フラットに物事を見るには?から入ったzetumu流見方:Twitterでのやりとりまとめ


TwitterでNariさんとリプで会話したものをまとめました。
それでは長いですけどどうぞ。


N:
自分の生活や生死に直結する情報をフラットに扱うのは本当に難しい(・ω・)
zetumuさんは、その辺抜群に上手いですよね。
zetumuさんの宗教的な話に興味を持ったのも、そこが一番なんですよね。
我が事を扱う上手さと言うか、自分の見たいように見ない力というか。
Z:
「自分」というのを中心の基準に見ないからね笑。
自分を無くすではなく全体の中で位置付けて見る。
その為には意識をフラット化させるあり方を捉えないといけない。
それを仏教では中観と言うけど。
でも知的分野だとそこまで行かなくても情報をよく見て筋道の構築を考えて行けばある程度出来る。
N:
どうしても、自分にモロに影響が出る情報や現実を目の前に突きつけられると余裕がなくなって主観以外の一切の視点が消えてなくなるんですよ
痛みすら感じるような感覚になり、その痛みを避けるように無意識の内に歪むというか
Z:
フラットに見たって痛みが無くなる訳でもないしそれから逃げ出したくなるのも同じ。
只主観ではなく主体的にそれと向き合い続けられるか。
この主体というのが普遍と並ぶポイントの一つ。
でも考えれば当たり前のこと。
自らは放り出し様は無いし普遍は主観をぶつけても変わらんから。
N:
それだけフラットに見えても我が事に対しての痛みはあるんですね。当然か。
むしろ誤魔化しをできない・しないんだから、より痛みは強いのか。
痛みは消えないのに「主体的にそれと向き合い続けられるか」ってのは本当に難しいな(・ω・)
Z:
よく分かってるね笑。
ありのままに全てを見て感じると当然そのままそれを受けるから普通の受け方をすると保たない。
それを受けて大丈夫なあり方だな。
多くの者がフラットにありのままに見ないのはそうすると保たないからかなとも。
でもだからこそ主体的である必要があるのだな。
振り回されない様に。
N:
(多くの者がフラットにありのままに見ないのはそうすると保たないからかなとも。)
わかります。
自分を観察してる限りまさにそうです(・ω・)
痛いだけじゃなく、何か壊れるんじゃないかと避ける感じ。
普通の受け方をするとやっぱり保たないんですか。
「それを受けて大丈夫なあり方」?
Z:
そこは大乗仏教的には非認知領域に於いてという視点があるんだな。
人間の不安とか幸福感とか本当は非認知領域に拠ってあるから。
これは現代心理学でも同じ捉え方だと思う。
只それを認知領域から眺めているかそれそのものに踏み込んで直接扱うかの違いがある。
そのあり方だな。
N:
うーん。こうなると自分の教養・知識レベルの問題でしょうけど「何言ってるのか、さっぱりわからん」領域に・・・(・ω・)
非認知領域ってのが何を指すのか、そもそも非認知なんだから言語化不能なんだろか?
Z:
誰でもいつでも非認知領域と認知領域は出入りしている。
だから思い出したり忘れたり。
パソコンでいうとモニターとHDDみたいなもの。
モニターに映っていない情報もきちんとHDDにあるでしょ?。
でもこんなの理屈を幾ら聞いても実際に使えなければ意味がない。
でも普通の人でも出来る方法がある。
それがzetumu流神社参拝。
何故それで出来るのかその説明も密教の考え方を使えば出来るけど。
でも実際にやって見るのが一番早い。
実際私はそれで仏法的に5年と掛からず悟ったし。
N:
その「出来る」というのは「それを受けて大丈夫なあり方」が出来るって事ですかか?(・ω・)
Z:
そうだね。出来る様になる。
その理論体系もある。
只そこまで言わなくても。
例えば信頼できる先生に話を聞いて貰ってそれに対して客観的に説明して貰う様なことをずっとやるようなものと言った方が分かり易いかな。
しかもどんな質問も無制限受付で。
N:
すいません、浅学で申し訳ないんですが「仏法的に悟る」ってのは、どういうことですか?(・ω・)
調べても「やすらぎだ」とか「苦しみからの解放」とか、どうにも抽象的でピンとこない
Z:
仏法的に悟るレベルは、世界が常に共にあることを捉えることだな。
当たり前のことなんだけどね世界の中にいるんだから。
でもどの様に世界と繋がっているのかが判ってないんだな、本当は。
ここから更に進むと仏道の悟りに進んで法界智に。
これは世界そのものが道理としてあることを捉えること。
これも物理宇宙の全てが物理法則として成り立っていることを思えば、世界そのものが法理として成り立っていることは当たり前。
でもそれを本当に捉えているかと言えば。
ありのままに見る智慧は般若智と言ってその前段階。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5 …
禅とかで無や空とかを捉え中観に至るのはこの智慧。
これは物事が存在する「場」を捉える智慧。
目の前に物があるということは、その物が存在出来る空間があることも同時に示している。
普通の認知は存在している物は認知として捉えることが出来るがその空間そのものを認知していない。
それが意識と無意識の関係と似ている。
N:
なるほど、わからんということがわかりました(・ω・)
これだけ丁寧に説明して頂いても1割も分かってないと思います!
とてつもなく雑な理解ですが、「仏法的に悟る」領域までいけば、般若知と言われる「ありのままに見る智慧」に辿り着き、「それを受けても大丈夫なあり方」に成るということですか?
Z:
普通は捉え方としてはありのままに観ることを通って世界と常に繋がっていることに至る。
その過程が「一旦」ありのままに受けるあり方。
この過程が仏教的には観自在→観世音→観音。
本当の意味で受けても「大丈夫」なあり方に成るのはその更に先。
N:
ほげー(・Д・)
観自在(すべての事物を自由自在に見ることができること?)では、まだ大丈夫な受け方まで行けなくて、それはその先だって事ですか。
気が遠くなる領域ですね。
Z:
分かり易く言うと、問題をありのままに見たとしても、問題を全て解決出来る訳ではない。
「大丈夫」というにはその問題そのものを整理しきれないと。
問題は全部見たけどお手上げでは大丈夫とは言えないからね。
N:
ああ、なるほど。
ありのままに見れるってのは、物事を整理出来るようになるまでの前提条件であって、我が事も含んだ物事の整理ができるようになり、主体的に向き会い続けるようになるのはその先だと。
その気が遠くなるほどの領域に神社参り?(・ω・)
Z:
神社を普遍がローカルに顕れている装置と捉える。
そうなると実際にその様に機能するので。
その普遍的な基準に全てをそのまま見せて、筋道が通ったあり方として整理させるんだな。
N:
むむ、また分からんことが増えてしまった(・ω・)
「全てをそのまま見せて」まず神社において何をすることが全てを見せることになるのか。
「筋道が通ったあり方として整理させるんだな」自分が整理できるようになるんじゃなくて、神社という装置に整理させる?
Z:
zetumu流神社参りですることがそうだよ。
世界が法理で成り立っているのであれば、当然自身にもその法理は元々通ってある。
自分と言ってもそれを中心に世界がある訳ではないからな。
分かり易く言うと世界は自分中心に回ってない。
だから世界が回る法理のあり方に拠って自身を自分も含め整理させる。
N:
ああ、少しだけ理解が前進しました(・ω・)
整理する基準が普遍だからこそ、我が事すらフラットに見れるようになるのだから、その普遍基準が現実として現れてる神社に整理させると。
役所みたいだな(・Д・)
「全てをそのまま見せて」は理解しましたが、どうなれば「整理」されたと判断するのですか?
Z:
役所みたいだよ、実際笑。
公益性があると予算が降りるみたいにw。
だから見せての返りがポイントとなる。
普通はそれが判らんからそれをおみくじで見る。
見るだけではなくそこに神そのもののあり方が入っているのでそれをそのまま丸っと受ける。
N:
じゃあ、こちら側にできるのは「全てをそのまま見せる」までであって、その整理を神社という装置に任せて、しかもそれが整理し終わったかわからないまま、おみくじを引いて、そこから読み取る?(・ω・)
「神そのもののあり方」これはさっきまで言ってた「普遍」の事ですか?
Z:
元々神的には「ヒト」の仕事って神に見せることなんだな。
それ含め世界そのものを筋道が通ったあり方として運営するのが神の仕事。
分からないままじゃないんだな。
その整理の過程がそのやり取り。
N:
自分の中で多少整理してきました(・ω・)
神社参りは、全てをそのまま見せるその過程での整理と、その後に全てを見せたことへの返しとして、おみくじにある「神そのもののあり方」(このあり方には全てをフラットに捉え、扱い、その事に主体的に向き合う事も含まれる)を受け取ること。
であってますか?
Z:
筋道と道理。
主体と普遍。
本質と働き。
それを神のそのもののあり方と言っている。
基本はそれでいい。
只それには前提があって。
まず主体と普遍のあり方がすっと向こうから自らと自身に通って来ているイメージが大事。
神社でもその場のものだけではなくそこを通して世界そのものの根本の所に繋がっているイメージをする。
それが心での通しだな。
それに言葉でやりとり。
そして身体で受ける。
これで心と言葉と体の全てで向かうことになる。
密教だとそれを三密加持としている。
にしても理解力凄いね笑。
N:
この「身体で受ける」というのもイメージですか?
それとも、違う何かを指してるのかな?(・ω・)
Z:
普通の者が受けるにも一番良いのはおみくじの歌をひたすら沁み込む様によみ続けること。
実は真言陀羅尼や称名念仏やお題目もそれをやっている。
祝詞を読むのもそうだね。
でもおみくじだとその時の向かいに最適化されたものとして向こうからの本質と働きが入っているので効果が高い。
N:
ああ、和歌や漢詩に出てるものを体に染み込ませることが「身体で受ける」ということですかな(・ω・)
Z:
本当はそれだけではないけど。
神社で向かいそこでの感覚とかを身体で感じたりとかもだよ。
だから昔からそれを感じる所を求めての山岳信仰とかもある訳で。
神社の古い形態である磐座も元は神の通りをチャージして触る為のものだと思っている。
私も最初石を貰って、それをいつも握りしめてた。
只それが失くなって聞いてみたら、自身の身体以外に神を受けるものはなかろうと。
だから結局は如何に自身の身体に沁み込ませるかのもの。
密教での修法とかもその為のものとしてあるはずだけど。
おみくじが一番簡易で効果があると思う。
N:
なるほどです(・ω・)
疑問点は、ほぼほぼお聞きすることが出来たかな。
それでもzetumu さんの、言ってることの大半はまだ理解してませんが。
少しは意味がわかるようになったかなと。
色々しつこく聞いてすいませんでした。
何度も答えて頂いてありがとうございます。
Z:
いや、凄く理解力が高いなと感心した笑。
訊いてくるポイントが適切。
後は実際一度神社で向かって見ることだね。
ついでに何か自身について聞きたいことがあれば実際に聞いてみたらいい。
そうすればまた聞きたい所が出てくると思う。
N:
ですね、結局実際にやってみない事には生兵法ですもんね(・ω・)
何を聞けばいいかわからないのが困りものです。
聞くにしてもかなり抽象的になりそう・・・
Z:
別になんでもイイヨ笑。
普通のことで。
実際神社で一番人気があるのは女性の恋愛縁結び笑。
でも自分中心に望みを叶えてくれは神を中心にする本当の神道とは違うけどね。
N:
後はちゃんとら返しを、こちらが正しく読み取れるかですね(・ω・)
そこが、一番難しそう。
何を言ってるかわからん状態になりそうですな
Z:
それは心配イランよ。
丸っと一回全て受けてからなら、判らなければこれが分からないのですけど、と再度聞けば良いから。
まあ和歌や漢詩の言葉の辞書的意味が判らんというのはどうしようもないけど笑。
だから最初は古語辞典漢和辞典がいるな笑。
まあ最近はネットで検索したら出てたりもするけど。
それと別に私におみくじ写メって送ってくれても構わんよ。
いずれそれをリアル仕事にと思ってはいるけど笑。
まだどういった様にしようかなと考えている所なので。
私の見方で見るよ。
聞き方も実際は色々あるしね。



zetumu流神社参拝グループhttps://www.facebook.com/groups/1711886059103080/
グループに入りたい方はご連絡どうぞ。

https://twitter.com/zetumu
https://www.facebook.com/zetumu.np


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?