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熱量

前回の記事から随分と時間が経ってしまった。
僕は自他共に認める飽き性だ。
楽しそう!やるぞ!と意気込んだノートでさえも、最早飽きたといっても過言では無い。
ここ最近の僕の興味はもっぱらスケボーで、ふくらはぎを痛めつけながらも少しずつ上達していく楽しみをひしひしと感じながら、毎夜緑色のバスクリンで沁みる傷口を手で抑える日々だ。

なにごとにも、熱意を持って、且つそれを途切れさすことが無い人を心の底から尊敬する。
なにをやっても僕は続かないのだ。

そんな僕が未だに続けるラップだが、それはヒップホップという名の文化でありその一部、生活に根ざしたモノという風に受け入れているからだと思う。
僕にとってラップをするということは、生きるということなのだ。
生きるということに関しては、僕も頑張っているつもりだ。
でなければ、とっくに死んでる。
ここでのうのうと文を綴っているのがその証拠である。

何事にも熱意を持って、という書き方を冒頭にしたけれど、それを表立ってあらわにする際には時と場所を選ぶ必要がある。
熱いのは結構なのだが、それが高じて火傷をする場合があるからだ。
簡単な例として、色恋沙汰などはそのケースが当てはまりやすい。
好きの度合いが違いすぎると、世間はそれをストーカーと呼ぶのである。
自分の経験上、まあ偏見もあるだろうが、とにかく熱い人間は人の話を聞かない。
僕も友達と酒を飲む時などは熱くなる性質なので、同席する友人の妻などに疎まれてると感じる事が多々ある。
有る程度のバランスを保つためには相手の話にも黙って頷ける冷静さが必要だ。

こんなことがあった。
その日はとにかく嬉しい出来事があり、気心の知れた友人が僕をバーに誘ってくれた。
はちゃめちゃに騒ぐというよりは、静かにその喜びが噛み締められるようにと、隠れ家のような場所へ案内してくれたのだった。
店内は程よく薄暗く、マスターの趣味であろう綺麗に陳列されたCDが置かれ、心地よい音量でジャズが流れていた。
僕はマスターに今日が特別な日だということ。
この高揚を更に引き立てたいと伝えた。
数分後、僕の目の前に置かれたカクテルは
「ビトウィーンザシーツ」であった。
男2人、完全にゲイと思われたなと感じた僕だったが、そんな事はどうでも良く、小指を立てて勢いよく飲み干した。

徐々にアルコールも回り始めた頃に、同じく出来上がったのだろうおっさんの声が奥から聞こえてきた。
チラリと目を向けると、背広を着たおじさんと、マツゲがバッチリ上を向いた若い女の娘がテーブル席にいた。
時間帯から察するに、キャバクラのアフターであろう。

おっさんは、適度な音量のジャズを遮るようにウンチクをまくしたてるのであった。

「この○○のアルバムは××で録音されてさあ!」
「ウンタラカンタラドータラコータラでさぁ!」
「ねえ、マスター!」

マスターは静かにコクリと頷くばかりであった。

どうやら相当なジャズ好きらしいというのが、離れたカウンターに座る僕たちにも容易に見てとれた。
そのあまりの熱量が身振り手振り、全身に行き渡っている様を見て、僕の友人は笑っていた。

しかし、そのおっさんの向かいに座る女の娘は決して笑ってはいなかった。
小さなテーブルの下で携帯を握りしめ、視線は斜めに落ち、感情の無い相槌を繰り返していたのだった。

おっさんは、自分の好きなものを自分の好きな娘に伝えたかったのだろうが、その熱は強すぎて、逆にその娘を遠ざけているのだった。
打ち上げ花火は遠くで見るから良い。
近ければ熱いし、それは耐えがたい音だ。

その日から、誰かに自分の好きなモノを伝えるとき僕は、線香花火くらいから入るように心掛けている。

そして今夜もまた、そのキャバ嬢と思しき女の娘を探しに夜の街を徘徊するのであった。