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白拍子ばなれした🌾静御前🌾の慕情

 白拍子…言わば、“高級遊女”であります。

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 私が、小〜中学迄、〈お妾〉とか〈側室〉等、知らなくて(あの、“淀殿”も、太閤秀吉の妻と記され、正室北政所の存在は記されていませんでした。静御前も、単に“白拍子静”と固有名詞🤔変にマセたら良くないとか…からの配慮?😑)降りしきる雪中の、女人禁制である吉野山での別れ…女一人、心細い旅路に向かう静御前を思い浮かべて涙ぐんでおりました。

後に、私も、歴史書、小説等を、多く読むに付け、あの頃の、静御前…より、様々な考えを持つようになってきました。

 静の母親と言われる、磯禅師。白拍子の第一人者であると伝えられております。

  *当時、鳥羽天皇の世に、藤原通憲(信西)が、優れた曲を選んだ後、磯禅師に、白水干に鞘巻をさし、烏帽子の男装で舞わせたのが、白拍子の始まりと伝えられる。

 更に、京の貴族屋敷に、白拍子の派遣等も行っていたから、朝鮮の女楽“行首”と同じ立場と思われますね。 

 行首(ヘンス)とは、それぞれの“教坊”に属する妓生の長にあたります。

            *教坊*

 歌舞・器楽一通りは勿論、本国は元より他国からの貴賓、高官等を接待するに相応しい、書を始めとする、高い教養を童妓の頃から起き居させながら、妓生の育成を施す養成所

  静のお話に戻りますが、幼少時から母親の薫陶(あくまで白拍子としての)を骨の髄まで受けてきた事は想像に難くないでしょう。そして、トップの白拍子として、名を上げるまでになったワケですね。

 それより、朝鮮の妓生、欧州の高級娼婦に共通する遊び女の“鉄則”は、白拍子にもあったでしょうに…

 「殿方の前で心をあらわにしてはならぬ」

 「聞こえても、知らないふり」👌 

 「どんなに辛くても花のように微笑む」 

 「 (愛されても)愛しては、もってのほか!焦らしながら夢中にさせて、いつまでも、贔屓にさせること」

 👌最も頭の回転の早く、機転のきくと見込まれた場合、“スパイ”🧕の役割も命じられたりもする。

どんなに、美しく、高い教養を身に着けても、所詮、遊び女ですから、世間一般のお嫁サンに、なれる運命(さだめ)はない。アシを洗っても、一般男性は敬遠するでしょう。その代わり、富に溢れた権力者に贔屓にされ、庇護されるのが一番!

 それを考えれば、全盛期ならともかく、“謀反人”として、追われし、辛い逃避行を共にした静に、同僚達?も、さぞかし、呆れ返って「あのヒトったら…バッカね〜」「あんなヒトにノコノコついて行っちゃって〜」等と、陰で失笑していた筈。遊び女ですから、不利な立場の者にすがっては損と考えるでしょう。

 静の母、磯禅師も、白拍子の派遣等もしていて、当然、白拍子の接待で不機嫌になられたりもすれば、何とか気を取り直させたりとか、散々してきたのでしょうから、その道では“千軍万馬”であったと、思われます。

 それ故、娘の静に、「運命に抗わず、流れのままに生きていく方が幸せ!」と、白拍子として生きた母親として、更に、先に述べた、“鉄則”を、キッチリ言い聞かせてきたであろう事は、容易に考えられるでしょう。

 また、〈静〉から、お話が逸れますが…朝鮮では、妓生から生まれた娘は“妓生”として、養育すると、法で定められていたといいます。欧州でも母娘で、高級娼婦であったりも。ただ、イタリアのヴェロニカ・フランコ(詩人でもある)の場合、母親が、自分のニの轍は踏ませまいとの思いからか、娘には良い結婚をさせたいと、高級娼婦時代に培った、芸術・学問等を、ヴェロニカ幼少時より、施している。そのおかげで、高い知性と貴族令嬢にも引けを取らない優雅さを身に付けて美しく成長した彼女は、十代で裕福な医者に嫁ぐが、離婚してしまう。

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                     ヴェロニカ・フランコ(1546〜1591) 

その後、母親と同じ、“高級娼婦”として生きていく事になります。彼女にとって、生きていく選択肢は、良くて“修道女”ぐらいだったでしょうから…。時代が時代ですものね。

 そして、静御前ですが、義経と吉野山で、別れた後、母親共々、囚われの身となり、更に、〈鎌倉繁栄〉の祝舞を命じられるが、(鎌倉にとって謀反人)義経への“慕情”を歌い舞う。“レジスタンス精神”と、指摘される方もおられますが、謀反人に寄り添い、雪の中、厳しい逃避行、囚われた先で、その、謀反人への慕情を、次のように露わな表現で魅せました。

   「吉野山から 峰に積もった雪を踏み分け 奥へと進むあの人の 跡が恋しい」
   「静、静」と おだまきから糸が繰り出されるが如く 私の名を呼んでいた あの人との昔に戻れるものならば… 

 「鎌倉繁栄も、あのヒトが導いた、戦勝のおかげであった筈。吉野山に、一人残された私は…」とも、訴えている気がします。

 ところで、義経に寄り添ってから、鎌倉に留置される迄の、静御前に対して、素人娘とは異なる、

  高級遊女ならではの、“プロ意識”

等と、評価される方もおられるが、確かに、鎌倉側からの取り調べでも、毅然と応じたりしていたようですね。私としては、素人娘でも、ある程度、気丈であれば、耐えられるであろうと思うし、静自体、それ程“重要参考人”として扱われたか?と、甚だ疑問に思う所もあるのです。(義経に)寄り添っている間に、『奥州の藤原なら、東北一帯を治める程の力がある…』と、聞かされていたかも知れないが、女の身で、ひたすらついて行くだけと主張すれば、案外通るのでは…と。実際、捕縛された時、一人にされた上、手荷物の強奪とか、心許ない状態でしたから。

 それに、静御前のオツトメなら、❛(損得ずくの)オトコを見る目❜に長けてナンボで、世間から高く評価されている殿方に見初められても、人間的器と共に、権勢と富がいつまで続くか、万が一に、見限るタイミングを上手に図れませんと、いきなり、失脚でもされたら、高級遊女としては、やってられない。そういうものでしょう…

    “プロ”と言うのは!


 私が、静御前に対しては、どうしても…  

    慕情……

     ……それが、静御前

    プロ的……

     ……いくら何でもねェ…

  と、思われてなりません。

 

  お母さん…私はお嫁サンになれないの?
  よく考えてごらん。何が自分にとって幸せか…

    *遊び女の

     理(ことわり)あれど

     血潮ゆけ

     心で 伸ばす 

     この手 離さず

         

              プヨンでした🥱


    

   

   




 

  


 


 

    



 

 


    


 



 

 



 

 


 





  

  

 

  

         

 

 



 



未熟ながら、これを励みに精進いたします。 有難うございました👮