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最近、絵にどきどきする(阿部展也の絵画についての所感)

阿部展也(あべのぶや)という画家がいた。半世紀も前のことだ。

1913年から1971年の間、彼はその生涯において海外を渡り歩き、作風を固定することなく、変化させながら生きた。

作風の変化。それは思想の変化だけでなく、手段の変容まで含む。
つまり彼は画家であり、写真家であり、批評家であり、中世墓石彫刻の研究家でもあった。この掴みどころのなさ!

フィリピンの戦い(1941‐1942)では陸軍に報道写真班員として徴用されたり、ワルシャワ、ニューヨークでは国際造形美術連盟の総会に出席、その他ミラノ、ローマ、パリなど世界中を飛び回り、貪欲に美術の潮流を吸収し続けた。彼について多くの研究がなされているがまだ不明な点が多いのも頷ける。作品に反映される思想が1日単位で変化していてもおかしくないからだ。

敬愛する画家の一人であり、語りつくすのは骨が折れる作業であるので好きな絵を紹介したい。

そもそも私が阿部展也のことを知ったのは偶然からだった。
去年、渋谷をたらたら歩いていたら偶々、眼前に松濤美術館というのが現れた。「なんでもないものの変容」と銘打たれた、写真を中心とする前衛作品の展示会が催されてるようで気になったので入った。
展示全体から非常な影響を受けたのは確かだが、特に鮮烈な印象で、家に帰っても頭から離れなかったのが彼の作品だった。

「妖精の距離」鉛筆素画:阿部展也・詩:瀧口修造(1937)

この作品群を観た時の得も言われぬ高揚。
直感的に絵と文字の連なりにどきっとした。格好良い。
液体なのか固体なのか、抽象的だがどこか生命感を感じさせるような、緻密な書き込みと、同様に抽象表現が多用された詩。

この作品について詳細なことが知りたくて、ネットや、この作品が載っている本も何冊か読んだが、どれもぼやけたような、正確な言回しは避けられているようだった。
これは今書きながら立てた予想だけれど、人生の集積というか、いろいろな経験がこのような抽象的な詩画を二人に書かせたのではないだろうか。シュルレアリスム的な思想の中でつくられた訳だから、当事者からしても感覚的なものだとすれば、第三者が“意味”の理解を試みることは野暮だろう。背景を知ることは重要だが、自分の直感も大切にしたいと思う。


《雑誌(みちしるべ)》の表紙(1943)

1941年、日本は真珠湾攻撃の十数時間後、「アジアの解放」を大義名分にフィリピンを占領した。阿部はフィリピンの日本軍に写真家として徴用されたが、現地のローマ・カトリック信者たちの宣撫を目的とした雑誌の発行にも携わった。

左手と無限に続くような道、蝶のようにひらひら飛んでいくフィリピン国旗。片手はシュルレアリスム的なモチーフであるが、それ以上に示唆的で少し不気味な印象を覚える。日本軍の占領による治安の悪化、独立後のアメリカ経済への依存など、この作品を見ると(結果論として)いくら手を伸ばしても届かない実際的な独立を表しているように思えてならない。
当時のフィリピンの人たちにはどう見えていたのだろうか。

《Jail Song》(1945)

フィリピンの日本軍の形勢悪化により阿部は収容所に抑留された。そのさなかで描いたのが《Jail Song》の連作である。
他にも数枚存在し、戦争を思わせる骨のモチーフと有機的なイメージが見られる。

《作品》(1961)

後期の作品。蜜蝋と油絵の具などを合わせて、バーナーで加熱しながらキャンバスに定着させる技法である、エンコースティックを用いて制作された。
具象的なイメージは消えて、ザラザラ、つるつる、ごつごつした物質的な表現の研究を画面上で行った。珊瑚みたいでとてもきれい。それか人が殺された後の枯山水を上から見てる感じ。

以上に紹介したのはまだ彼の作品のほんの一部であるが、戦前から戦後にかけての作品のほとんどが焼失してしまっているので、実際に目にすることは難しい物も多い。
手法がどんどん変貌するにも関わらず優れた作品を発表し続ける鬼才さ、現存していないというところも含めてミステリアスで、格好良い芸術家であるとつくづく思う。


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