無知無知の無、おまけ

「おまけ」についてあれこれあれこれ書こうかいな、と思う。というのも、哲学イベント「無知無知の無」なるものを月一で行っていて、それが明日であり、つまるところ明日「おまけ」についてあれこれあれこれお客さんと話すことになっているからである。レジュメっぽいがレジュメとは呼べない文字の集まりを書くつもりだ。レジュメ、ね、ある時大人が不意に言い出す、レジュメと。なんだよ、レジュメってとなるがレジュメも知らずに生きてるのかなんて思われたくなくて「ああ、レジュメね」なんてことを言う。レはなんかわかる、レは。ジュメがわからないではないか、ジュメが。ひとまずレジュメのことを明日の話ではなく、おまけについて話のだからおまけについて。
 
おまけの語源は商売空間における
「そこをまけてよ」であるらしい。まける、値引くである。商売人というのは利益が落ちると負けているのであり、ぼったくれたら大勝なのだ。そうか、、違う気もするが、どうだろう。ま、値引くであるとしてもらいたい。おまけ、まける、値引く。で、値段は引けないが、何かをつけますよ、となると一気におまけ感がでてきますね。昔はビデオデッキを買うと、空のビデオテープがついてきのだ。ビデオデッキ、ビデオテープ。これを知らない人間がこの世にはたくさんいる。それが世代交代であり、諸行無常であり、さびしさと切なさと心強さとだ。何が心強いのだ。
 ビデオテープが欲しかったわけではない。ビデオデッキが欲しかった。ビデオデッキを活用するにはビデオテープは必要だが、今日の買い物はビデオデッキなのだから。その時必要としていたものに対し、なんとはなしについてきてわりと嬉しい物。これ、おまけ、って感じがしますね。
 
 どこの家でもやっているだろうと思うことがある。でもそれはどこの家でもやっていることではない、ということは多々ある。私の実家、煮物は鍋でてくる。テーブルの真ん中に片手鍋が置かれ、それをめいめいつまむ。どこの家でもそうだろうと思っていた。思っていたが、違った。だいだいの家では煮物は皿、鉢に盛られてでてくるというのだ。関本の家のポテトサラダはボールででてきたがそれも違うらしい。関本の家の餃子は粉々だった。「あんなテレビみたいにきれいにはできない」というのが母親の言い分であったが、だいたいの家はいわゆるきれいな餃子である。餃子の皮がひっつくのはわかるが、最終なぜ粉々までいくのだろうか。皮が引っ付くまでは餃子の形を残そうとしていたが、皮が引っ付いたらもうどうでもよくなり箸でかき回していたのだろうか。
 
 おまけである。おまけと父親について。 どこの家でもやっているだろうと思うことがある。でもそれはどこの家でもやっていることではないこと。どこの家でも父親というのは屁をする時に
「ええもんやるわ」
とか
「ええもんあげるわ」
と言った後屁を放つと思っていた。なぜならば私の父親がそうだったからだ。ずっとそう思っていた。ずっと。私が三十歳ぐらい時、同年代の男女六人ぐらいに親父という生き物はなぜ屁の前にあのような口上をたれるかねとなげいたのだが、その場の男女六人ぐらい全員が言うには
「そんなことは言わない。そんなことを言う父親はいやだ。まず、そんなことは言わない」
と言うのだ。どうやら父親になったらそうしてしまうと遺伝子に組み込まれているわけではないらしい。個人的要素だったらしい。
 おまけ、ね、おまけ、
父親、上記のような放屁のバージョン違いもあって
「ええもんやるわ」

「おまけ」

というパターンもある。つまり屁をこいた後「おまけ」と言って再度、屁をたれるのだ。これはおかしい。かなりおかしい。私は屁を欲していないのに、さらに屁がくる。これはビデオデッキとビデオテープの関係になっていない。豚バラ肉が欲しいのに、折れた釘を渡されたのち、吸殻を渡されたようなものだ。どちらもいらないのだ。吸殻を渡された後、吸殻を渡されたというほうが正確かもしれない。同じものをおまけと称し渡されたのだ。いらないものを。
 屁の何が「ええものなのだ」と問うたことがある。すると父親はいった。
「生きている証だ」
と。その時はへええと思った。確かにと思ったが、別段屁以外にも生きている証はあるだろう。話しているだけでも生きている証だし、動いているだけでも生きている証だし、粉々の餃子を喰っているのも生きている証だ。
 
 哲学イベントの公演時間はだいたい二時間。一時間半ぐらいがいいのかもしれないが、なんかだいたい二時間やっていた。最近は開演が遅いから短いが、昔はね。共演者はDNA池上さん。おおよそ二時間ぐらい話て
「ではぼちぼちまとめを」
と俺が言うと池上さんはいう。
「もうちょっとしゃべりましょうよ」
と。おまけの時間と言えばおまけの時間だったのかもしれない。屁のそれと同じく内容物は本編と変わらないのだが。で、このおまけの時間が一時間ぐらいあった。男の喋りはみっともないと言うが、人生とはみっともないものであり、みっともないのもまた生きている証だ。と書けばなんだか哲学っぽいか、どうだろう。
「もうちょっとしゃべりましょうよ」
てのはなんかいいね、自分は今この空間がしっくり来ているという意思表明。
 
あらたまって言うのもなんだが、十年近くこのイベントの進行をしているが、いまだに哲学の意味がわかっていない。哲学とは放屁の前の口上ではない、ということだけは知っている。

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