存在しない記憶:1999年

一体いつまでやるんだ?

平日が来て、毎朝デスクに座るたび、私はずっとそう思っていた。
私は一体いつまでこれをやるんだ?
いや、私でなくても、隣の先輩とか、前の席の上司とか、この会社じゃなくても、この世のありとあらゆる人たちは、一体いつまでこれをやるんだ?
私はこうやってお金を稼ぎ、その稼いだお金で服やら食べ物やらを書い、それを食べたり使ったりだめにしたりして、また同じことの繰り返し。それは三途の川のほとりで石を積んで、自分で崩して、また石を積んで喜んでいるのと、一体何が違うんだ?

どうしてみんな平気なんだ?

みんな、ずっと続くのがいいと思っているんだろうか?これが?どうしてなんだ?どうしてずっと続いていくことが良いことなんだ?家も会社も。この人たちにはこれが、賽の河原で石を積む以上の意味があるってことなんだろうか。

そんなこと言ったって仕方がないとわかってはいる。ひとまず生活にはお金が必要なのだ。でもこの生活だって、私はいつまでやるんだ?
人間は一体いつまでやるんだ?この世界を。

ノストラダムスの大予言とか、終末論とかそういうのを、私は自分でも意識しないうちに、探し回っていたのかもしれない。終末は私にとって、救済より甘美な響きを持っていた。

世界は終わるのだ。私がいつか灰になって壺の中に詰め込まれるのとおんなじように。いつかは何もかも終わるのだ。私の目にはひどく虚しくみえるこの賽の河原の石積みも。始まったのなら終わって当然なのだ。終わらせなければいけないのだ。こんなところで石を積んでいても、どうせ人類はどこへもいけないんだから。

世界が終わるのなら、過たずそれを見届けなければならないと思った。
それはこの世界を憎み愛している私の義務だから。
神になって世界の終わりを見届けるのが夢だった。ずっと昔から。でも私は神じゃないから、それができなくて残念だとずっと思って、甘んじて人間として生活をしてきたのだ。

だから世界が終わるのが、本当に本当に嬉しい。

予言が本当か嘘かはひとまずどうでもいい。滅ぶ可能性があるのなら、呑気に仕事をしている場合ではない。世界が終わるのをきちんと見届けなければ。

「本当に辞めるの?」
「はい」
「嘘かもしれないのに?」
「でも嘘じゃないかもしれない」
「まぁそうだけど。俺には信じられないなあ」

信じるとか信じないとか、そういう問題なんだろうか。明日もこんな風に人の形を保って働いていられる100%の保証なんて、初めからないのだ。
私はなんで、今日まで生き延びようと思ったんだろう。今日まで生き延びて、これから先も生きていけると思っていたんだろう。

「別に、止める権利はないんだけど、でもさあ、あれはなんていうか、眉唾だと思うよ」

果たしてそうだろうか?この人は当たり前に明日が来ると思っているんだろう。
昨日までがずっとそうだったのと同じように。昨日が今日になったのとおんなじ理屈で、今日が明日へつながっていると信じて疑わない。でも本当にそうだろうか?

世界はいつでも終わる可能性があるのだ。そして今や世界は余命宣告を受けている。余命宣告を受けたら仕事を辞めて当然だ。
私はその日を心待ちにしながら、貯めていた貯金を切り崩し始めた。このお金を使い切らなければ勿体無いと思っていたのだが、本とか香水とか服とかを買っても、それを滅亡までに読み切ったり使い切ったりしなければ結局この勿体無さは変わらないのだとわかってからは、さして気にならなくなった。

1999年の7の月、私は今か今かと待ち侘びて毎日を過ごしていたのだ。両方の眼をこれでもかというほど開きながら。
1週間が経った。大気汚染も大地震も起きなかった。
2週間が過ぎた。水道の水は綺麗なままだった。
3週間。空からは何も降ってこなかった。
そして7月が終わった。陰惨な未来などやってこなかった。私は生き残り、そしてそのほか多くの人々も生き残り、普段通りに世界は回り、滅亡の準備をしていた私だけが取り残されてしまった。

私は新しい仕事を探さねばならなかったけれど、その時にはもう遠い遠い未来を見据えて何かを始めるということが出来なくなっていた。
私だけはわかっている。1999年の7月ではなくても、いつの日かこれは終わるのだ。人間の営みがいつかは途絶え二度と戻らないということを、本当の意味でわかっているのはきっと私だけだ。
終末を信じて仕事を辞めた私のことを、世間は愚かだと思うだろうが、私にしてみれば毎日世界が続くと思っている彼らの方がおかしい。

私は毎日思っている。終末の時は近い。そしてそれを過たず見届ける用意が、私はとうの昔に整っている。

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