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17.地獄でなぜ悪い

人間、誰でも青森に足を運んで実際に津軽海峡を目の前にしたらとりあえず『津軽海峡・冬景色』をYouTubeで聴くと思うんだけど、夏だったとしても少なくとも津軽海峡・冬景色ボサノヴァverは聴くと思うんだけど、だいたいそれと同じノリで入院中の特に最初の頃の、怪我がじんじんじんじんと強く痛み碌に眠ることさえも許されず高熱にうなされるばかりの夜は星野源の『地獄でなぜ悪い』を延々リピート再生で聴きながら朝が来るのをただじっと待っていた。

園子温の同名映画の主題歌にもなっているこの楽曲は星野源自身の闘病体験をもとに作られていることを知っている人は知っている。

遡ること2012年、星野源は10年以上に渡り続けてきた音楽活動がようやく実を結び世間に広く認知され始めようとしていたその矢先、重度のいぼ痔を患いレーザーメスで患部を焼き切る手術に臨むことを決断する。日帰り手術を無事に終えて帰路についた星野源を待っていたのは自身の意思とは無関係に数十秒に一度訪れる肛門のひつくき(通称・お尻のまばたき)とそれに伴う激痛であった。ごめんこれ星野源じゃなくて俺の話だったわ、俺が病院の世話になった話の途中に間違えて別の俺が病院に世話になった話出てきちゃったわ、ズイショさんの痔の手術の顛末についてはこちらを参照ください。

話を戻して星野源の楽曲『地獄でなぜ悪い』であるが、その歌詞世界は単純明快と言えば単純明快、夜の病室を舞台に痛みと闘うよりほかない「現実」とそれを乗り越えるために必要な「夢」や「嘘」「作り物」との関係を星野源自身のくも膜下出血による闘病体験の壮絶さを匂わせるようなシビアかつシニカルな切り口で歌い上げる。しかしその語り口はどこか朗々としていて前向きですらある。また、前述の通りこの楽曲は園子温の映画『地獄でなぜ悪い』の主題歌にもなっている。その映画の内容はというとヤクザが自分らの命を投げ打ってヤクザの殺し合いの映画を撮ろうとする荒唐無稽なもので、監督の照れくささが前に出すぎて見てるこっちが恥ずかしくなる監督なりの映画愛に溢れた一本だ(俺は全然好きじゃなかった)。

自分は最初、この楽曲が作られた背景は理解しながらも園子温の映画作品と強く結びつけて解釈していたため、作中で語られる「夢」や「嘘」「作り物」についてそれは極めてクリエイティブなものであると思いながら曲を聞いていた。つまり例えば今自分が置かれているような痛みに苦しめられる惨めな夜も、それから大して面白いことも起こらない毎日も、それらひっくるめての「現実」はすべて「夢」を生み出すために存在していて、「夢」や「嘘」「作り物」があるからこそ痛みや退屈と対峙することができる。クリエイティブというのは何も特別ややこしいことでもない。映画じゃなくたって音楽じゃなくたって、例えば病院でこんなことがあったよと他人に後でおもしろおかしく話してやるということであったり、まさにこうしてその時々で思ったことをテキストに残してやって誰かの心に何か一文でも刻まれることを祈ることであったり、そういうの全部ひっくるめてのクリエイティブが『地獄でなぜ悪い』の中で語られる「夢」であり、それこそが地獄としか言いようなのない「現実」を生きていくことを可能にするのだ。

取り急ぎの入院が決まったものの諸事情あって手術の日程もなかなか決まらぬままただベッドに投げ出された僕は、根本の怪我についてはこれといった処置もまだ行われていないわけだから当然いくら耐えたところで何一つ快方に向かうことのない激痛と数日間に渡って向き合う運びとなった。そしてそんな自分が置かれているのは自分と同じように介助なしに自力では何をするにも困難な人ばかりが集まる、そのために看護師とヘルパーの人数を多めに配置しているどうやらそれ専用のエリアのようだった。そこには意識こそはっきりしているものの怪我で身体を動かすことだけができず人の世話にならざるをえない自分のようなタイプの患者は他になく、同室にいるのは身体を自由に動かすこともできなければ意思表示も自己判断も危うい老人ばかりであった。彼らを病院に預ける家族たちは何かあった際にはベッドに縛り付けることも構わないという同意書にサインをしているようだった。昼夜問わず軋む身体にうめき声をあげながら糞尿の匂いを撒き散らす意識があるのかないのかもいまいち判然としない老人たちに囲まれながら僕は僕で僕の苦しみと対峙する。まる24時間が経過しようとした頃、他人の糞尿の臭いを最もよく遮断してくれるのは自分の体臭の染み付いた布であることに僕は気づいた。各自のベッドを仕切るカーテンの向こうから悪臭が漂ってくると、昨日一日氷枕を包んでいたタオルを口元に当てることがやがて習慣となった。一昼夜高熱と激痛にうなされながらダラダラと流した自分の汗をたっぷりと吸ったタオルを看護師に回収されぬようそっと布団のなかに忍ばせておき、誰かのオムツのマジックテープが剥がれる音を聞いては取り出すのだ。そんな試行錯誤も蓄えながら僕は痛み以外何も感じず動かすことも叶わない自分の身体の一部に意識をやりつつぼんやりと天井を眺めながら『地獄でなぜ悪い』を聴き、今自分に起きているこの災難を、ここを抜け出した後にどうして面白おかしく語ってくれようかただそればかりを考え続けていた。

やがて手術の日程もやっとこさ決まり無事に手術を終えた僕は半日ほど個室で経過を看られたあと再びもとの病室に戻された。手術を終えたと言っても怪我の痛みが簡単に引くはずもなく、今度は手術で切った傷たちも手伝って地獄としか言いようのない状況はまだひとつも変わっていなかった。

ある夜、寄せては返す激痛のわずかな間隙を縫ってうつらうつらとしていた僕はギィギィという聞き慣れない音を耳障りに感じて目を覚ました。腕につけたスマートウォッチを見ると時間は深夜の2時を過ぎたところだった。ちなみにこのスマートウォッチ、単に時計としての機能だけではなく万歩計機能やそれに伴う消費カロリーの計算機能、心拍数や血圧の自動記録など一台で様々な役割をこなすスグレモノだ。特に普段デスクワークに勤しむ自分に嬉しいのが座りっぱなし防止機能で、一定時間同じ位置に留まり続けて姿勢も変わっていないことを感知するとバイブレーションを鳴らして小休止と軽い運動を促してくれる。この機能は本当に入院初日殺してやろうかと思った。こっちはいくら動きたくってもろくすっぽ身体を動かすことなんか出来やしないのだ。

話は戻って謎の不快音であるが、身体が自由に動かないときの謎の何かってこれなかなかカナリ怖い。殺そうとする相手がいたなら殺されるしかない、不自由ってそういうことだから。なのでそんなことあるわけないと思いながらも恐る恐るカーテンを開けると、そこにいたのはカーテンの隙間から溢れる月明かりにぼんやりと照らされながらプルプルと震える直立不動のジジイだった。このジジイはたしか、今日の夕方ごろこの部屋になってきた新規のジジイだ。身元不明のジジイでなければ突然に殺されることもなかろうと判断した僕は、何が楽しくて直立不動でいるつもりかは知らないがとりあえずジジイをそのまま放っておくのも何だと思いナースコールを鳴らし、一段落したことでそれまで気づかずにいれたはずの手術痕のズキズキとした痛みを思い出してしまったことを後悔しながらイヤホンをつけて『地獄でなぜ悪い』を再生すると目を閉じた。そう簡単に寝れるはずもない。やがて看護師が一人やってきてまずはナースコールを鳴らした自分に用件を尋ねる。僕は自身に頼み事は特になく、斜向かいに直立不動のジジイがいることを看護師に伝える。看護師はジジイの異変を伝えてくれたことに礼を言い軽く会釈すると、ジジイの方に向き直り懐中電灯の光を当てた。

ジジイは病衣を脱いですっかり私服に着替えていた。点滴を引き抜いた左腕のシャツの袖はうっすら血に滲んでいた。車椅子につかまり立ちをしながらプルプルと小刻みに震えている。自分が聞いたギィギィというゴムが何かと擦れるような音は、ホイールが固定された車椅子の軋む音だったようだ。看護師が「どうしたの、おじいちゃん、寝てなきゃ駄目でしょう」と声をかけるとジジイは一言、「帰りたい」と言った。なるほど、ジジイは脱走を企てていたのであった。車椅子がベッドの前に置いてあるくらいなのだからジジイはろくすっぽ自力で歩くこともできない。自分の腕でタイヤを回して移動する体力があるのかも怪しい。現に外に出ても恥ずかしくない格好に着替えたジジイはただ車椅子につかまり立ちしてただギィギィという不快音を俺の傷口がズキズキと暴れるリズムにハモらせるばかりだ。こうして俺はジジイの完了目処が永遠に立たない脱走計画の第一発見者となったのであった。看護師はジジイを優しくなだめる。曰く病院は寂しいもんね、ごめんね、でも寝なきゃ、夜だから、帰りたいよね、でもとりあえず今日は眠ろう、言うこと聞いてくれないと困っちゃう。ジジイはうわごとのように「帰りたい」を繰り返す。看護師はそれにうんうんと頷きながら押し問答を繰り返す。俺はずっと『地獄でなぜ悪い』を聴いていた。

なるほど、ジジイにも帰りたい場所があるのだな。ジジイは、帰りたい場所の「夢」を見ていたのだ。入院の際にともに姿を現していたのは息子と思しき中年男性一人だけだっただろうか。ジジイが帰ろうとした、帰ろうと夢見た場所が、どこなのかはちょっと俺には甚だわからない。病院に来る前に普通に住んでいた場所なのかもしれないし、既になくなってる場所だったって別に驚きやしない、それくらいのジジイだ。しかし確実に言えるのは少なくともジジイの生きたある時代には確実にその夢見た場所は、存在していたのだろうということだ。その帰りたい場所が今も実在するのなら、その場所はきっとジジイが作ったに違いない場所だということだ。ジジイの人生は、ジジイがここに来てなお見る夢を確かにジジイ自身に残したのだということだ。そんなことをぼんやり考えていたら、なんだか一瞬にして『地獄でなぜ悪い』の意味するところが裏返って捻れた。

この肉体こそが地獄なのだ。毎日勤勉に糞尿を垂れ流し、病めば痛み、壊れれば動かず、年月とともに劣化するばかりのこの身体こそが地獄であり、現実だ。俺という意識の存在を証明するただひとつの器であり、浅はかにもほとんど永遠を望む意識とは裏腹に一直線に死へと向かうこの肉体こそが地獄であり、俺の見るすべての世界の発端なのだ。そしてそこから広がる俺にまつわるすべての記憶こそが、夢で、嘘で、作り物なのだ。家族も友も幸も不幸も苦楽も、すべては地獄の本質をごまかす茶番にすぎない。しかしその茶番こそが地獄を進む力となるのだ。頑なに震え続けるジジイこそがそれを雄弁に物語っている。地獄でなぜ悪い。身体がどれだけくたびれようと帰りたい場所がある。そういうふうに歩いてこれた。朽ちてこれた。それで上等じゃないか。地獄でなぜ悪いんだ。ボケようが夜に一人だろうがなお夢を見られるだけのこれまでがある。地獄でなぜ悪い。ぐるぐると考えるうちに僕はなんだか『地獄でなぜ悪い』はまだまだ僕なんかより、このジジイによっぽどふさわしい曲であるように思われてきた。くだらないことを考えてまた熱が上がってきているのを感じながらゆっくりと思考が溶けていった。

翌日、ジジイは部屋を去っていった。昨夜の一件があったので病棟の一番端のこの部屋から、目の届きやすい看護師の詰め所の近くの部屋に移されたそうだ。更にそれから数日後、僕はもう少しだけ不自由が少ない人たちが集まる別の病棟に移ったので、その後ジジイがどうなったのかは知らない。ジジイは今夜も夢を見ているだろうか。俺は今夜、夢を見るだろうか。そこには幸も不幸もなく、ただ肉体がある、それ以上の意味を見つけられる心があれば、それできっとこの地獄を生きるぶんには上等に違いないから、自由に夢を見るのがまだまだ難しそうな今夜は、俺は、あのジジイのことを考えながらただ地獄を往こう。


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