句読点のあるなし

新書は普段あんま読まないんだけど珍しく気が向いて読んでみたら著者の癖というか人柄が強くて「うへぇ」と思いながらも読んでるしかしこれが小説とかならまるで全然気にならないのだけれども矢張り新書は癖が強い強すぎるブログとかネットの文章に一番近い紙の書物は新書だよなって確信持って言えるもんね俺は結構これでいて楽しもうとして無理から楽しむことには慣れっこなのだそうして読み進めていた新書の一節にて「なぜ映画の字幕には句読点がないのか」という話をしていてその本の中では二つの仮説を挙げていてひとつは初めに日本語字幕をつけた人が句読点を使わない人でそれがそのまま慣習となったというもの一方もう一つは句読点を用いるルールが字幕映画が出てきた当時にはまだまだ確立されていたのでいっそのこと省略したのではないかという説とまあ二つあったわけだけど俺はもっと素朴にいや要らんでしょ句読点なんて要らん要らんと思ったのですが訳を話せば長くなりますので端折ってやりますと単純に声に出して読まれることを想定されてない言葉には句読点いらねえじゃんって思ったんですけど違うんでしょうかね本の中にもそのまんまのことが書いてありましたよ新聞なんかは当時句読点がなかったんですって小説なんかはあったにも関わらず新聞には句読点なんてなかったそうだそうなのよ何故なのか情報は声に出して読みたい日本語である以上に情報であることを求められていたからなのではないでしょうか声に出して読まれることを意識していれば必然句読点は必要になってくるわけですが情報の伝達そのものを目的にしてそこに読み方如何を求めない場合には句読点なんざ不要なわけでそう考えてみれば外国語を喋る外国人が実のところ何を言っているのかを書き表しているにすぎない映画字幕に句読点がついていないのは実に当然なことなのではないだろうか句読点のない文章とはつまりどういうことなのか結局そこにあるのは文字列でありそれをもし口伝するのであればどのような言葉を用いて口伝するのはそれは全く個人の自由だ句読点のある文章ではそうは往くまいな書いてる通りに読みすすめ句点のあるところで一文を締めくくり読点で一拍置くようなきっとそんな読み方を求められることだろうな仕方あるまいな句読点がある文章というのはつまりはそういうことなのだ対して句読点がない文章はというと好きにすれば良いのだそれで良いのだそこにはただ情報があるばかりだ持ちうる限りの適切さが残っていることを願いながらただ目で読まれて解釈されることを望むばかりの文章だ言われてみればそういえば詩だの歌だのには当たり前に句読点がなかったりしているわけで口に出してそれらを読む時というのは読む以上に唱えるようにならざるをえないのは結局解釈するという行為は声に出して読むという行為とはノットイコールなのだろう

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