記憶の回廊

何もしていない時の私の頭の中は、言葉になる前の、はっきりしない思考の塊で埋め尽くされている。それが意識の表面にまで浮かび上がって、私が理解できるような、私がなんらかの感情を動かされるような形をとる時、それらは大抵私の記憶と結びついて、私の意識はたくさんの記憶と感情で満たされた場所に迷い込んでいる。

何度も思い出す出来事がある。大抵は苦しみや悲しみを伴うもので、滅多なことがない限り、幸せなことや嬉しいことは思い出せない。心の中に記憶の回廊があって、私の望むと望まざるとに関わらず、することがない時、私はそこにいるのだ。いつからそんなものができてしまったのか、定かではない。でもこれは、私には制御することがほとんどできない。回廊にいる時、私は目の前の景色を眼差してはおらず、自分の体が現実にあることを、私は忘却する。

することがない時、というのは、意識的にすることがない時のことである。例えば、道順も、標識もわかっている、歩き慣れた道を歩いている時や、お皿を洗っている時なんかもそう。一連の動作を繰り返しながら、私の意識は回廊に迷い込む。その回廊で私は、もう一度体験するのだ。その時その時の私の眼球に映り込んだもの、耳にした音や言葉や、誰かの声を。その度に私の中に宿る感情は、当時のそれとほとんど変わりのない時もあれば、奇妙に鋭利さを欠いた、磨りガラス越しのシルエットみたいな時もある。でもなぜそんなことがわかるのだろう、あらゆる感情はもう私の手の中にはないはずなのに。

一直線の時間の流れの中に、自分がいるとはどうにも認められない時がある。突然5年前のことを思い出し、5年前の自分が泣いているのを回廊で見ていることがある。あらゆる感情は、かつて、間違いなくここにあったはずだ。そして今も、あるような気がする。私はあの時の私がどのように苦しみ、どのように怒り、そして泣いていたのかを知っている。誰かに説明するために、その時の私を、回廊から連れ出し、みんなの前に引き摺り出すことも、多分できると思う。あの時はああだった、ではなく、あの時のあの自分が、あのまま心の中に格納されているようである。

回廊に私を仕舞い込むようになったのは私だと思う。引き受けきれない私の苦しみを、私は回廊に閉じ込めているのだろう、ほとんど無意識のうちに。
私自身は、例えば誰かの前でペラペラと、昔のことを話している私は、少しも傷ついていないのだ。私は無傷だ。傷を負っているのは、あの時のあの私であって、今ここにいる私ではない。心の回廊にいる私の傷は、だから癒えることがない。過去の私とここにいる私は、どういうわけかどこかで切り離されている。だから私が今、どこでどのように、如何なることをして、誰に囲まれていようとも、それはあそこにいる私とは関係がない。あの時の私が、それによって報われるなんてことはあり得ない。可哀想な彼女は、永久に可哀想なままでいる。

私は無意識的に、彼女に、彼女たちに会いにいく。それは苦痛を伴うことが多い。回廊の中は様々な感情で満たされている。なんのためにこんなことを始めてしまったのだろうと、私は思う。思い出すというような気楽さではなく、明確に、戻っているのだ。そうして時々帰って来られなくなって、泣いている時もある。外から見ると、私が思い出して泣いているように見えるのだろうが、そうではない。泣いているのはあの時のあの私であって、ここにいる私ではない。

高校生の時、私は精神を病んで部活を辞めたのだけれど、その間際、顧問の先生に「そこまでいく前に誰かに相談できなかったのか」と尋ねられたことがあった。できなかったし、おそらく今もできないだろうと思う。
どうして相談できなかったのかといえば、正確に言葉にする術を持たなかったからだ。名状し難い苦しみや怒りは、数えきれないくらい、それよりも前からあった。そのほとんどは、誰にも理解されないような種類の苦痛だった。抱えても仕方のないような感情がそもそも暴れ回っている私には、他人に話すに足る苦痛も怒りもわからなかった。長いこと、世界に期待をしていなかった。
私にできるのは傷ついた私をひとまず現実から引き上げて仕舞い込んで、もう一度私を培養することだけだった。部活を辞めた後の私はなんだか腑抜けになったと友人に言われていた。今にして思えばそれも当然だろうと思う。人格なんてものは虚構なんじゃないかと、思い始めたのはそういえばあの頃からだったような気がする。

私に、彼女に対してできることは何もないのだ。言葉をたくさん知って、以前よりはっきりと、その苦しみを言語化できるようにはなったけれど、それだって彼女にはなんの関係もないことだ。でも、じゃあなぜ私は何度も、気がついたらこの回廊にいるのだろう。感情なんてものは、表に出さなければないのと同じなのに。
奇妙な自己愛のうちの一つかもしれないが、私はなんとなく、彼女がそれを望んでいるような気がするのだ。
こういう私を、あなただけは覚えていて。私の悲しみを、出来うる限り正確に再生できるのは、あなただけだから─。
そう言われているような気がする。だから私は、思い出さなくてもいいことも思い出す。可哀想なのは彼女だろうか。それともそういう彼女たちを何度も訪ね歩くこの私だろうか。私は彼女に向かい合い、泣いている彼女を見ている。当時の彼女にすらわからなかったその曖昧模糊とした苦しみの、その糸の絡まりが、今の私にはよく見える。平気そうな顔をしていた彼女がどんなふうに傷ついていたかも、今の私にはわかる。だけどわかったところで、彼女を癒すことはできない。

この傷は私に固有の傷なの─と、彼女は言う。あなたには治せないよ、だって、あなたは私ではないから。これは私にしか治せない私の傷だったのに、あなたは私を手放してしまった。だから永久にこのまま─。
苦しみごと私を手放さなければいけないくらい、苦しんだのはいつだっただろうか。
─覚えていないでしょう。
覚えていない。部活を辞めた時だろうか、それとももっと前?少なくとも生まれた時は、こんなふうではなかった。でも手放すより仕方がない瞬間があったのだ。そしてその時の私は、もう私と共に歩いてはくれないのだ。
─寂しい?
寂しい、と思う、今私がいるこの場所に、あなたを連れていけないことが。ようやく生き延びてよかったと思えているのに、あなたがずっと泣いているのが。泣いているあなたに何もできないことが。
だけどあなたは私にとって、最も近しい他者だ。私の中にいて、私の干渉できない傷を抱えた他者。あなたたちがいると、私はいつだってわかるのだ、私が合理化しなかったあらゆる過去の感情が。いつかあなたたちがここからいなくなったら、その時には、今度こそ本当の孤独が始まるような気がする。

どちらの方が幸せかなんて、いったい誰にわかるというのだろう。

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