記憶

私は小さな頃から、忘れることがとても怖かった。

物忘れとかそういうものではなくて、今確かに考えていることや行なったことがポロポロと記憶からこぼれ落ちてしまうことに恐怖を感じていた。

その証拠に子どもの頃の日記を見返すと、なかなかに面白いことが書いてある。
『今私はリビングのテーブルの上で、こんなものを下敷きにして、こんなペンを使って何時にこれを書いている』というところまで記してあるのだ。

頭が弱くて書くべきことと書かなくていいことの取捨選択ができなかったのではなくて、私はあえてなんでもかんでも書いていたのだ。随分前のことだけれど、よく覚えている。
その日起きた印象的な出来事は未来の自分も覚えているだろうけど、細かいところは忘れてしまうのだろうと思うととても怖くて、一から十まで書き留めないと安心できなかったのだ。

大人になったわたしからすると、なんだか必死で、可哀想だなあと思ってしまう。
君が何時になんのペンを使って、どんな風にどんな姿勢でこれを書いていようとどうでもいいよ、と。

でも私は、私の記していることがどうでもいい出来事なんてよくわかっていて、実際にこうして未来の自分に届いたのだから作戦は成功だったと言えよう。

でも本当に、君が怖がっていたものはどうでもいいんだけどなあ…と繰り返し思ってしまうのだけど。当時の必死な自分が、なんだかちょっと切ない。


こんな事もあった。
高校生の時、おじさんの先生が授業中にふと言ったのだ。
『君たちはさ、こんな風に僕に授業教わって、今こんな風に話をしていることなんてすぐに忘れちゃうんだろうね』と。

授業内容を君たちは忘れてしまうだろう、という意味ではなくて、自分が今こうして話している瞬間を忘れてしまうんだろうという意味合いの言葉だった。
先生が子供の頃の私ほどの切なさを持ってそんな事を言ったのか、あるいはただの軽口かわからないけれど、わたしはなんだか胸がきゅうきゅうして、絶対に覚えていますよって思った。
なんでもない日のなんでもない言葉だったから、あの日教室にいた他三十数名の生徒はきっと、忘れてしまっているだろう。先生の言った通りだ。


そうして大人になった私は、忘れることよりも忘れられることの方が怖くなった。

もう会ってない友達、遠い昔関わった人々は、きっと“私”って存在をまるごと忘れているんだろう。
だとすれば、一緒にいて楽しかった瞬間の記憶ってどこに行くんだろう。

私は多分、いや絶対に他の人と比べて存在感が薄い方だ。皆さんご存知の通り陰キャだし、忘れるも何も始めから私のことを認知していなかった同級生も多いに違いない。

でも私の頭の中には色々な楽しかった瞬間や悲しかった瞬間がある。私は覚えているけれど、相手の頭の中からはすっかり忘れられているとしたら、ちょっと悲しい。


あの人は私とああしたこと忘れちゃっているかな、と思うことが沢山あって、悲しくて仕方なくなる。
忘れるって機能は人間にとってとても大事なことだから、仕方がないのに。

そうして私にもきっと、確実にそこにあったはずなのに忘れてしまった記憶がいっぱいあるんだろう。実際、こんなことを言っても私忘れっぽいし。この前も言ったじゃん!なんて言われがちだし。

私は多分無欲な方で、目立ちたいとも思わないし他の人よりも秀でていたいとも思わない。友達にとっての一番になりたいとも思わなければ、大成功を収めたいとも思わない。
でもひとつだけ望んでいいなら、私のことをみんなに覚えていて欲しいのだ。
いや、みんなじゃなくてもいい。たった一人でもいいから、私って存在を丸ごと忘れられちゃったら悲しいのだ。
一緒にいる今この瞬間私のことを思うのではなくて、私が目の前からいなくなった後で、何かの拍子にでもいいから私のことをちゃんと思い出して欲しい。すっかり忘れたりなんてしないで欲しい。

あの人って面白かったなあとか、変な人だったなあなんて感想はいらないから。
あーあんな人いたなあって、思い出して欲しいのだ。
なんだかそれで私は凄く、救われる気がする。

ネットで会った友達も、いつかはすっかり会わなくなるんだろう。現実世界の人間関係よりも、きっと縁が希薄なはずだから。

だからきっといつか会わなくなっちゃうみんなにひとつお願いだ。
いつかずーーーっと未来の世界のどこかで、私のことをふっと思い出してください。

まあ、このこともきっと、忘れられてしまうんだろうけど。

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