しょうがない、じゃねーよ

http://president.jp/articles/-/23868

大乗仏教的には一部正しいこともあるが、基本的には間違っているな。
正しいのは「気持ち」そのものは相手にしないこと。正しいのは「気持ち」そのものには意識を向けないこと。
この記事ではネガなことだけに意識を向けない、みたいに書いているけど。
それも間違いで、出されている四苦八苦を見ればポジネガが不離なものとしてあるのが分かるからネガなことだけに意識を向けないのは間違い。
ポジにも意識を向けない。
ついでに言うと、四苦の生老病死も修めるが故に涅槃寂静なのであって、現象そのものを無くすのが無上正等正覚ではない。
それと同様後の苦もキチンを理と智を以て修めることが必要なのであって。
タイトルの様なしょうがない、というのは真逆。
本当の仏智である、ありのままに捉える般若智や、本当の世界の法理そのものである法界智で以て、全てを修めるのが本当のゴータマが辿り着き示した境涯。
この記事レベルのことがゴータマが捉えたものなら、ゴータマもあれ程大変な修業をする必要などなかった。
要するにこの方が語っているのは、本当の意味での悟れる者の教えとしての仏教ではなく、単なる自己の経験からのことを語っている。
実際にこの人の語ることを見れば、この方が仏法仏道を捉えていないのは分かるし。
そもそも千日回峰行ってゴータマが否定した苦行方向だと思うんだよね。
元は修験道や山岳信仰方向からのものだと思うけど。
山岳信仰の本質は、神が本当に通ってある所を求め、それを感得する為のものだし。
役小角の開いた修験道もそれを前提にある。
その神そのものを捉えるという、本当に神そのものを中心に置く、惟神の神道を理解する必要があるし。
仏教とて、自らの中心そのものとしてある心の真義を捉えることの為のもの。
この記事では心と気持ちがキチンとそもそも区分けされていないし。
故に心で以て気持ちを修めるあり方が説かれていない。
その為には非認知領域そのものに踏み込む必要があるし。
本来回峰行に意味があるとしたら、その領域に触れる為のものとしてあったはず。
その上で言うと、気持ちは勝手に湧いてくるので相手にする必要はないが、キチンとありのままに見て、そして修める必要はある。
それが本当の意味での体を形成することになる。
精神体も体だからね。
それが幅ともなるし。
そのまま放置してしょうがない、ではダメ。
寧ろそれを徹底的に問いそして修めるのが本当の仏道仏法。
そして全ての世にある小さな思いをその身のこととして捉えそれを我が身として捉えられないようでは全くダメダメ。
大慈悲なきあり方は大乗仏教とはいえない。
その始めが自身に湧くポジネガ関係ない全ての思いであって。
それをスルーする様ではダメ過ぎる。

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