無償の悪意に汚されない美しい人形供養
お雛人形などの人形供養で有名なのは東京では上野の寛永寺の清水堂
関西では淡島神社といったところか
私は上野に持っていって供養してもらった
他にも博多人形とか 生まれた時に 頂いた人形が沢山あるでしょう全部まとめてで一式の値段でいいですよと言ってくれた
帰る時はやっぱり泣いてしまったが、 清水堂の人は
「ここに来ればいつでも会えますよ」と言ってくれた
私はそれが嬉しかった 上野の寛永寺の清水堂だったら
子供の頃から よく来ていた場所だしこれからも来ることができる
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しかし家の残置品を 処分してもらった処分業者がその話を聞いて ニヤニヤしながら
「その 人形はどうなるか知ってますか 全部まとめてゴミとして捨てられるんですよ」 といった
わざわざそんなこと言われなくても 分かっている 物理的に お堂に納められたものを全部取っておくのは不可能だ。
それでも寛永寺の住職さんが自らお経を上げてくれる。
ここに来ればいつでも会えますよと言ってもらえる。
それは、 ただの不用品回収業者にゴミに出すのとの違いだ。
しかも不用品回収業者の人形供養を歌っている 会社というのはだいたい10万円。
ガレージでお坊さんを呼んでお経をあげると言っているがそれは本当かどうかわからない。
上野は全て博多人形も含めて3万円だった。
お金の面でも ありがたかったしそれ以上にやっぱり気持ちの問題が嬉しかった。
私は子供じゃないから 当然その人形が永久にそこに保存されるなんて思ってもいない。
お経をあげた後はしかるべき処分を受けるのだと思う。
物理的には処分されても、 そこに 収めたという記憶気持ち 魂は そこに残る。
私が不愉快だったのはその不用品業者が そんなわかりきったことをわざわざ鬼の首を取ったように私に言って来たことではなく、
そんなことをわざわざ言う事で私が傷つくと 侮られたことによるものだった。
実際分かりきったことでも言われれば不愉快である。
そしてそれと同じくらい不愉快なのは そんなことを言う事によって傷つけてやろうという悪意だった。
私は子供の頃から人間には無償の善意というものがあるのと同様に無償の悪意というものがあると感じていた。
私は存じ品業者に入っていただいて感謝していたが
このような無償の悪意は 全てを台無しにする。
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人形を上野に納めた日は
快晴だった。
あの美しい夏の空
いつも見ていた 真っ赤なお堂の 入り口の しだれ桜 西郷さんの像
私の記憶の中でそれは永遠に
美しい記憶として
残ればそれで良い。
人生は自己満足だから私はそれで良いと思っている。
人は信じたいものを信じればいい。 見たいものを見ることしかできない。
美しい記憶は、無償の悪意なんかに汚されたりしない。
私の中で永遠に美しく光り輝く。
私の人形供養は美しかった。
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