性善説と性悪説と大日阿弥陀同体異名

儒教の性善説と性悪説って私の見解では矛盾なく成り立つんだよね。
まず前提は性に関する前提。
これは両者とも自然の法理を前提とする。
但し性善説はそれが一般的に良いとされる性質を持ち性悪説はそれ自体の性質についてはフラットに見る。
故に性悪説ではそれを礼や教育で補正して良いあり方にと言う。
でもその礼や教育は何に基いているのか示されていない。
では良いあり方とは何かを検討する必要がある。
それは整合性が取れていること。
病気などを考えれば判るがどこかに不整合がありバランスを崩すと病として現れる。
全ての整合が取れていれば健康。
そう捉えられる。
では整合性は何に拠るか。
それは世界そのものの普遍の法理しか本質的にはない。
結局そうなると最初の前提に還ることに。
つまり性悪説で重視される礼も元々性そのものに内包されたものとしてあるとなる。
そうなるとそれは性善説の性に良いあり方が内包されていると変わらなくなる。
但し性善説の欠点はではなぜその良いあり方に反して悪いあり方が出てくるのかということ。
それを性善説は外的要因に求めたがそれが間違い。
そもそも全てに普遍の法理が行き渡っているのであればそういう内外の区分は無意味だからだ。
そうなると逆にどこが問題か見えてくる。
そういう内外という二分された見方が本来のあり方を見失わせているということになる。
つまり善とは遍く一切に及んでこそ発現される。
というか遍く一切に及ぶことそのものが善と言える。
つまり性善の本質は最初の前提である普遍の法理が全てに行き渡っているということになる。
性悪とはつまりその普遍の法理が全てに行き渡っているという前提が見失われている状態をいうことになる。
だから礼をというのは本来の普遍の法理の見方で全てを見ること、ということになる。
だから老子の言っていることに通じる。
相対的な見方が本当の普遍を見失わせると。
結局は性善説も性悪説も老子も、普遍の法理が全てに行き渡ってあるということを違った角度から説いているに過ぎない。
普遍の法理故に世界に不整合はなく世界は成り立つ。
それを自分という枠を前提にして内外を作るからオカシクなる。
前提にすべきは普遍の法理。
そうであれば枠そのものも相対化される。
これが正しい相対化。
枠に拠る相対化ではなく普遍に拠る相対化。
枠に拠る相対化だと二分されたものになる。
それが老子が指摘し問題とする所。
普遍に拠る相対化は二分されたものではなく、多一が融合した華厳的あり方を前提にした上での自らという軸と自分という数多の円の様な関係になる。
後はその枠そのものがどの様に設定され得るのかを普遍の法理から読み取らないといけない。
つまり性悪説の言う読み取り作業こそ礼の正体。
その読み取り結果が智。
そうなると普遍が仁で法理が義。
これで仁義礼智。
その行き渡りが忠信孝悌。
でも普遍の法理自体が行き渡りだよね、本来。
二重に言っている。
でも行き渡りと言うのは、それは枠があるあり方を前提にしているから。
つまり枠が設定されていくのと枠が設定されてその上で行き渡るのと。
この2重のあり方。
多分これが真言密教だと覚鑁が言う大日阿弥陀同体異名ということなんだよね。
大日は世界の普遍の法理である法界体性智を、阿弥陀はそれぞれ個別のあり方全てに法理が通っていることを見る妙観察智・差別智を司るから。
それは仏道仏法不離ということでもある。
『五輪九字明秘密釈』はそれを書いていると思う。
読んでないけど笑。
こういう解義は凄く出来るんだが専門知識が余りにも無さすぎなのは何とかならんものか。

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