二文字色々。「挫折」編

このお題は「ズイショさんから遠そうな概念なので」という理由つきでリクエストされた。
なるほど、ズイショさんはたしかに「挫折」についてほとんど語ったことがないように思うし、実際に「挫折」した経験もたぶんきっとほとんどない。と言ってもそれは何も僕の人生がいつも順風満帆に望むままにやってこれたからというわけでは全然なく、単純にそれを諦めることを「挫折」と呼ぶほどに死に物狂いで渇望して何が何でも達成したかった目標がなかったというだけの話だ。
もちろん、その時々でああなりたいなとかこんな自分になりたいなとかそういうのは色々あった。そのために自分なりに努力も当然するが、それはあくまで自分なりで今になって思えばそれでうまくいかなかったのも妥当に妥当すぎる結果で、やり方も上手くなければ覚悟も足りなかった。だからそんな失敗をわざわざ「挫折」なんて大それた呼び方をするのは本当に「挫折」している人たちに失礼だと本気で思っている。そういう理由で、僕は本気でチャレンジしたことがないので「挫折」したこともない。
ネットでねちっこく延々論を展開させたり、馬鹿なギャグを延々やってたりするので、たまに情熱とか執着がとんでもない人みたいに言われることがあるが、実のところ全くそんなことはなく、むしろ僕に一番足りないのは情熱や執着なのでしょう。特にインプットの方を楽しめないのは辛いところだったなと思う。演劇を作ったり、小説を書いてみたり、そんなことをやっていたりもしたのですがまず圧倒的にインプットが足りない。そもそも本とか読むの好きじゃねえし。じゃあお前みたいなやつが本なんて書こうとすんじゃねえよと思うし、一方で根っからの読書家にやっぱり嫉妬してたりもする。
そもそもお前みたいなやつがなんでそんな向いてない作業に色目を使ってたんだ、って考えるとやっぱり「何者かになりたかった」とかなんだと思う。20代を過ぎた頃くらいは「今、交通事故とかで死んだらギリギリ『何者かになるはずだった若者の不幸な死』になるんじゃねえかな、トラック来い」とか割と頻繁に思っていた。しかし気の毒なことに、この「何者かになりたかった」という欲望すらも俺の中では死に物狂いではなかったのだろう、3今になって思うことは当時からも俺は内心、そんな何者かどうかとか関係なくとっくに俺が何者でもないことを特に悩みの種にはしておらず、俺はどうしたってどう転んだってどうせ俺だし、勝手に一人でふてぶてしく自己肯定感高めだったのである。
そんな感じで20年とか30年とかをかけて僕のなかの贅肉、分不相応な欲望を取り除いた結果残ってるものは「ただ人とつながりたい」くらいなんじゃないかなと思う。そう考えれば今も人と人の間に入ってなんか上手いこと回す仕事でそれなりに楽しくやってるのも納得がいく。別に望んでやりたくてやっている仕事ではない。たまたまだ。しかし向いてるなと思いながらやってるのでそれでまあいいかと思っている。ここからどうすっかなぁと思っている。
何者かになろうとするのは悪いことじゃないけど、何者かになるために自分を否定するのも良くないんだろうしな、とかは思う。僕は全然レベルが低いところでそれをやっていたので「そこはもうちょっと客観的に戦略的にこういうやり方をするべきだったんじゃないの」とか過去の自分に対してめちゃめちゃ思うけど(いまだに脱サラして劇団作りたいと思う夜もあるけれど)、今の僕は特に不満もなく自分を殺すこともなく生きていて家族ともうまくやっているのでまあこれでいいのかなぁと思うと同時に、「これでいいのかなぁ」の一文で人生は終わらないわけで、俺は俺らしくやってりゃ死に物狂いにならなくても今までがそうであったように何らかの面白い変化はいつだってワンチャンあるだろうとも思っている。人生長いし。
なりたい自分を目指して変容邁進するのも人生だし、このままの自分で人生やってどうなるかアクセル踏み続けるチキンレースもまた人生だし、そんなもんじゃねえかなとも思っている。
今でもやっぱ何より大好きなのはお笑いで、たとえばM-1で「お前らそれ何年やって燻ってたんだよ、燻ってるのに何でやめなかったんだよ、そして超面白いじゃん」みたいな馬鹿みたいなネタを見た時に、なんだかものすごくアレな気持ちが昂ぶる。俺もこうなりたかった。自分のすべてを投げうって作ったものを認められて、何者かになって、ガッツポーズをしてみたかった。そういうことは毎年思う。
これらの陳述を丸ごと一つに捉えたうえで「挫折」と呼ぶ人もいるんだろうな、という考えのもと書いてみたやつです。どうでしょうか。ねえねえ!!どうですか!?ねえ!!??

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