無題

私が思い悩む様々なことは賢い先人たちが何十年も、もしかしたら何百年も前に答えを出してるんだろうけど、愚かな私が自分なりに考えて、自分の言葉で綴ることはとても重要なことだと感じている。好きな年上の人が「この前と言ってること違うじゃんって言われたとしても柔軟でありたい」と話していて、その言葉にずっと救われている。間違うことが恐怖なのは変わらなくても、その恐怖ごと優しく包んでくれる。この先考えが変わったり、誤りを悔やんだりするんだろうけど、過去の私が何を思いどうやって生きていたのか辿れるのはきっと未来の私にとっても糧になるはずだと信じている。

実はもうすぐTwitterを始めて9年になる。13歳になってすぐアカウントを作ったのだが、思うところがあったのか都度ツイ消しをしていて、中高生の私を垣間見ることは不可能である。いわゆる道を踏み外した時期と重なっているので、その頃何を感じていたのか知る術を失ってしまったのは痛い。もちろん回想することはできるんだけどどんどん色褪せてしまうし、補うように今の私の価値観に照らして脚色されていくから厳密ではない。価値観って広がっていくものではなく変遷していくものだし。(ところで、自分の価値観でもって他者を推し量ろうとすることが相互理解を妨げるのかもという記事をずっと執筆しているんだけど、ダブスタだなとかブーメランだなとかいろいろ考えちゃってどうも筆が進まない。タイトル考えて下書きに放り込んでから2年以上経った。)
トゲトゲしてた思春期だけどその分こころの表面積も大きかったんだよな。ギンギンの感受性を持ってるうちに小説でも書いときゃ良かったなと思う。歳とって丸くなっていくだろうから、これからは比較的ギントゲの間に考えていたこと、たくさんここに書き残したいなというnoteでした。

TwitterはFF0で、好きな人たちをリストに入れて眺めている。陰湿でごめんなさい。たまにフォローされると恥ずかしくなってブロックしてしまう。本気で見られたくないなら鍵かければ良いんだろうけど、誰かが読んでくれている体で書くのが私のストレス発散なんだ。まあメンタルとしては定年後自伝を自費出版するお年寄りと一緒よね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?