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【『俗物』限定無料公開】「なぜ『俗物』なのか(全文)」

 本書は、「欲望」「ものづくり」「生活」という3つのテーマをもって構成されている。

 人生は、何かを「欲望」し、その欲望を満たすために「ものづくり」がなされ、そのものが届いた人たちの「生活」が変わり、また別の何かを「欲望」するという循環のなかにある。

 つまり、欲望は主体の起点としてある。にも関わらず、近年、欲望を声高に語ることは、わがままで、利己的で、自分勝手であると受け止められやすく、むしろそれに抑制的であることが謙虚で、利他的で、控えめと好意的に語られることが少なくない。
 それによって、自己の欲望を消失させ、どんな意向にも合わせられる人間であることがむしろ評価されやすいという状況への違和感がある。あたかも聖人らしく振る舞うことで合理的に(コスパ高く)生きようとすることが行き過ぎた世界において、その過剰さを引き戻すためのワクチンに「俗物(性)」がなりうるのではないか、と思っている。

『広辞苑 第六版』をひもとくと、このようにある。

ぞく‐ぶつ【俗物】 名誉や利益にとらわれてばかりいるつまらない人物


 では、聞きたい。名誉欲がなく、利益への関心が乏しく、SDGsが大切だ!と叫んでいれば「俗物」ではないのか、と。 では、聞きたい。名誉欲がなく、利益への関心が乏しく、SDGsが大切だ!と叫んでいれば「俗物」ではないのか、と。 

 無論、そうは思わない。
 むしろ「私は『俗物』である」という叫びこそ、「俗物」からいちばん遠い言葉であると思っている。つまり「俗物」という言葉を忌み嫌うひとほど「俗物」である可能性について考えている。だから「私は『俗物』である」可能性を否定しない、あるいは「私は『俗物』である」という率直すぎる名乗りにこそ「非・俗物性」があるように思うのだ。 
 
 今回『俗物』という本をつくろうと思ったきっかけは、2014年から2018年にかけてツバメコーヒーにて開催された「鎚起銅器職人大橋保隆個展」のこれまでを1回まとめておきたいというものだった。さらに2022年は大橋保隆が鎚起銅器職人を志して25周年であり、振り返るタイミングとしてふさわしいということもあった。 
 とはいえ、大橋保隆(あるいは彼がつくる鎚起銅器)についてだけまとめられた本にはしたくなかった。2010年代および2020年からはじまるコロナ禍を経て、大橋保隆の周りにいたひとたちやあった風景をまとめた本にしたいと考えた。 

 「図」と「地」のアナロジーで言えば、大橋保隆という「図」をできるだけ用いることなく、彼と鎚起銅器にまつわる文章と写真という「地」を本のなかに積み重ねていくことで、できることなら大橋保隆を知らないひとにも広く読まれる本であってほしいと思ってのことだ。 
 なので、『俗物』において大橋保隆自身による長い文章は掲載しない。そして、今回の出版をきっかけとしてはじめてお目にかかり、寄稿を依頼した方々による文章と長年お世話になってきた方々による文章をバランスよく掲載することにした。 

 読まれないあいだにも存在するという読むとは別のしかたで、私たちに影響をあたえている「装丁」についても工夫をこらしている。背中をそのまま見せる「コデックス装」で、製本途中で投げ出したような武骨さがありながら、表紙はグレイの布張りに書家・華雪による篆刻を箔押しした上品な仕上がりで、武骨さ/チープさと高級感/上品さが衝突している。
 まさに、小林よしのりによる漫画『おぼっちゃまくん』に出てくる「貧ぼっちゃま」の前から見たらスーツで後ろから見たら全裸、というあれである。 

 私たちに見えているのは一部に過ぎない。 


文章:田中辰幸(ツバメコーヒー店主)
挿絵:あんも


発売日前日の10月6日(木)まで購入可能な【事前予約限定】『俗物』セット(送料無料)はこちらから購入できます!!


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