なんでも否定から入る人は成長できない

正確には、否定から入る以外に選択肢を持たない人は内省的に自分を見つめるという行為の負担やコストが割高になるので実践しにくく、その結果として精神的に成長する機会を失いがち。なような気がする。

「とりあえず否定から入る」イコール「思考停止だ」「ネガティブだ」「消極的だ」みたいな先入観が世の中ではまかり通っているようで些か辟易するが、何かしら物事を考えてアプローチする際に「とりあえず否定から入る」というのは実は別段悪いことでもないだろうと個人的には思う。「これは間違っている」という結論ありきで進めるのはよろしくないが、「これは間違っているのではないか」という仮説を前提に論理を組み立てることは褒められこそすれケチをつけられる筋合いはない。とりあえず疑ってかかって、こんなのつまんねえと思って、じゃあどうすりゃ面白くなるんだという思考の流れ自体は至って健全だ。

しかし、どんな道具にもメリットデメリットはあるわけでこのような思考ルーチンの圧倒的な短所は言うまでもなく「否定されるのはあまり良い気分がしない」ということだ。何かを否定しながら思考を推し進めるとき、そこには常に「否定された誰か」が存在してしまうわけで、否定された方はまあ良い気分はしない。多用していると何かしらの角は立つでしょう。しかしこれはあくまで(些細とも言える)デメリットに過ぎず、このような思考を用いてはならない理由には全くならない。角が立とうが構いやしねえと思う人はガンガン使っていけばいい。何より否定されて誰がどれだけ傷つこうが、私が痛いわけじゃなし、それで話が進むのであれば知ったことではない。そもそも否定されるべきものであれば、傷つこうがなんだろうか否定されるべきであるし、淘汰されるべきであるし、議論を深めるための必要な犠牲であるとすら言える。

では、その否定する対象が自身に及ぶ場合はどうだろうか?

ここで我が事についても他人にそうしているのと同様に「とりあえず否定から入る」という大鉈を快刀乱麻して圧倒的成長を遂げられると自負できる強メンタルの持ち主は以下の文章を読む必要はない。

「とりあえず否定から入る」という思考ルーチンそれ自体は決して悪いものではない。しかし、それを自身の思考のデフォルトとして運用してしまうと自身を省みる際にもまず自身を否定しなくてはならなくなる。それって結構しんどいのではないか。先に述べたとおりそのしんどさをものともせずに突き進める猛者もいないことはないのだろうが、万人が万人、そんなマゾヒスティックな苦行を実践できるとは自分には到底思えない。すると、彼らはどうなるか。自身を省みること、それ自体をやめるより仕方ない。「とりあえず否定から入る」ことでしか思考を展開できない人間は、自分を否定することでしか自身の変化を促すことができない。言い換えれば、彼らは変化しない成長しないことでしか自身を肯定することができなくなるのではないか。これは「とりあえず否定から入る」という思考ルーチン〈しか〉持たない人間の抱える大きなデメリットであるように思う。

この文章は「とりあえず否定から入る」のは良くないと主張するものではない。また、「成長や変化は痛みを伴うものでありそれを避けたがるのは甘えだ」と主張するものでもない。「とりあえず否定から入る」以外の選択肢を持つことさえできれば、特に激しい痛みを伴わずに自身に変化を促すことは可能だという主張である。そのためにはまず、自分以外に対しても「とりあえず否定から入る」以外の方法でアプローチを試みるのが肝要だろう。箸ではスープが食べにくいのでスプーンも持ち歩こうというだけの話である。また、「愛されたければまず自分が愛しなさい」というのも、つまりはそういうことなのかなという気もする。

あと、とりあえず自分を否定して卑下していじめてそれを以って自分の「成長への意思」を証明したつもりになって満足してる人もだいたい同じなのでスプーンの使い方を練習しよう。

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