「ディアラバ」



 僕の手の中のちっぽけな壜に閉じ込められたトロリとしたエナメルの光を確かめながら人の行き交う大通りを歩く。多分、これで良かったはずだと白いマニキュアの瓶をポケットの中にしまった。
 幼馴染みからの頼まれ事はいつものことですっかり慣れてはいたがマニュキアを買ってきて欲しいと頼まれるとは思いもしなかった。これで良いとは思うが保険として好物のミントキャンディーも買った。大概のことはこれでご機嫌を取ることができるはずだ。それでダメなら本人になんとかしてもらうしかない、多分、無理だろうけど。
当の買い物を頼んだ幼馴染の『冬』こと『冬架(ふゆか)』のアパートは市内の外れにあり、買い物したデパートから電車で三十分ほどの所に位置する。
冬はとにかく体力がない。体育のあとはこの世の終わりのような顔をして動かなくなるほどで、三十分歩くと1日分の体力を消費してしまう。
さらに言えばもともと出不精なのでその距離を移動するのは嫌なのだろう。
頼まれ事は慣れているし特に不満はないが横断歩道を渡りながらマニュキュアの壜と同じ輝きをもった人差し指の爪先をまじまじと眺める。
白く輝くその指先は購入時、女性店員に試し塗りされたものだ。
『お嬢さんには、そうね。この色がお似合いじゃないかしら。ほら、どう?』
……僕が男性だという主張はしなかった。
体つきも声も男性らしくない為、よく女性と間違われるが最近ではすっかり慣れてしまった。
指先は特に気にならなかったのでマニュキアを落とすこともなく街を歩き、冬のアパートの軋む階段を上る。
「冬、入るよ」
ドアノブを回すと声が返ってくる。
「あ、たっちゃん♪」
少しだけ空いたドアから聞こえるステレオミュージック。なんの曲だろうか。やけに陽気だ。
音楽に合わせるように長く滑らかな金色の髪が揺れる。
「おかえりなさい♪」
と、子供らしい高く響く声で。
玄関から入ってすぐのキッチンに立っていた冬が出迎えてくれた。
柔らかな微笑みでその大きな青い瞳を輝かせ小さな手を振る。その様子に、
「冬、どうしたの」
思わず、僕は尋ねた。
どうきたのというのは冬がキッチンへ立つことなど皆無に等しいからだ。冬のご飯は僕が作ることの方が多いくらいだ。
「えへ、たっちゃんにミートソーススパを食べて貰おうかと思ったけど……」
冬はその小さく華奢な体をもじもじさせると人差し指と人差し指をくっつけて顔を赤くする。
「無理でした」
その言葉通り。
ステンレスの流し台は無残な光景だった。
飛び散ったミートソース。割れたお皿の欠片。
皿の上でカチカチに固まった何かから香ばしい匂いがしている。
「冬、これは?」
「うん。あのね、冷凍キャビアを解凍しようとして電子レンジで……」
チョウザメの卵がチョウザメのゆで卵に。
「ご、ごめんなさい~!!」
謝る冬の頭に僕はポンと手を置く。
「いいよ。休んでて。僕が作るから」
「うん……。ごめんね」
「あ、冬、指……ミートソース」
僕はそっと冬の手を握り、その細い指先についたミートソースをなめる。
「あ……たっちゃん。あ、あ、あのいきなりそういうことは恋人同士でも」
冬は顔を真っ赤にして僕を見つめる。
別に恋人じゃないと言ったら怒るだろうから言わない。
「冬?」
「分かってないのに……。自覚なしでまたそういうことを……」
「自覚?」
僕の唇から冬の小さな指先が離れると、冬は両手の人差し指を胸の前で遊ばせた。
「あうう、もう。たっちゃんのバカ……」
「よく分からないけど、あ、これ……頼まれてた物」
僕は後ろポケットに入っていたマニュキュアを冬に手渡す。
「ありがとう~」
冬は両手で壜を受け取った。
「買うときに恥ずかしくなかった?」
「大丈夫だよ」
と、答えると冬の大きな青い瞳がまじまじと指先の輝きを見つめる。
「あれれ、たっちゃん、指先に塗られてるね?」
「女性に間違えられた」
「やっぱし。四月に比べて大分、髪が伸びたもんね。可愛いい女の子っぽいもん」
冬が可笑しそうに笑う。
女性と間違えられると分かって行かせるとは。
「あ、そうだ。たっちゃん、」
と冬は小さな手で滑らかな金色の髪をつかむ。
「御飯の前に髪結って欲しいのです~」
「いいよ」
僕たちはキッチンの隣のリビングへ移動する。
柔らかな日差しが差し込むベランダの側に僕たちは座った。
「いつものツインテールでいい?」
「うん。たっちゃんに結ってもらうために今日はおろしたんだよ」
「また、そういうムダなことを」
柔らかな金色の海原……
サラリと手の平をすべる滑らかな感触。
そっと冬の髪を白い紐でツインテールにする。
冬の髪は光を吸い込み輝いていた。
「はい」
「ん♪幸せです。ついでにマニュキュアもお願いします」
「指出して」
僕がそう言うと冬が細く白い手を差し出す。
ハケを近づけてすべらせると、薄く色付く。
「こうかな」
「なんだか、恥ずかしい……」
冬は自分が僕に抱きつくのは恥ずかしがらないくせに、僕に何かされるのは恥ずかしがる。
幼い頃から一人だった冬は与えられることになれてないからだろう。
「こうやって甘々してるのって幸せ~」
冬が恥ずかしがりながらも微笑む。
「冬、ジッとしてて」
指先に神経を集中させて、はみ出ないように一閃させるとさくら貝が色を変えて真白に光る。
「たっちゃん、上手だね」
「細かいこと得意だから」
「そうだね、お掃除、洗濯何でもできるもんね」
それは冬がそういうことしないから僕がそういうことを覚える必要があり、みなまで言うまいと僕は指を動かす。
ゆっくりと染め上げていく爪先が、十本揃って真っ白くなった。
冬がエナメルの輝きを帯びた指を僕に見せた。
「どうかな、どうかな?」
「うん。綺麗だよ」
「えへ。よおし。じゃあ、たっちゃんも全部塗ってあげる。おそろいだよ~」
ここで断っても諦めないことは分かっていた。
こういうどうでもいいことになると頑固になる。
それは昔から変わらない。
大人しく小壜を渡してやると、不器用な手つきでキャップを開け、小さな刷毛に零れるほどの液体をつけた。
「動いちゃ駄目だよ」
僕の手をつかむ。
息をのむような光の反射。白いエナメル。
同じ色がぼくの指先にも、そっと落とされる。
くすぐったいけど、冬の手の暖かさは嫌いじゃなかった。
「ん、完成」
爪先からはみ出て指にまでついていたが、冬は満足そうだ。
マニキュア落としのクレンジングは買ってあるが、今日一日はこのままにしておこうと思った。
冬が満面の笑みの後、僕の胸の中に飛び込んでくる。
僕はそれを受け止めた。
「ミートソーススパ作るから二人で食べようか?」
「うん……あ、さっきみたいな食べ方はダメだよ。で、でもたっちゃんなら……あうう」
「さっき?」
指先をなめた時だろうか?
「んん~。でも、もう少しこうやってたいかな。二人でこうやって……ここって私の居場所だもんね」
「私だけの居場所?」
「ん。居場所だよ」
僕の腕をその細い手でぎゅっと抱き締め、肩にもたれかかる。
「たっちゃんのいるここが一等好き。だから、ここは私の居場所だよ」
金色の柔らかい髪がくすぐったくて……僕にはそれが心地良かった。
「冬……」
エナメルの光沢。白い爪先。
僕の体を抱きしめる冬の指先は暖かくて優しい。
抱きしめようとした右手はどうすればいいか分からず、ただ冬の髪に触れた。
「ねぇ、たっちゃん……」
「ん」
冬が体をひねり、僕を見つめる。
ますっぐな蒼い瞳は僕を離さなかった。
「たっちゃんが私のこと好きじゃなくてもいいよ。まだ恋人未満だって分かってる……」
「……」
「それでも……。それでも私はたっちゃんが大好きです。大好きだから……」
「冬、目を閉じて……」
冬の顔を見つめながら僕は呟く。
そっと右手で顎先に触れる。赤らんだ顔で冬は頷いた。
伝わる冬の鼓動……。
「たっちゃん。ん……」
そっと顎先に触れたまま……僕は冬の唇に。
互いの顔近づく……。
「冬……」
「たっちゃん……」
「はい。キャンディー」
そっと冬の唇にミントキャンディーを入れた。
キョトンとしていた冬は、ムッとした顔になると僕を睨む。
「むぅ……たっちゃんのバカ」
そう言った後だった。冬が僕の腕の中に身を任せてきたのは。
「冬……僕は」
「いいよ」
「……」
「私の気持ちは変わらないもん。大好きだよ、たっちゃん」
「ん……冬」
僕の呟いた言葉は弱々しくて……すぐに消えていく。
ただ、柔らかな冬が暖かくて。
曖昧な僕と冬。
変わることを望む冬。
答えられない僕…。
すれ違ってばかりの僕たちを結ぶマニュキュールの輝き。
今は、もう少し、このまま二人で緩やかなぬくもり中をこうしていたかった。


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