枯れない花を

待合室に花の香りが立ち込めている。私は鼻をひくつかせながら、頭を傾げていた。野生の花じゃない、綺麗に剪定された、花束の花からするみたいな匂いだけど、どこにも花やそれらしいものが見当たらない。
幻聴とか幻覚とかみたいに、嗅覚にも幻はあるのだろうか。私の脳の中にしかないかもしれない花の匂いを、肺いっぱいに吸い込む。こういうとき、誰かと一緒なら、すぐに尋ねるんだけど。

よほどの異臭でない限りは、幻覚とか幻聴とかより日常生活に支障をきたすことはなさそうだ。まして花の匂いがずっとするなら、それは嬉しいことかもしれない。花は好きだ。匂いも彩りも質感も、枯れるところも。

答えようのない質問をして、大人を困らせた記憶は、きっと誰にでもあるだろう。幼少の頃、大人はなんでも知っているだろうと思っていた。大人になって、あの頃の私の問いに、答えられるものも中にはあるけれど、ほとんどは答えられない。あの頃の大人たちだって困っただろう。

どうして空は青いんだろう?火ってなんなんだろう?死んだらどこへ行くんだろう?どうして花は枯れちゃうんだろう?

素直すぎる子供だった私は、疑問を大事に抱え込んだまま大人になった。
心象風景、みたいなものが、すべての人に当然のように備わるのかわからないけれど、私は心の景色の中で繰り返し繰り返し、見る光景がある。そのうちの一つが、枯れていく花である。
砂漠の真ん中に咲いて、サラサラと気高く枯れ、崩れ落ちていく花。幼少期の私は尋ねる、なぜ花は枯れるのか、なぜ私たちは滅びるのか、私はなぜ死ぬのか、なぜ私は生まれてきたのか。
私は答える、理由などない、何もかも偶然であって、それ以上でも以下でもない、考えるだけ無駄かもしれない、こんなことは。
枯れてゆく花は絶えず私に告げている、死ぬのだと。生まれたからには老いて、死んでいくのだと。そこにはなんの意味もないが、でも死ぬのだ、それだけが事実だ。

この枯れてゆく花が、時折、生きようとしてジタバタもがいているわたしを捉え、その足を挫いてくる。別に、恐ろしいことではない、ただ死ぬのだから、足掻く必要なんてない、とでも言いたげに、花びらがだらりと開ききっていく。私はそれを見て、何度も、何度も何度も、やめにしようか、と思う。もうやめにしようか。どうせ死ぬし、世の中は狂っているし、今更私が何かしたって、なんの意味もない。

アナウンスが聞こえて、私は席を立つ。私のこれは希死念慮とは質の違う、諦念のようなものだと思う。枯れてゆく花をいつも眺めながら、どうにかしなければいけない、とは思う。こんなことばかり考えて生きて行けるはずがないから。どこへ行っても死ぬことばかり考えている自分のことが、ずっと後ろめたい。本気になりたいと思い、時々は本気になれるようにも思うのに、気がついたらまた花が枯れるのを見ている。

急行列車が目の前に止まるのを待っている。予定がない日は大体、大学に行く。何かに追い立てられるように、研究室で文字を追いかけている。枯れない花を探しているのだろうか、そんなものはないのに。
電車に乗り込むと、またあの芳しい匂いがした。周りを見ても花束らしいものを抱えている人はいない。香水の匂いにしてはえらく瑞々しいような気がする。

ああ、あの花は枯れないのか、と私は気付く。空想の中の花は枯れないし、枯らさなくていいのだ。何度も頭の中で花を枯らしているのは、他でもないこの私だ。
私はいつか、枯らさずにいられるだろうか。現実の花は全部枯れるけれど、そのかわりに、私の心の景色のなかに、絶対に枯れない花を育てられるだろうか。

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