民主主義社会的死刑

https://newspicks.com/news/3199810

日本国憲法の拠って立つ、普遍的基本的人権と公共的社会契約という前提があっての、罪刑法定主義。
罪の重さというのは、普遍的に決まっている訳ではなく、絶対君主制に於いてはその体制の転覆を図る事が重罪で死罪に値する。
死刑が殺人にのみに拠るという訳ではない。
国家が刑事罰として罪刑を法定して課す事ができるのは国家が社会に何を負託されてあるかに拠る。
日本の場合は上記の民主主義思想に基づいた社会国家がその拠って立つ所なのでその視点で見る事が必要。
なるべく問題が出ない様にが冤罪もあっても仕方がないというのでは、全く民主主義的価値に反するしね。

刑事罰というのは公共社会契約価値を以て課される。
殺人は普遍的基本的人権の侵害の最も重いものなので、公共的社会契約的に最も重い刑罰となる。
只、それが殺人人数で重さが量られるというのも本来変な話で。
殺された側それぞれの者からすると、その生命が全てなのだから。
他者の命を奪ったのだからそれを自身の命で贖えというのは、民主主義的公共社会契約価値ではないよね。
それなら仇討ち権を民事で付与する方が理に叶ってる。
それを公共価値で取り上げたのだから、それを国家が代執行というのは変な話。
それなら被害者側が死刑を望まない場合は死刑を課すべきでないとなる。
罪の重さに罪刑を、というのは社会契約価値の何を守る為なのかに拠る、民主主義社会では。
多分何だかんだで死刑については日本の場合「被害者感情」に拠ってある様に見える。
ここでいう「被害者感情」というのは、実際の被害者の感情ではなく、社会全体に於ける大衆感情の事ね。
つまり実際の被害者そのもの以外には、市中引き回し刑の一種のバリエーションの様に見える。
被害者以外も石をぶつける権利をという様な。
懲役刑などは、社会から隔離されるという事が公共社会的に意味はあるけど。
被害者以外にとっては終身刑と死刑は社会的意味は変わらない。
オウムについては、存在そのものが社会の脅威として、死刑者以外も抹殺したいのではないかな、その「被害者感情」的には。
それが最も端的に現れているのが「麻原彰晃」の遺体の扱いで。
死刑罰が課されれば全て終わりのはずなのに、それに対してのその後の対応が不自然すぎる。
結局それは日本社会が麻原彰晃を松本智津夫とする事を失敗したという事。
それは民主主義的価値を以て対する事に失敗した事を意味する。
大衆的「被害者感情」というのは共同体的価値ではあっても民主主義的価値ではない。
見てると死刑制度擁護論者と反民主主義的価値擁護者って、かなり被るんだよね。
逆に、民主主義思想社会が浸透した国程、死刑制度廃止している傾向にあると思う。
結局日本でこれだけ死刑制度擁護が多いというのは、民主主義的価値がそれだけ日本では浸透してないからではないのかな?。

普遍的基本的人権を元にするのは、人間にプラスの価値があるからではない。
そこを起点の基準にする為。
だから社会的にプラスがマイナスかを基準に、その存在そのものを社会として抹消するのは民主主義的には違う。
これまでの生い立ちとか関係なく、最初からぶっ壊れた人間がいて、その者が殺人鬼としてあったとしても、その者と対する為には人間と扱うしかない。
何故なら人間とした扱わない場合、それは公共社会外部のある種の怪獣とかと同じ存在になるから。
人間社会が「厄災」と対峙するというあり方になってしまう。
そして人間に対して、その線引を始めたらそれこそ、人間存在の境界線そのものが曖昧になってしまう。
ヒトラーにとってはそれがユダヤ人だったのだろう。
麻原彰晃にとっては、それは麻原を認めない者達だったのだろう。
だからこそ、麻原彰晃を本当は私達は徹底して松本智津夫として扱うべきだった。
どんな妄想に取り憑かれたぶっ壊れた存在であっても、人間として見る。
そうして私達の社会は人外の「厄災」と対峙する事と避ける事が出来る。
その上でその人間に対して社会はどう対するのか。

個人的には民事的に仇討ち権を認めるのはありかなとも思う。
本当に石をぶつけ返して良いのは、石をぶつけられた者という観点からすると。
それを国家が取り上げて代執行するというのは、別に民主主義的ではない。
死刑執行付与権付き終身刑。
被害者遺族がそれで死刑を望めば民事裁判を起こしてその執行権を。
そして自身で死刑を与える。
「殺人」の重みは片側だけのものではない。

追記

>社会統治の為に国家が暴力装置を<
これは否定しない。
警察力などもそれに当たる。
只、その使い方が民主主義社会価値に合致しているかどうか。
そうでないと警察力も統治者抑圧になる。

罪刑法定は社会的位置付けを確定させるものとしてあるというのも同意。
だからこそ、その基準が問題となる。
安全性が高い社会程罪刑が重くなる傾向というのはどうかな?。
まあでもマジョリティ感情としては分かる。
でもそこを基準にする事は民主主義社会的に正当な事なのか?という提起。
共同体主義に於いては基準には成り得ると思うけどね。
だから日本は民主主義よりも共同体主義の方が死刑廃止している国家よりも強いのかなと。

追記2

公共社会として、社会にマイナスが極めて大きい者を一般社会から隔離することは、公共社会契約価値として認め得るとは思う。
一般社会の安全性の為に。
故に懲役禁錮刑や終身刑は設定され得る。
一方普遍的基本的人権価値として拷問刑は許され得るのか。
正直時間を掛けた残虐虐待の末に殺人を犯した様なのは、同じ時間だけ同じ苦しみを与えても良いのではと個人感情としては思わんでもない。
でもそうするとこちらも人非人になってしまう。
相手が人非人だからこちらも人非人になるというのなら、そこには起点となる普遍的基本的人権価値は存在しなくなるのではないか。
そうなるとそもそもの拠って立つ正当性を失ってしまう。
それでも個人的権利として被害者側がというのならまだ分かるが、それを社会の全ての成員が刑事罰という形で成す権利と義務は公共社会価値として導き出されるか。
だからそもそもの拠って立つ民主主義価値を擁護するが故に。

近代的個我が理性にのみ拠ってあるとは思わない。
だから宗教信仰の様なものも守られる価値として擁護される訳で。
近代社会の発見はそれぞれの人間の個が起点となって人間社会はあるということ。
その個の内に負託された公共社会契約も自然的にある。
共同体主義の場合は共同体が主体で個はその要素。
だから共同体価値に合わない個はパージされ、また共同体価値の為に個が犠牲を強いられる事も正当化される。
その共同体価値が何に拠るかはそれぞれの共同体に拠る。
多数者専制がそれに当たる場合もある。
がそれは民主主義とは異なる。
そしてどんな共同体であっても個が無くて成立するものはない。
個は実存だが共同体は故に幻想。
本当は共同体も個の内にある。
個の内にある形なきものが、公共的社会契約として展開されるか共同体として展開されるか。
だが共同体として展開される場合は、様々な共同体同士のぶつかり合いが起き、結局は万人の闘争は回避されない。
また前述の様に共同体価値に合わない者のパージや価値の為の個の犠牲も。
そこには普遍的基本的人権はなく、共同体が認める範囲の人権となる。
この人権の考え方は中共などが採っており、また自民憲法草案などもそちらの考え方に拠ってあると思われる。
だが現行の日本国憲法はそれには依拠しておらず普遍的基本的人権と公共的社会契約に依拠している。
共同体主義展開の場合は、万人の闘争を前提とし、また実存的個に依拠してしか存在し得ない共同体幻想を主体とするという自己矛盾を起こす。
民主主義展開の場合は、万人の闘争を回避し、また実存的個に依拠して公共的社会契約があるので矛盾はない。
万人の闘争を回避する場合は、自然的に民主主義が設定されるというのはその為。
勿論、普遍的基本的人権をどの様に捉えるか、公共的社会契約はどの様に設定され得るかはある。
だからそこを見て考えて行く事は必要。
現実との乖離があるとすればそれは万人の闘争を回避という点。
でもだからこそ出来うる限り回避する為に民主主義の進展が必要。

フーコーの「生命政治」は公共的社会契約自体が、一種の共同体主義であるという見方だと思う。
でもだからこそ、公共的社会契約は外部化されたものとしてではなく、個に内包されたものとしてという点がポイントになると思う。
フーコーが個人の倫理として示そうとしたのはそちらの方向だった気がする。

追記3

憲法に依拠してではなく人に依拠して。
日本人であることも人に付随する属性に過ぎないので、それは後の話。
現時点に於いては実存的存在は個に拠ってしかないので、その前提をどうこう言っても仕方がない笑。
それは思想ではなく現時点に於いては自然的事実なので。

社会が個から構成されていることは悲劇であると同時に希望でもある。
その時点で存在している社会や集団規範に対して、個から変革出来る可能性を持ち得るのだから。
既存の体系体制に基づかなければならないならその枠を超える事は出来ない。
但し故にこそ価値観がぶつかり合う万人の闘争も発生する。
それを乗り越える為の公共的社会契約。

公共的社会契約は理性的産物にしか過ぎないならそれは正に幻想だろう。
それぞれの価値観を尊重し合う事はその時々の理性に依拠し、故に人類の歴史は闘争と平和の繰り返しの歴史だと。
だがそもそも公共的社会契約は、万人の闘争を避ける事を前提とした場合に自然的に設定されるもの。
それを避けたいというのは、単に理性的なものだけではなく感情や本能にも拠ってある。
まあ逆の破壊衝動もあるけど。
つまりどうあれ必要な事はどれだけ万人の闘争を避けるという事を置けるかということ。
それを置こうというのは一般社会的には変な話ではないはず。

そして集団主義自体を否定している訳ではない。
社会の中には必ずコミニティは発生しその最も原型は家族だろう。
だから原初の集団は血族集団であったはず。
只それがぶつかり合う事も数多経験して来た。
それが歴史と言って良い位に。
だからこそそれを避ける為に社会が出てきたのだと思う。
集団は元々実存的には幻想だが、団としてある時点で一つの個である。
そういう意味では個人も集団も社会的には並列に置き得る。
只、それもあくまでも人の実存に内包されてあって。
ポスト近代の鍵は個の人の内にどれだけのものが内包されてあるかではないかな?。
それだとフーコーが問題として見た外的集団主義を克服出来る。

まあだからこそ、私の神道とか仏教方向がより意味が笑。

私は神道者かつ仏道仏法体系的見方をするので、本当は認知領域だけではなく非認知領域まで含めた見解はあるけど、そこまで行くと社会議論の範疇を超えるので笑。

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