまり
5月中旬から8月までは私には把握できないが、少なくとも9月から11月までの間は現場の梯子で、《千古玦塵》《雪中悍刀行》《贅婿》《1921》《麦高芬的味道》の5本を立て続けに撮るという無謀とも思える強行軍だった。
勿論、最初からこの予定だったはずはない。
6月に《千古玦塵》を終え、7月に《1921》、8月に《贅婿》と《雪中悍刀行》、10月に《麦高芬的味道》ーーーそういうスケジュールだったに違いない。他の仕事の準備も含めて、玄一役は非常に厄介だったはずだ。

だからこそ、今回の放映で(本国版も二年前に見ていたものの)玄一を全てにおいて見ることが叶い、感激だった。
やはり暁晨はどのシーンどのカット、どのショットを見ても最高に素晴らしいのだった。

他の方の玄一評を見たいと思うものの、今のところそれは叶わず。
これからも叶わないかもしれない。
冒頭少しだけしか出ていない、憎っくき魔尊は、
"魔尊が攻めてくる。主人公は恨みをこめ、そいつを倒した。そして六万年後ーーー"としか記述されないものなのだ。



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