そこは置物のある場所


 何かを書こうと思ったのは単独公演を行うからであります。コントを八本。来てほしいのだ。来てほしいから、こういうのを書けばなにかのきっかけになるかもしれないと思い、書くのだが、なにかのきっかけになってほしいが、ま、なんにせよ、書く。

 何かを書くとなると、何かがいる。うどんについて書いたり、そばについて書いたり、ま、そういうのだ。うどんもそばも食べ物である。食べ物、それはいい。うどんもそばも食べ物ではない、私はうどんもそばも置物としてサイドボードに並べています、という方もいるかもしれないがだいたいの人にとっては、食べ物だ。で、食べ物について書こうとおもったのだが、置物について書く。
 
 だいたいのものは置かれている。ひっかけられている、宙に浮いているというものもあるが、だいたいのものは置かれている。駐車されている車も置物であると言えるし、スーパーコンピューターも置物だろう。しかしそれらは置物とは言わない。なぜか。置かれたうえでなんらかの役割をもっているからだ。ピアノはだいたい置かれているが、置物とはあまり言わない。演奏するという使い道があるからだ。で、置物の使い道というのは、なんだろうか。なんだろうか。つまり、つまり、ない。ないのだ。置物が置かれているのを見ることによって気分がなんかそれっぽくなるというか悪い気はしないというか、いい気分がするというか、精神にとってよい役割をする、とされている。あまり、見ることによって不快になるものを置こうとは思わないはずだ。きっと、精神的安らぎが置物にあるのだろう。
 で、あるのか、ということになってくる。
 あの、熊の置物を見てすこやかな気持ちになれるか、ということだ。
 健やかとか穏やかとかそういうことではない気がする。
「ああ、この家、熊の置物があるな」
という気分になる、でしかないではないか。
で、思うのだ。そういうなんというか別段なんらかの役にたってないというか役にたってないという役割を果たしているようなそれはとても素晴らしいように思うのだ。実家には熊の置物があったが、大きな将棋の駒はなかった。なぜ家に大きな将棋の駒の置物がないのかと父親に聞いたことがある。なぜそんなことを問うのだ。幼いとはそういうものだ。そういうものだということにしておこうではないか。
「なぜ家に将棋の駒の置物がないん」
「そりゃ、うち誰も将棋せえへんがな」
と言われた。その時はそれで納得したようなきがするから、それを言うなら熊に縁もゆかりもないではないか。それでも熊の置物があるではないか。実は熊となんらかの関係があったのか。実は熊殺しなのか。おそらく正解はこうだろう。なんだかよくわからないが、我が家にやってきた。熊の置物はなんだかわからないが、家にやってきたのだ。将棋の駒は家にやってこなかったのだ。つまり、あまり置物は自分では買わない。誰かが誰かのために買ってくる、そういうものではないだろうか。
熊の置物を自分で買って自分でおいているという方がいたら、謝ります。ごめんなさい。そらいるわな。いる。

しかし、あれはどこで買うのだろう。アマゾンというのはここではないものとする。となると、土産だろうか。息子は有馬温泉の土産にマリオのラジコンをねだった。そんなものどこか有馬なんだと思ったが、ま、その土産屋にあるのだから、土産と言えば土産だろう。温泉街の土産屋はおもちゃが豊富。実に豊富。狙いが明白。

 あれやこれやかいたがとどのつまりは

関本佳史コント公演「キミラシイモノノ」
オムニバスを8本
日時 2022年6月18日土曜日
   19時開場 19時30分開演
会場 大阪市西区江戸堀1-4-21
   日報肥後橋中央ビル二階2号総合娯楽施設アワーズルーム
   (四つ橋線肥後橋駅下車6号出口四ツ橋筋から1本東へ徒歩1分)
出演者 関本佳史
前売り 1500円(別途1ドリンク500円)
当日  2000円(別途1ドリンク500円)

予約メール zubuno_zubuno@yahoo.co.jp

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