勝手にふるえてろ

史上最強に共感できる主人公。勝手にふるえてろの主人公は、私にとって“まさに自分!”と呼べる人である。

今作が物語として面白いかと問われたら、正直よくわからない。自分にあまりにも似ているという共感性のみでこの物語を愛している私にとって、客観的にこの話を評価することは不可能だ。(そしてこの、共感性ゆえにものすごく愛してしまうという感情は、この作品のテーマと直結している)

現に、この作品の主人公ヨシカと似ても似つかない性格をしている友達にこの作品を勧めた時、彼女は苦い顔をして言ったのだった。
『うーん、これニとも続かなさそうだよねえ』と。

そうじゃない、徹底的にそうじゃないのだけれど…なるほど、この作品を楽しめるか否かはヨシカに共感できるかにかかっているのかもしれない。

大前提この話を知らないと今回のnoteはよくわからないと思うのだが、一応ざっくり説明しておくと、このお話は高校時代のクラスメイト“イチ”に長年片思い中のOLヨシカの物語である。ヨシカは話した事も数度しかなく、今はもう数年会ってすらいないイチに思いを寄せ続ける一方で、全く好みではない会社の同僚“ニ”からアプローチを受ける。片思いの辛さに共感出来ること、またはじめて告白され満更でもなかったことからニを手ひどく振ることはできないが、決して好きにはなれない。
そんな二人の男性の間で揺れ動くラブストーリーだ。

が!

私はこの話を“ラブストーリー”と解釈してはいない。これはヨシカが自分という分厚い心の扉をほんのちょっと開けるまでの物語なのだ。

ヨシカは作中何度もイチや、ニや、会社の美人な同僚や、過去のクラスメイトなんかに心の中で勝手に呼びかける。こいつはこんなやつでしょう、だから嫌。この人はこんな人でしょう、だから好き!つまりヨシカはずっと、他人と会話なんかしていないのだ。ずっと自分自身とおしゃべりしている。他人と話しているようでいて、向き合ってるのは自分でしかない。そして、そのことに無自覚なヨシカは勝手に人に傷つけられたと憤ったり、傷つけてやると暴力的になったり、一人相撲を繰り返しているのだ。

勝手に相撲を取っているヨシカの心のドアを、無神経にドンドン叩いてくる男がニだ。
うざったい。だけども、このドアを開けたら何かが変わるんじゃないか、ヨシカは心の奥底でわかっている。心の中には大事にしているものが沢山ある。それはイチとの思い出だったり、大好きな化石のコレクションだったり、テクノミュージックだったり。踏み荒らされるのはごめんだけど、部屋でひとりぼっちお相撲をとってるわけにいかないことくらい、わかっている。特にイチに自分の名前を覚えられていないとわかった辺りから、その気持ちは明確になっていく。

そうして、頭の中に蠢く様々なことがパンクして自暴自棄になったヨシカは、ニ相手にドアを開けてみるのだ。今まで少しも開けなかったくせに、雨風吹き込むくらいの全開オープン。
そうかと思えば今度はニの腰が引ける。好きだからって、何でも許して受け入れてもらえると思うのは甘いのだと。

あーもう、この辺りがこの話のミソで、人間って本当に、どうしてこう綱引きみたいに引っ張りあいっこしたと思ったら力が緩んで、上手にいかないものなのだろうとやきもきしてしまうのだ。

“好き”という言葉を盾に何でも許してくれと、好きを振りかざして自分をアピールしていたヨシカ。たしかにそれはものすごく不誠実なことなのだ。恋愛においても、恋愛外の人間関係においても、これは自分との対話でしかない。好きなんでしょう、だから受け入れてくださいというのは自分勝手な妄言である。

ただ、ニもニだ。ヨシカのことを散々好き好き言っておいて、いざヨシカが心のドアを開けてみたらこの返し。ヨシカ派の私としてはふざけるなよ!と言いたくなる。自分勝手vs自分勝手。好きを盾に何でもしていいわけでないけど、好きなんでしょう、知りたいんでしょう、なのに逃げるなんて都合がいい!と怒鳴りたくなるその気持ち。この私がドア開けてるんだぞ!という、他人からしたら『知らねえよ!』と突っ込みたくなるような傲慢な気持ち。でも、本当にそうなんだ。この私がドア開けてんだぞ、ふざけんな!

そうして物語はラストに向かっていく。最後のこの1ページのために、この物語は存在するのだと思う。ヨシカは、自分の部屋の中にニを招くのだ。多分、生まれて初めて。自分ではなく他人の愛を信用するのは、ヨシカ兼私にとって挑戦でしかない。でもそうしてニは初めて、ニではなく霧島くんというひとりの存在になれた。

この爽快感がたまらなく好きなのである。時間をかけてかけて、正直言って面倒くさいヨシカの心の一人芝居を長々見せられて、最後にバンジージャンプで跳んで行くようなこの爽やかさ。
人が一歩踏み出すということを、ここまで内面的なものに特化して描いた作品があっただろうか。

ヨシカの中に起きた革命を、こんなに丁寧に描いてくれてどうもありがとうとしか言いようがない。他人から見たら小さくてわからない心の中の戦争だけど、ヨシカみたいな私にはよくわかる。

好き、と口に出してみる。私のよくいう好きというのは何なのだろう。ヨシカがイチを好きだったような、勝手な共感性?言われてみれば、自分との対話だけで人を好きになっているような気もする。ただし、この作品のように、その身勝手な好きはどこかで相手を救っていることもあるかもしれない。実際、イチはひとときでも、ヨシカの言葉に少し動かされたはずなのだ。それが人生を揺るがすような、好きという気持ちではなかったにせよ。

恋において、また恋ではない人間関係において、自分の心の扉を開けるという行為は重要である。そして、繊細にて取り扱い注意である。
特に私の心のドアの蝶番はぶっ壊れているから、そう簡単に開けられない。部屋の中で好き勝手、人のことを好きになったり嫌いになったり、評価を下したりしているだけだ。

私もヨシカのように、ドアを開ける瞬間が来るのだろうか。これは待っているものではなく、自分から開けなくちゃいけない物だとわかっているけど。

私の心のドアは今日も閉まりっぱなしだ。

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