言葉というもの

私は幼少期から言葉というものの不思議について考えてきた。

親によると、私は言葉の遅い子だったらしい。私が言葉を喋り出す前になくなった祖父は、この子はまともに話せるようになるのかと心配したまま逝ったという。その頃私は3歳だったはずだから、その歳まで碌に喋りもしない我が子を心配しない両親の方がどうかしている。

しかし、私には当時の記憶がわりとはっきりと残っている。人間は幼少期の記憶を後から作り上げて、いかにも真実のように思い込んでしまうものだという説もあるが、私の記憶は親や兄弟の話と一致するため、正確な記憶なのであろう。

思うに、私は私の中で言葉を完結する様に生まれてきたのだと思う。今の私も外部に発信するのが苦手なため、幼い頃の自分が話さなかったのも納得である。

本当に不思議なことに、私は口から出る言葉と記す言葉・あるいは頭の中で組み立てている言葉が全く違っている。お喋りは苦手なくせして、考えたり、文を書くのは好きなのだ。いや、好きというよりなくてはならない行為で、みんなが口から出す言葉で自分を表現するように、私は自分の想いを吐き出す手段が文に記すことしかないのだ。会話ではなく一方的な言葉の吐き出し。これっきゃないのである。
本当にお喋りの方はてんで駄目だ。無神経なことを言って人を傷つけたり、人の悩み相談に碌に答えられなかったり、簡単な受け答えだって気が利いていない。私の脳みそに散らかっている言葉と全く違うことを口が話し出したりする。でも、口の方が本当なのか、文の方が本当なのかわからない。文章の中の私は生身で生きている私よりずっとお利口で、いい子ぶりの知ったかぶりで綺麗な言葉を並べているだけの気もする。
お口の方が本当の私だとしたら、なんて人の気持ちのわからない、おまけにぼけっとしたつまらない人間なのであろうと怖くなる事もある。
おかしなことばかり考えるわりに薄っぺらな人間性をどうにかしたくて、針金の上に無理くり粘土をつけるみたいに、言葉でどうにかしようとしているのではないか。頭でっかちならぬ、言葉でっかち、なのではないか。

言葉というものを人とやりとりする手段として扱うのは、かなり挑戦的な行為だと思う。
ふりだしに戻るが、私は祖父が死んでまもなくお喋りをし出した。しかし、喋るという行為を覚えた子どもの頃、私は言葉の取り扱いに非常に苦戦した。というのも言葉というものの定義は非常に曖昧で、辞書を引いてもそこにあるのはまた言葉であり、掴みどころがないからである。私の中で理解している言葉の意味と、皆の解釈が果たして同じものなのかいつも疑問だった。
例えば『好き』という言葉一つとっても、私の中の好きの解釈と、相手の解釈は違っている可能性がある。とすれば、簡単に好きなんて言葉を使ったら、ひょっとしたら相手にとっては嘘になる事だってあるのだ。
そういうわけで、子どもの頃無口になった時期もあった。ようやく喋りましたと思ったらまただんまりだなんて、面倒な子どもだ。
周りには申し訳ないが、私は言葉というものに完全に疲弊していたのだ。
大人になって少し荒んだ私は、全く無口じゃなくなった。友達にはあんたは本当にお喋りだねって言われるくらいに。ここに書いてある事なんて私の話し言葉には出てこない。もっとずけずけ、品のないお喋りばかりしている。
いまだに言葉というものが怖いくせして、気をつけることに疲れ切って話す時は電源をオフにしている。おかげで人を傷つけて、後から脳内で一人反省会する始末。口に出さない自分とのお喋りで私は反省文を書く。

私は私としかまともに会話ができない。
その私自身のことをそれほど好いていないので、私は私の良き相談相手にもなってくれない。
だから私はいつも一人だ。誰だって孤独にはなるだろうけど、私と同じ重量の孤独感を抱える人がこの世にはどれくらいいるんだろう。
みんなは言葉が怖くないんだろうか。
こんなにも定義が曖昧で、そのくせ凶器にも人を温める道具にもなり得るもの。
資格もお金もいらないで、この世の全員に平等に使う権利が与えられているもの。そんなに自由に扱っていいものなのか。
口に出す言葉の方ではなく、文章だって人を傷つける事も癒す事も出来るはずなのに、何故か私は文章はすらすら書ける。ちょっと矛盾している気もするが、なぜかそうなのだ。少しくらい言葉を吐き出す方法がないと、脳味噌が煮詰まって死んでしまいそうな気がするから、文を書くという行為が存在していて良かったと思う。

また私は、読むという行為も好きだ。私と同じような人間の脳内お喋りを聞けているような気がするからかもしれない。その瞬間は、孤独ではなく私と作者の二人になれる気がする。
古典を通して、千年前の人間とも二人になれる。言葉は恐ろしいぶん、距離も時間も超えられる不思議な力が宿っている。
私の記す言葉も遠くの誰かがキャッチして、心に入れてくれたらいいな、と思う。おしゃべりがうまくできない私は、喋り言葉で誰かの心に入れなくても、一方的に記す文章なら誰かの心に入る隙があるかもしれないから。
祖父が心配していた予感は当たり、まともに喋れない私だけど本があってよかった。記すという行為もあって良かった。天国に手紙でも書こうかな。私は死んでも地獄だから、祖父にはもう会えそうにもないし。おかげさまで結構元気でやっていますよ、なんて書いてみよう。

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