二文字色々。「適性」編

色々な人に助けられて生きている。歪で頑固で投げやりで、馬鹿みたいに自己評価が高くてそのくせ臆病なので、自分の得意なところとか長所とかはあえて見せたがらず見せずともわかってもらいたいし、他人に嫌われるだろうなって自分でも思うところばかり人に見せようとする露悪主義もある。おおよそ碌でもない人間の僕だけど、それでもなんとか生きている。「うるせえ俺は俺だぞこの馬鹿」の自家発電で生きている部分が大きいは大きいのだが、それでもロケットペンダントの中に大切にしまっていて、何かあれば握りしめて自分を鼓舞するような、そんな他人から受け取って自分の支えになっている言葉というのもいくらかあったりはする。
「ズイショは、やりたいことをやるのは得意だけど、やりたくないことをやるのは本当に苦手だよな」
これは、僕の人生で出会った人の中で尊敬している人TOP3には入る、大学の先輩に言われた言葉だ。俺はこの言葉を「なるほど、俺はやりたいことをやるのら得意だけど、やりたくないことをやるのは苦手なのか」と真摯に受け止め、今でも俺の行動指針にしている。
「適性」という言葉を考えると得意苦手の話になりがちだけど、本当はそうではないのだ。本当に大事なのはやりたいかやりたくないかなのだ。
やりたければ苦手なことでもやる。やりたくなければ得意なことでもやらない。
「適性」という言葉を考えると、特にビジネスのシーンなんかでは「毎日毎日ずーっとやっても苦にならない」みたいな意味になりがちだ。けど、俺は「適性」ってそういうことじゃないと思っている。「適性」って「タイミング」だと思う。その時、「俺に今これは必要だな」と思ったら多少不得手なことでもできるし、そう思えなかったらどれだけ素質があってもできない。高校球児の中には、本当はサッカーとかバスケとかやった方が良かったやつなんか山ほどいるんじゃねえかなと思ってるし、それでも野球をやるのが一番楽しいから野球をやるのもまた「適性」だ。
「自分は何をやるのが一番価値を生み出せるだろうか」みたいな発想がもう嫌いだ。そんなの端的に言ってクソです。そんなこと考えなくていい。自分がやりたくないことを無理からやって、そこで疲弊して摩耗するなんて心底馬鹿馬鹿しい。
やりたいことをやるべきだし、そうは言ってもなかなか難しいなら、やりたくないことはやり過ごすべきだと思う。たとえそこで頑張って未来があったんだとしても。
それを許す環境、許さない環境、人それぞれあるんだろうなとは思うんだけど、うまくいかない時に「自分の適性はなんだろう、どうやったら人の役に立ってかつ自分も楽しくやれるだろう」とか考えるとドツボにハマるんじゃねえかなって俺は思ってる。
やりたいことにだけ情熱を注げばいい、ハマりたいなんて思わなくていい、評価されないならそれはそれでいい、そういう時にはやらなければいいだけだ。

僕はなんつったって、喧嘩が楽しい。騙し合いが楽しい。だから、そういうことばっかやってきた。喧嘩したり騙し合いをしたりするために必要な学習の中には俺の苦手なこともたくさんあった。けど、だって俺は喧嘩がしたいんだから、騙し討ちをしたいんだから、モチベーションがあれば覚えられるよね。大事なのはここらへんなんだ。
自分の「適性」を考えるんなら、自分がいつテンションが上がるか、を考えましょう。それに気づけたなら、算数が苦手でも算数に取り組める。国語が苦手でも国語に取り組める。だってそれを覚えたら、もっとテンション上がるんだから。算数が得意か、国語が得意かなんて些細な問題です。
自分が何にゾクゾクするか、阿らずにやっていきましょう、と思う。

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