最後の一杯のつまみとしての「さけるチーズ」

 satsumaimo

 晩酌しながら音楽を聴いたり、本を読んだり、スマホで麻雀をしたりして、ついつい杯を重ねて真夜中近くになると、数時間前に食べた夕食もこなれてきて、何かちょっとしたものをつまみたくなる。
 だいたいこの夕食とやらがお粗末なもので、空きっ腹にレモンサワーを一缶か二缶流し込んでからようやくキッチンに立ち、ほろ酔い加減ででっち上げるものばかりだから致し方ない。ある日は塩胡椒とガーリックチップをかけまくった「無限枝豆」、別の日はとうふ一丁にしらすや塩こんぶや刻みネギやポテチを山盛りに載せてごま油を回しかけた「とうふ二郎」、はたまた冷蔵庫に余っているゲロみたいな謎の残り物を全部和えた「泥酔パスタ」など、酒飲みの脳からしか生まれない、バズレシピならぬクズレシピが、我が家のキッチンで日々粗製濫造されてゆくのである。
 そんなクズレシピを腹に収めながらクズタイムを過ごし、しばらくはその余韻でつまみなしでも飲み進められるのだが、さてそろそろ最後の一杯という段取りに相成るやいなや、突如無性に口さみしい感じがしてくるのが常である。タバコをくわえてみてもどうも満たされぬ。かといって腹が鳴っているわけでもない(酒飲みはたいてい少食である)。ただ単純に、この「最後の晩酌」を心残りなく締めくくり、床につき、翌日ニワトリが鳴く前に三度目覚ましのスヌーズ機能を押し、全人類の二日酔いの罪を背負ってゴルゴダの丘に聳え立つ会社へと赴く、その永劫回帰のルーティーンを再び始めるための活力となるべき味覚中枢への刺激、ひいては快楽中枢への刺激をぼんやりと渇望する何かがふと湧き上がってくるのだ。
 さて、ぼくが愛してやまない「最後の一杯のつまみ」といえば、なんと言っても雪印の「さけるチーズ」である。いわゆるサイコロ型チーズや6Pチーズといったねっとりと発酵感のあるチーズもけして嫌いではないが、少し食べ合わせを選ぶふしがあり、食後感の口がねばつく感じも気になることがある。しかし「さけるチーズ」はそういったどんくささが一切ない、いわば近未来のスマートチーズだ。朝昼晩いつどこで食べてもおいしいモノなど他にそうあるものではない。
 ぼくは2袋セットをスーパーで買い置きしている。まずはこれを2つに縦裂きし、その1つを開け口からこれまた縦に裂く。裂く方向の徹底的統一感にメーカーのこだわりが感じられるではないか。
 そしてその隙間から、おもむろにニュルッと剥き身を取り出し、先端に口をそろりと近づけ、まずはなるべく小さく、ちいさ〜く歯でかじる。完全にかじり切らない塩梅を見計らいつつ慎重にだ。しかしここで突如として、勢いよく右から左へ手をスライドさせると(まるでハーモニカを吹くかのような音楽的な身振りではなかろうか?)、見事に剥き身はピロロンと裂け、その細くしなやかな繊維質の美しさを露わにする。そして歯の間から今やプランプランとぶら下がっているチーズを、やにわに舌で掬い上げて口内でコロコロとまとめ、いざ噛み始めるや否や、他のチーズにはないガムのようなキュッキュと音の鳴る独特のシコシコ食感が奥歯に当たって楽しく、さらに噛み進めるにつれて、「おおお、これはチーズだったのかぁ!」といったエウレカとともに、淡白な味わいと絶妙な塩味が感じられてくる。
 「さけるチーズ」の精製過程はモッツァレラチーズのそれと酷似していると聞いたが、水分をたっぷりたたえた瑞々しいモッツァレラと比べ、こちらはよりストイックで質実剛健といった良さがある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?