史上最大のフィッシュ!?狂気の億万長者が大金持ってラスベガストッププロ達に挑戦した話
狂気の億万長者がラスベガストッププロ達に挑戦。その結末とは・・・
アンディ・ビールことダニエル・アンドリュー・ビールは、アメリカ合衆国の銀行家、実業家、投資家であり、アマチュア数学者としても知られていた。
ダラス在住の実業家で、不動産業と銀行業で富を築いた。
ビールバンク、ビールバンク・オブ・アメリカ、その他関連会社の創業者兼会長であり、フォーブス誌に最も裕福な男性の一人としても選ばれた経歴も持っている。
また数論学者でもあり、フェルマーの最終定理を一般化した「ビール予想」としても知られている。
アンディ・ビールは2000年3月まで真剣にポーカーをプレーしたことがなかった。
2001年2月にラスベガス・ベラージオのポーカールームを訪れ、リミットホールデムをプレーした。
いきなり$80/$160というハイレートをプレーし、更にその卓は$400/$800というステークスにレートアップされた。
ドイル・ブランソンの息子であるトッド・ブランソンは、このハイレートで戦う初心者が気になり、彼をヘッズ・アップに誘った。
驚くべきことにアンディ・ビールは若いプロをいとも簡単に撃破した。
この快進撃は、ハイステークスのポーカールームとして知られるボビーズルームのメンバーにも知れ渡った。
アンディ・ビールは銀行にベラージオへの送金を依頼し、次の2日間、更にプレーすることにした。$1,000/$2,000のミックスゲームハイレート卓をビールが訪れたとき、$1,000/$2,000のリミットホールデムが行われていた。
アンディは、2日目にして世界最高峰のハイステークスポーカープレイヤーに直面していた。
ドイル・ブランソン、チップ・リース、ジョン・ヘニガン、ジェニファー・ハーモン、シャオ・ジャン、トッド・ブランソン・・・
アンディ・ビールは、心の中ではそのレベルの高さに怯えていたがそれを表にせず、逆にレートを上げるように提案したのだった。$1,000/$2,000から$2,000/$4,000。2日目の終わりまでには$4,000/$8,000までになった。
このレートはベラージオが創業した1998年以来の最高ステークスとなった。
ゲームが進むに連れて、アンディにとっては少し物足りなくなってくるように感じ、レートの上限を釣り上げたのだった。このステークスの上昇は、アンディの興味を維持するとともに、プロを振るいにかけるものでもあった。
高いブラインドは、アンディ自身に対して良い結果をもたらすことを知っていた。何人かのプロは高いブラインドでのプレーに対して不快に感じ始めた。
アンディ・ビールはプロ達から10万ドル以上を奪い取った。
ただ、ビールは複数人でポーカーをプレーするよりもトッド・ブランソンとヘッズアップを行うほうがはるかに良い時間を過ごせると思ったのだった。
来月、ビールはベラージオに戻ってきた。
前回ビールが勝利した訪問ではそこまで関心が生じなかったゲームに対し、今回の訪問では多くのプレイヤーが詰めかけた。
ビールは複数人でのテーブルでプレーすることに飽き、ゲームの休憩中にジェニファー・ハーモンに近づき、別のテーブルでヘッズ・アップをするように提案した。
アンディ自身は気付かなかったが、この行動はハーモンに対して不快な状況に追い込んでいた。
ハーモンは、その要求を受けたくないということをどのように伝えればよいか分からなかった。
第一に彼女がアンディ自身とプレーしたら他のポーカープレイヤーが彼女に怒るだろう。
アンディはまだ自分がホエール(大金持ちのカモ)だと思われているということを気付いていなかった。
それ故、どれだけ掛け金が釣り上げられようと彼がいる卓は常に満卓だった。
ただ遊ぶためにラスベガスに来ている、ポーカービギナーの狂気の億万長者は、自ら率先してベラージオの経営陣と話し、ヘッズアップゲームを企画してもらうことにしたが、彼が得たのはベラージオにはヘッズアップ用の特定のテーブルがないという情報だけだった。
ポーカーテーブルは、全て複数人用の卓である。最小限のバイインがある限り、経営陣は誰かがテーブルに座ることは妨げることはできない。
アンディは空いた席の代金も支払うと申し出たが、それは許されなかった。
億万長者はイライラし、ヘッズアップができなければダラスに戻ると脅した。
全員にとって一番良いことは、ベラージオの環境が整い、ゲームが行われることである。
ドイル・ブランソンは解決策を提示した。
数人のプレイヤーがバンクロールを結集させ、そのうちの1人が非常に高いブラインドで全員のお金を持って彼と対戦するというものだ。
この方式のヘッズアップゲームは、ドイルが連絡を取り、ハイステークスの常連全員からゴーサインを受け取った。
チップ・リース、ジェニファー・ハーモン、ハワード・レデラー、ジョン・ヘニガン、シャオ・ジャン、デイビッド・グレイは共に100万ドルを賭け、億万長者に対抗することとした。
ポーカー界のゴッド・ファザーであるドイル・ブランソンが、億万長者に対抗する為にまとめ上げたグループが、後にコーポレーションと呼ばれ、この後数年間に渡ってアンディ・ビールと戦い続ける未来など、この日誰もが描くことはなかっただろう。
ドイルは交渉によって、ブラインドを$10,000/$20,000とし、ゲームは翌日に執り行われることとなった。
最小限のバイインがある限り、誰かがテーブルに座ることは妨げることはできない。
交渉により、彼らはヘッズアップゲーム実現の為に全力を尽くした。
しかし、どこからともなく誰かが現れ、テーブルに座ると言い出した場合、彼らはそれを止めることはできない。
しかし、100万ドルもの大金が動きうるゲームに参加できるプレイヤーは現れるだろうか。
いや、そんなことはあり得ないだろう。
だが、それが起きたのが2001年3月7日水曜日、ゲームの日だった。
2001年3月7日水曜日、テッド・フォレストは、ベラージオを訪れた。
彼は期待値が高い状況には、リスクをとってでも賭けようとする稀有なプレイヤーの一人だった。
テッドは、ドイルからアンディ・ビールについて何も知らされていなかった。
当時彼はカルフォルニアにいたため、両者間の交渉や金銭的な取り決めを知らなかったのだ。
フォレストは13時過ぎにヘッズアップが行われていたテーブルに座った。単純に稼げるゲームではないかと思ったからだ。
テーブルに持ってきた50万ドルが自分のバンクロールの全てであり、20分間でその80%を失い、後悔した。
40万ドルを賭けたにも関わらず、大きなアクションさえなかった。
だが彼は冷静さを保ち、数少ないビッグポットの1つでゲームのリズムに乗り、すぐにスタックを原点へと戻した。
フォレストはビールとヘッズアップを行っていたチップ・リースや見物人たちに話しかけることもなく、夕食の時間までにセッションを終え、100万ドル以上の利益を上げてテーブルを去った。
コーポレーションがどんなに癪に障ろうとも、テッド・フォレストは彼らが予定していたお金を全て持って立ち去ったのだった。
このような状況が二度と起こらないためにドイル・ブランソンはフォレストにグループに参加するように頼み、フォレストは翌日ビールとヘッズアップを行うことを条件に同意した。
アンディ・ビールとテッド・フォレストは翌日の午後にヘッズアップで再戦することとなった。
ビールは前日よりも更にレートを上げようと煽り、レートは$20,000/$40,000となった。
フォレストは、グループに対して200万ドルの利益をもたらし、次なる対戦者であるジェニファー・ハーモンに引き継いだ。
ハーモンは最初から主導権を握り、ゲームがほぼ完封となると思われた頃、アンディが大きなポットでラッキーなカードを引き、ゲームは続いた。
そして10時間後、ハーモンの前には5,000ドルチップを組んだスタックが大量にあったが、ビールの前には何もなかった。
アンディ・ビールが一連の試合で対戦した最後のプレイヤーは、ハワード・レデラーだった。
レデラーはそのポーカーに対する研究熱心な姿勢から「プロフェッサー」とのニックネームを持っている程の強者で、ドイル・ブランソンが数年前から世界最高のリミットホールデムプレイヤーと呼んでいた程の実力者だった。
レデラーは3時間も経たないうちにアンディを仕留め、100万ドルを獲得した。
レデラーは、ビールより更にアグレッシブにヘッズアップをプレーした。
ビールはヘッズアップの中、レデラーに対してチェックやコールという受け身なアクションをしていることに気付いたが為す術がなかった。
ビールは、世界最高のプレイヤーに対する挑戦は自分が望んでいたことではあったが、それは想像以上の失敗で終わった。
だが、ビールはプロ達への挑戦を諦めなかった。
ダラスへと戻ると、彼は独自のポーカーのプログラムを作成した。
52枚のカードの組み合わせから、様々なハンドが勝つ可能性を判断するために膨大な試行錯誤をした。
様々なシチュエーションを設定し、それを100万回実行し、異なる結果が出る可能性を確認した。
ビールは、ポーカープログラムを実行する時間がある時は、何時間もデスクに向かい、実戦では経験できないようなボード上の様々な組み合わせや様々な展開を試し、腕を磨きに磨いた。
アンディ・ビールは、最後にベラージオのポーカールームを訪れてからほぼ9ヶ月後、2001年12月11日火曜日にそこに戻った。
ビールは、世界最高峰のプレイヤー達をなぎ倒していった。
トッド・ブランソンに決定的な勝利を収め、ジェニファー・ハーモン、ジョン・ヘニガン、テッド・フォレスト、シャオ・ジャンらを一掃し、彼らから数百万ドルを獲得した。
チームは、バンクロールを再構築する必要が生じた。
プロ達にとっては、時間がかかり、意気消沈するような経験だった。
アンディがプロ達を倒すこと、そして彼が毎日それを繰り返すことに対して全く準備ができていなかった。
ポーカーテーブルでの4日間の激しい戦いの末、ビールは530万ドル以上の利益を上げた。
コーポレーションはビールに最後の一撃を仕掛けるために150万ドルを用意した。
ハワード・レデラーがヘッズアップでプレーすることが決まっていたが、テッド・フォレストがレデラー到着前に訪れ、ゲームを始めた。
そしてアンディは、2倍の掛け金である$20,000/$40,000でのプレーを要求し、コーポレーションサイドはそれに応じた。
フォレストは今回のヘッズアップの為にプランを練っていた。
当時、プロの間ではヘッズアップの通常の戦略は、可能な限りアグレッシブにプレーすることだったが、ビールは今回の遠征では引き下がらなかった。
それは、多くのハンドでショーダウンをプレーすることを意味したため、フォレストは伝統的な戦略を守った。
彼はややパッシブにプレーし、アンディにある程度ポットを獲得させるという考えを持っていた。
そして弱いハンドではなるべく戦いを避け、大きなポットのほとんどを自分が奪うという戦略を立て、それはすぐに功を奏した。
セッション終了後、フォレストはグループの資金のうち340万ドルを取り戻し、その後ハワード・レデラーが彼を打ち倒し、コーポレーションはビールの損失を全額取り戻した。
ビールにとって、その額はビジネスで失った額よりもはるかに大きかった。
ビールは、チップ・リースにポーカーはもう辞めたと伝えた。
しかしビールの脳は、無意識のうちにポーカーを手放すことを許さなかった。
ポーカーに触れなかった期間はあったが、新たな勝負に対しての6ヶ月近くの準備期間を経て、2003年4月に、ビールはラスベガスに戻った。
2003年4月8日月曜日、ビールはべラージオに送金し、ドイル・ブランソンに連絡を取った。
月曜日のほとんどが、掛け金に関する交渉に費やされた。
ビールはプロを快適なレートから連れ出すために、できるだけ高いレートでプレーしたかった。
ブランソンは$20,000/$40,000をプレーすることを提案が、アンディはその日の終わりまでに$50,000/$100,000をプレーしたいと考えていた。
両当事者は、最終的に$30,000/$60,000をプレーすることで合意した。
最初にバリー・グリーンスタインとプレーし、次にチップ・リースとプレーした。
チップ・リースから1勝した。
大した金額ではなかったが、彼が快適に感じるには十分だった。
その日遅くに再びアンディはトッププロ、ハワード・レデラーと対戦し、$30,000/$60,000のレートでレデラーは180万ドルの敗北を喫した。
ビールは初日を200万ドル以上リードして終了した。
翌日も同じ展開が続いた。
ジェニファー・ハーモンがビールと次に戦った。
3日間で彼女はビールを破り、約900万ドルを獲得した。
他のプレイヤーもビールと対戦しているが、ビールを敗者としてダラスに送り返した要因はハーモンの一貫した勝利だった。
ジェニファー・ハーモンの勝利により、彼らはアンディ・ビールが才能のあるヘッズアップ・ホールデムプレイヤーになっていることを無視することができた。
テッド・フォレストはこの対戦での敗者であり、ハワード・レデラーはほんの少しだけリードを取っただけだった。
アンディ・ビールはベガスに再び戻り、雪辱を果たすと誓った。
ビールは夏の間中、ずっと自分自身の研究に取り組んでいた。
彼は、勝利する為の何かを掴んでいると確信したが、それを実行するのは過去2回の遠征で予想していたことよりも遥かに難しいことが判明した。
彼はアグレッシブなスタイルで勝ちはじめ、基礎を理解することで競争力を高めた。
自分の問題点は、プロに主導権を握られていることだと考えた。
ラスベガスでのセッションは、終わる時間や帰る時間も決まっておらず、何日も滞在しすぎて長くプレーしすぎて集中力を欠いていた。
疲れると集中力が切れるので、アクションが読まれやすくなる。
些細な不注意でさえ、勝負には大きな影響を与える。
ビールはベラージオに1000万ドルを送金し、ビールとブランソンは、交渉へと入った。
ビールは、グループの選手交代能力を制限したかった。
交渉でグループは1日あたり2人のプレイヤーに制限され、少なくとも6~8時間プレーすることになり、アンディはその日いつでも好きなときに中断できるという条件が成立した。
新たな戦いでは、ジェニファー・ハーモンがビールの挑戦を受けることとなった。
1000万ドルをお互いに積み、朝の7時から午後の3時まで史上最高額のゲームをプレーした。
ビールは、ハーモンから300万ドル以上を勝ち取った。
大勝利だった。彼は世界最高のリミットホールデムプレイヤーの1人に勝利したのだ。
ベストを尽くせば、最高レベルで戦えるレベルであると改めて証明した。
次は、トッド・ブランソンがビールに破れ、ビールは初日に500万ドルの勝利を実現した。
だが次の日、話は別だった。
トッド・ブランソンは、ビールのミスに対して最大限の搾取をした。
ビールに対してアグレッションを握らせ続けたが、ビールが無理しすぎたとき、トッドが彼を罠にはめ、その得意とするスキルでビッグポットを獲得していった。
トッド・ブランソンの最終的な勝利は、2日間で1300万ドルだった。
アンディ・ビールは、春の敗北に繋がると分かっていたことをやってしまった自分に嫌気がさした。
プレーしすぎて自分が消耗し、望んでもいないコンディションでひどいプレーをした。
永久にポーカーから離れるか、それとも再挑戦するか。
しかし、永久にポーカーから離れるという選択はせず、アンディは2004年5月10日に再びラスベガスに戻った。
そして、$100,000/$200,000という史上最高のレートで戦うことを望んだ。
アンディ・ビールの到着は、グループにストレスと混乱を再来させた。
前回の訪問からグループは、$50/$100でプレーすることが平常であるメンバーが主となるメンバーに構成が変わっていた。
元のグループのテッド・フォレストを除くほとんどの選手は依然として所属しており、その上でガス・ハンセン、フィル・アイビーといった多くの新しい選手が加わっていた。
この時点で少なくとも15名のメンバーがいた。
対戦が始まり、アンディ・ビールはシャオ・ジャンから130万ドル勝利するも、ハワード・レデラーに630万ドルを失った。
グループは500万ドル差でリードした。
ビールは、様々な時期にコーポレーションのメンバーに対して、苦戦をしていた。
2001年のテッド・フォレスト、2001年のジェニファー・ハーモン、2003年のトッド・ブランソン。
しかし彼はハワード・レデラーに関しては格の違いを感じていた。
例えばトッドは、自分の弱点やプレーの失策を見つけてそれを利用するといった才能があった。
たとえトッドがリードを築いたとしても、ビールはそれらの弱点を補強することでそれと戦うことができた。
しかし、レデラーに対しての策についてビールは考えも及ばなかった。
ビールは、500万ドル負けくらい巻き返せると思った。
ベラージオにもっとお金を送金する必要があった。
ゲームの休憩時間を利用してドイル・ブランソンと交渉し、$100,000/$200,000という大一番でプレーしたいと提案した。
交渉の末、更にルールが追加された。
・アンディは$100,000/$200,000で最小5時間のセッションを2日間プレーしなければならない
・バイインは少なくとも1000万ドルとすること
・プロは1日につき1人しか使えない
・ハワード・レデラーとアンディは対戦しない
アンディ・ビールはハワード・レデラーを試合から外すことが重要と考えていた。
2004年5月12日水曜日、アンディ・ビールとトッド・ブランソンは、$100,000/$200,000という史上最もハイステークスのポーカー・ゲームを始めた。
午後3時30分から始まったセッションは、互角の勝負となり、午後9時45分にわずかなリードを奪ったアンディはこの日を終わらせることにした。
アンディは長くプレーしすぎた過去の間違いを犯したくなかったのだ。
次の日、プロ達は深刻な問題に立たされた。
ハワード・レデラーは出場禁止、トッド・ブランソンは疲労困憊。
ジェニファー・ハーマンは体調不良。
テッド・フォレストは今回チームに参加しなかった。
フィル・アイビーはアンディ・ビールと対戦しないと明言していた。
最終的にチップ・リースが彼と対戦することが最終的に決定され、史上最大の試合の2日目は午前7時過ぎに開始された。
アンディ・ビールは史上最高のポーカープレイヤーの一人であるリースとの対戦に怯むことはなかった。
午前11時40分までにセッションは終了し、昼食休憩となった。
ビールは、チップ・リースから800万ドルを獲得し、プロがテーブルに持ち込んだチップの供給はほぼ一掃されていた。
これは当時、歴史上最大の勝利セッションで、彼は史上最高のポーカープレイヤーの1人を相手にその記録を打ち立てたのだった。
プレイヤーたちは誰がビールと対戦するか議論し、次にハーミッドが対戦することとなった。
午後2時30分から午後4時30分までビールとプレーし、最初の1時間で午前のセッションで負けた半分以上の500万ドルを取り戻した。
午後4時半までにビールがゲームの主導権を取り戻し、ハーミッドから500万ドルを取り戻した。
ドイル・ブランソンは変化が必要だと分かっていた。
次にガス・ハンセンは、前任者のように自信を持ってプレーし、ビールからリードを奪い、あっという間に200万ドルを勝ち取った。
ハンセンのプレースタイルは、アグレッシブだった。
だが、このスタイルでのリードはビール相手には長く続かなかった。
テッド・フォレスト、ハワード・レデラー、ジェニファー・ハーモン、トッド・ブランソンらは、ビールをブラフで降ろすことができないことを学んでおり、ビールのアグレッシブさに対して様々な手段でで対抗していた。
経験豊富なプロがそのスキルをもってしても大きなポットを落としていった。
午後6時までにガス・ハンセンは、ビールに対し200万ドルを献上した。
更に200万ドルをブラフで失い、ハンセンは立ち上がった。
彼は限界に達し、ビールとの対戦を終えた。
ジェニファー・ハーモンはアンディの次の対戦相手となった。
ビールはクレバーなプレーでハーモンを破り、彼は500万ドルの赤字を帳消しにした上で150万ドルを勝ち取ることで、最終的に逆転を果たした。
ビールは2日間の$100,000/$200,000という史上最高レートの戦いで1170万ドルを獲得した。
プロは、大惨事となる損失を負った。
過去3年間ビールに対する彼らの勝利はそれをはるかに上回っていたが、そのお金はとっくになくなっていた。
さらにチームの何人かの新メンバーはそれらの勝利を経験したことがなかった。
ラスベガスのプロ達とっては最悪な夜だった。
そんな中、ジェニファー・ハーモンはある一つの予想を立てた。
アンディ・ビールは勝ち逃げしないと。
そして案の定、彼は2週間も経たない5月24日ベラージオに戻ってきた。
ビールはプロ達と交渉に臨んだが、勝利を経験したことのないプロ達の間で意見の相違が起こった。
1つは、ビールに対して高いステークスでの戦いを許したことだった。
プロ達が汗水流してかき集めた金が、$100,000/$200,000というあり得ないレートのゲームに費やされるのだ。
アンディ・ビールがハワード・レデラーを月曜日のゲームから除外するという決定により、戦いに対するプレッシャーは更に大きくなった。
ここでフィル・アイビーがアンディ・ビールの勝負を受けることとなった。
月曜、火曜とアンディ・ビールと連戦し、$30,000/$60,000というレートで戦った。
フィル・アイビーは前回アンディ・ビールがプロ達に勝利して以降、アンディとの対戦の機会を伺っていたのだった。
フィル・アイビーはここ数年で想像できうる最も成功したハイステークスプレイヤーだった。
2日間のプレーの中で、フィル・アイビーは本質的にアンディ・ビールを攻略していた。
5月26日水曜日、$30,000/$60,000のレートでトッド・ブランソンは、6時間で500万ドルの勝利をした。
アンディ・ビールは、500万ドルを失ったらゲームを止めるという決断を固守し、ゲームを止めた。
5月26日木曜日、500万ドルの勝負の後、アンディ・ビールはハワード・レデラーに対し、$50,000/$100,000というブラインドで戦った。
8時間近くヘッズアップをプレーし、ビールは930万ドルの敗北をした。
ビールは、最も手強い相手と対戦し、対戦相手がベストゲームをプレーし、重大なる敗北を喫した。
ビールは、ハイステークスポーカーから引退するか、それに近い時間を過ごすか考えるようになった。
だが、彼は自分自身で答えられない疑問を抱えることになる。
私は、このポーカーというものでどこへ向かおうとしているのだろうか。
日々の中で娘を散歩に連れて行ったりしつつも、プロ達と戦うために日々の中で莫大な時間を割いてきた。
5,000万ドルのビジネス取引のことと、ポーカーのこととで思考を彷徨っていた。
もう一度プレーするかに関係なく、何がうまくいかなかったのかに集中した結果、何が問題だったかを脳が理解し始めていた。
自分の負けの多くは、プロ達の優れたスキルによるものではなく、自分自身の弱さによるものだと確信するようになった。
1年後の2006年2月1日水曜日、アンディ・ビールはラスベガス、ウィン・カジノ・ホテルに戻ってきた。
ウィンポーカールーム、ハイリミットエリアはロープが張られていた。
そこには、ビールとコーポレーションのメンバーだけが入れるようになっていた。
レートが交渉され、コーポレーションは、$30,000/$60,000を提案したが、アンディ・ビールは、$50,000/$100,000を主張した。
最初に対戦したのは、ヘッズアップのスペシャリスト、トッド・ブランソンだった。
5時間の激しい戦いの後、アンディ・ビールは、160万ドルの勝利を果たした。
2006年2月2日木曜日、ジェニファー・ハーモンがビールと勝負することとなり、ディナーブレイクまでにハーモンが100万ドルの勝利を果たした。
デイビット・グレーとテッド・フォレストらは延べ100万ドルを失い、実質的にこの日の収益はイーブンだった。
2006年2月3日金曜日、テッド・フォレストが復帰し、フォレストはアグレッシブなスタイルを採用したが、ビールは変化したテクニックに影響されず、過去3日間で250万ドルの黒字でその日を終えた。
2006年2月4日土曜日、テッド・フォレストが再び戦った。
前日のよう結果にはしないと決意し、試合が午後7時30分に終了したが、どちらのチームにも大きな利益はなかった。
2006年2月5日日曜日、トッド・ブランソンとのショートセッションは午後4時頃に終了し、ビールは1週間で300万ドルの損失となった。
そしてビールはダラスに戻る飛行機に乗った。新たなヘッズアップを組むかは不透明だった。
2月11日土曜日以降の数日で起こる出来事に対して誰も準備ができていなかった。
ビールは飛行機に乗ってラスベガスに戻ってきた。
ラスベガスの地元のマスコミが報道を始め、世界中のポーカー愛好家達が最新情報に飢えていた。
全米放送のマスコミも独自に報道をし、ポーカー界隈は憶測の雑談やゴシップで賑わった。
2月12日日曜日、ジェニファー・ハーモンはドイル・ブランソンと共にポーカーテーブルへ向かい、ヘッズアップを戦うことになった。
正午には200万ドルのプラスとしたが、セッション終了時には500万ドル以上を失った。
2月13日月曜日、トッド・ブランソンはコーポレーションに250万ドルの勝利を一時献上したが、ブレイクまでの1時間でビールは逆転を果たし、そこから120万のプラスとした。
2月14日火曜日、テッド・フォレストは以前の損失700万ドルを瞬間的に取り戻したが、残り2時間でビールは350万ドルの利益を獲得した。
2月15日水曜日、テッド・フォレストはショートスタックとなるほどに敗北した。
そしてチップラックが空になるまで時間がかからなかった。
コーポレーションは1,000万ドルのバンクロールを使い果たし、ゲームは終わった。
コーポレーションは木曜日から始まるLAポーカークラシックの準備をすることとなったため、再びスケジュールを調整するためにゲームは一時停止となった。
コーポレーションは数年間にわたる利益はプラスではあったが、ビールは徐々にそれに近づいた。
コーポレーションはビールに対し、再戦を要求した。
ビールは、2月21日から23日までラスベガスに戻ることに同意した。
2006年2月20日、ビールはラスベガス行きの飛行機に乗り、ウィン・リゾートにチェックインした。
新しいチャレンジャーとテキサスホールデムを戦うために舞い戻ったのだ。
対戦相手は、コーポレーションのチームメンバーであるフィル・アイビーだった。
フィル・アイビーは積極的なプレーとテーブルへの揺るぎない集中力で知られている。
2月21日午後遅くにヘッズアップは始まり、ブラインドは$30,000/$60,000に設定された。
アイビーは、その日の対戦を通してほとんどリードを保っていた。
典型的な方法でアグレッシブなアプローチをし、セッションは午後7時に終了。
アイビーは数ラック分勝利していた。
コーポレーションのメンバーによって、その額は200万ドルであることが確認された。
2月22日水曜日再びヘッズアップを戦った。
再びアイビーが優位を保った。
その日、更に460万ドルの利益を上げた。
2月23日木曜日、アイビーとの最後のセッションとなった。
セッションの前に掛け金を釣り上げる交渉が始まり、話し合ったのは一瞬だったが$50,000/$100,000というブラインドに決定した。
対戦が始まると、ビールが数ハンドでチップを求めてラックに手を伸ばすのがギャラリーから見えた。
他のコーポレーションのメンバーが到着し、メンバー同士で慎重に話し合っていた。
彼らはテーブルのプレイヤー達が気を逸らさないように敬意を払い、テーブルから距離を保っていた。
それは午後1時ぐらいだった。
約4時間のプレーの後、両プレイヤーが突然立ち上がって握手した。
フィル・アイビーは、コーポレーションが直前の対戦で抱えた損失を取り戻し、更に1,000万ドルの利益を獲得したのだった。
アイビーの上げた利益は、1660万ドルだった。
アンディ・ビールは、コーポレーションのスポーツマンシップを讃えた上で、テキサスに戻ることを発表した。
1600万ドルの損失を理由にアンディ・ビールはプロ達に対する挑戦を辞めることを発表した。
それだけではなく、アンディ・ビールは二度とポーカーはしない。
少なくともフィル・アイビーだけにはと誓ったのだった。
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