荒野について

大学2年性の頃、「荒野がみえる」というけったいなnoteを書いた。
自明に思えていたほとんどの物事が解体可能で、ここには実際には何もない、という虚しい実感のことを、私は勝手に荒野と呼んでいる。

そうしてあるとき、ああ、すべて荒野なのだ、と思った。学べば学ぶほど、考えれば考えるほど、私の中の荒野は拡大し、私を捕らえて逃さない。
そうして気がついた。自己を証明できないのと同じように、我々は世界をも証明することができないのだ。

世界は荒野であり、私もまた荒野なのであった。本当はすべてない。それに気がついてもなお、怒ったり笑ったり泣いたりしながら生きている自分のことが不思議でならない。

これを端的に言い換えるなら、おそらくニヒリズムなのだろうと思う。数年経った今もなお、これがなくなることはない。
職場の人の話の殆どは、誰かの夢の話を聞いているのとさして変わらないのだけれど、というか私の過ごす日々のほとんどが、誰かの夢と変わらないのだけれど、でもそう思っているのは私だけだから、ますます話すことがなくなっていく。寂しいと感じる機能だけはまともにあって、でもこんなのは何にもならない。

財を築くのも家庭を築くのも、三途の川のほとりで石を積むのと大差がないような気がする。気がするというか、明確にそういう実感がつきまとう毎日なのだ。連中はペテンで、でもペテンだと思っているのは私だけ。荒野は時間と空間を超えて広がっていく。私はたった一人で、陰謀論を信じているようなものなんだろう。その気になってしかるべき機関にかかれば、病名らしいものがつく何かなんだろうと思う。しかしだからと言ってなんだというのだろう。私にとってはこれが本当のことなのだ。

そんなこと考えない方が幸せだよ、とか、昔はそんなこと考えたなあ、とか散々言われたけれど、私は結局この荒野に足を取られたままだった。どうにもならないと途方に暮れながら、ギリギリの状態で仕事をし、しかし全てが荒野に呑まれていく。一体この虚しさはなんなのだと思いながら、引きずられるように仕事をしている。みんな嘘つきなのに、自分が嘘つきってことに気づいていないから幸せな顔をしていられるんだ、とか思う。でもこれは私だけが持つ視座で、そんなふうに私が言ってもきっと何も伝わらないんだろう。

数ヶ月前に書かれたスマホのメモに「楽になる日は来ない」とデカデカと書かれているのを見つけて、どうも本当にそうらしい、と笑ってみたりする。どうして私と彼らはこんなにも違うのだろう。この虚しさはなんなのだろう。

なぜまだ生き延びているんだろう。ここには何もありはしないのに。

だけど私がいる荒野には、時々風が吹いたり、光が降ってきたりすることがある。それは刹那の出来事であって、積み重なっていくものは、やっぱり私の目には映らないのだけれど、だけど私を時折捉える風と光が心地よくて綺麗で、ただもう、それだけのために生き延びようと思うのだ。もうさっさとこの人生に蹴りをつけてしまおうかと思うたびに、だけどあの光、もう一度、あれが見たい。もう一度あれを見るために、また私は目を見開いて何もない地平を見つめている。なんの保証もないのに。

この虚しさはいつの日かなくなるのだろうか。もしそうなったら、あの光はどうなるのだろう。

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