(大きなお世話だが…)ろくでなし子さんの“マイノリティ特権”発言が差別的表現や差別意識の発露ではないことの説明

アムネスティ騒動の時にTwitterで“マイノリティ特権”をやり玉に挙げる人が結構居たので、大きなお世話、且つ、パターナリズム的、かも知れないけど、
その発言には差別的意識が含まれてないことを説明しておく。

例えば「反ヘイトの人たちは“部落概念を無くそう”発言のhonamiさん(反ヘイトの人たちはこの人を昔からよく知ってる)には一切の罵倒語も侮蔑語も向けてない。となるとろくでなし子さんへのクズだのバカだのは彼女への攻撃欲求により成されたのだ」と言うと“反反ヘイトだ”とか“ネトウヨをアシストしてる”と言われて「何も言えなくなる」。



先の「(ろくでなし子さんへの)言葉の暴力はあくまで言葉の暴力として成されたのだ」は一つの運動体の問題点に対しての公益性のある批判の筈なのに“反反ヘイト”とカテゴライズされたら何も言えなくなる。その口を塞がれた状態、批判が無効化される状態を、“マイノリティ(のアライ)特権”とか称するのは「反ヘイト批判が結果としてネトウヨの詭弁と語句一致した状態」である。マジョリティとマイノリティの非対称性を無くそうとする行為ではない。honamiさんの“部落の概念が無くなるのが解決”は差別荷担だが(だから丁寧に丁寧に優しく指摘されてる)、「言い返したくても全てレッテルで返され悔しい」という意味の“マイノリティ特権”には差別意識は存在しない。差別意識が無くても差別語は差別語だというなら、くり返すが、(反ヘイトとされている人たちである )野間易通さんのチョソン人発言や菅野完さんや佐藤剛裕さんのキチガイ発言にも、逃げずにきちんと対峙しよう。

『反ヘイトの人たちにされた暴言の告発は常に“ネトウヨの共犯”等という決めつけと隣合わせ。私の訴えは“批判を無効化出来る”“弱者特権”により誰にも聞き入れられない』という文脈の“マイノリティ特権”は在特会らの言うのと全くの別物。ろくでなし子さんの言った其は歯痒さの訴えだったと思う。
“ファビョはまだしもマイノリティ特権まで言ったのなら(ろくでなし子さんの)差別意識は明確だ!”と言ってた人がいたけど「差別意識」か無いのは明らか。炎上された側として反論が無効化された状況を指しているだけで、「非対称性否定」ではない

「ろくでなし子(さん)はぱよぱよ言ってる後ろではしゃいでるネトウヨを見てみぬ振りするな」に対して私が「ならゼロトレランスとか言いながらろくでなし子さんに向けられた酷い言葉を無かったことにする修正主義的態度もやめろ 」と言ったりするのは別に“反反ヘイト”ではない。反ヘイトの部分的問題点に対する批判をいちいち“反反ヘイト”だと言われたら「全部それで済ますんかい!そうやって無効化できて無敵なのは“マイノリティ特権”やな!」と言うが、それは反ヘイトと自身の対立上から出た感想であり、差別意識の発露ではない。語句自体が不適切(チョソン人とかみたいに)ではないか? という議論はあるとは思うが。

一つ例を挙げよう

「ジャッポス(ジャップの雄)」で傷付いた!謝れ!と言ってきた相手を私は

・DDだとする態度は差別への荷担
・非対称性を露にするミラーリングを許せないのは差別構造を認めてないから

とタコ殴り可。相手が私を「弱者特権を行使してる」と言っても、それは差別発言とは言えない。

(続き)「お前はマイノリティ支援の立場を利用して私の反論を全て無効化している」を「マイノリティ特権の行使だ」と表現するのは、二者間だけの事に対しての言葉なので差別発言にならない。言葉のマイノリティにも特権にも、差別語は含まれない。野間易通さんのチョソン人発言が許されるのと同じ理屈

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