零式暫界~第3話「最後の夏」

・シフルとの戦いと言うか三船の残飯狩りから一ヶ月と少しが経過した。
「陽翼、調子はどうだ?」
病院。達真がお見舞いにやってきた。
「うん。だいぶよくなったよ」
ベッドの上で陽翼が微笑む。未だにもう手に入らないと思っていた笑顔がそこにあるとなればどうにも感動で滅多なことを口走ってしまいそうになる。
「もう、達真ってば僕と会う度にそんな顔しちゃうよね」
「仕方ないだろ。未だに陽翼が生きててこうしてまた話が出来るなんて夢にも思ってなかったんだから」
「うわーひどいんだ。こんな可愛い陽翼ちゃんの事を夢に思えないなんて」
「…………ちょっとは見たかもしれないが」
「うふふ。ありがとう。もう少し体がよくなったら達真と同じ学校に通うことになるから」
「え、本当なのか……?みょ、名字は?」
「えへへ。矢尻陽翼って書いちゃった」
「……矢尻陽翼……」
本当に突然心そのものにダイレクトにクリティカルに来るから困る。
「それとも、もう他に彼女とか出来ちゃった?」
「いや、そんなことは…………なくもないけど」
「えぇっ!?」
「……彼女とは違うんだけどその前にちゃんと会って話しておかないといけない人がいるんだ」
「そうなんだ……」
「明日、連れてくるから」
「うん。ちょっと怖いけど待ってるね」
それから面会時間ギリギリになるまで他愛ない話をして達真は病院を去る。
「……ってなわけで少し困ってる」
「……相談するところが違うんじゃないっすかね?」
別の病院。ベッドで休む里桜、面会に来ていた龍雲寺に対して相談する達真。
「僕なんてほとんど初対面なのに聞いちゃってよかったの?」
「ああ。あんたのことはまあまあ妹さんから聞いている。だから信用は出来るんだが……はぁ、」
「えっと、矢尻だっけ?僕達そんな関係になったことないからあんまりサポートとかフォローできないと思うんだけど……」
「あれれ?龍雲寺は彼女出来たんじゃなかったっけ?」
「…………今のこの生活じゃまともにデートも出来ないよ」
「…………でも彼女はいるんだよね」
「里桜、目が怖い」
ため息をつく男子3人。全員が同い年で空手関係者でしかしそれぞれある事情から空手からは離れてしまっている者同士だ。
「……燐はいつ退院できるんだ?中々ひどくボコボコにされたって聞いたが」
「まあそれはそれはもう、どうして生きてるんだってくらいボコボコにされたっすからね。一学期中は戻れなさそうっすね」
「……悪いな。シフル・クローチェに関しては俺にも責任がある」
「いいっすよ。責任追及していけばどうせ大人たちに行きつくんすから」
「里桜、最近大倉道場も何かいい噂聞かないけど……」
「そうだね。俺は直接見てないけど雷龍寺先輩が、この前大倉会長と加藤先生と岩村先輩が言い争いしてるところを見たっていってたよ」
「……確か大倉道場やこの病院を含めた組織:大倉機関の代表が大倉会長で、加藤って人と岩村って人は道場側の師範と副師範なんだったか?」
「そうっすね。全員それぞれ若い頃はまだただの道場だったから全員畳の上でハッスルしてたみたいっすよ。特に加藤先生と岩村先輩は大倉会長の直接の弟子だって聞いたことあるっす」
「……その3人が言い争いってイヤな予感しかしないよ……」
「全くだよ」
里桜と龍雲寺が同時にため息をついた。達真はただほとんど情報でしか知らないが幼い頃から教えを受けていた3人のトップが口論ともなれば面白くはないだろう。言ってみれば両親の夫婦喧嘩みたいなものだ。
「そう言えば矢尻は昔大倉道場に通ってたんすよね?その時に加藤先生とかとは会ったことないんすか?」
「多分何回かは会ったことあると思う。だがほとんど覚えはないな」
「その時は誰が指導を?」
「名前は……何て言ったかな」
「まあ、基本は指導員のことは先輩ってしか呼ばないから。名前を覚えてないってのも仕方がないかも」
言われて達真は確かに珍しいかもしれないと今更ながら思う。
今のところたまに大倉道場に顔出す時には里桜が指導をしてくれている。現在は雷龍寺が指導をしているのだが達真はまだ会ったことはない。だが実際には里桜と雷龍寺は二人一組構成で稽古を行っている。だから今回のように片方に何か問題があった場合にはもう片方がフォローに当たっている。ちなみに雷龍寺が剛人との戦いで負傷した際には逆に里桜の仕事が増えていた。最近になってこういうシステムになったのかもしれないが達真がかつて世話になったのは一人だけだった。
「矢尻のことは雷龍寺先輩に伝えてあるから稽古に問題はないっすよ。まあ、俺より数倍厳しい人っすけど」
「あ、ああ。俺も死神先輩から少しだけ聞いてる。馬場4兄妹の長男で、先輩同様に全国クラスだってな」
「っすね。もう20超えてるから先輩と同じ大会で戦うなら先輩の方が20になるまで待たないといけないっすけど」
「……どっちが強いんだ?」
「…………弟子の口からはとても。ただ先輩が半年前に引き分けた次男の早龍寺さんは雷龍寺先輩より実力は下っすね」
「…………そうか。世界は広いな」
「でもその雷龍寺先輩ですら勝てないのが加藤先生っすよ。去年のチャンピオンシップで戦ったっすけどあの雷龍寺先輩がほとんど何も出来ないまま一方的に倒されたんすから」
「……うわあ、兄さん荒れただろうな……。ギリギリでいなくてよかった……」
龍雲寺が冷や汗をかく。
「あ、龍雲寺は早龍寺先輩より全然弱いっす。俺より弱いっす」
「まあ、何となくそれは分かる」
「ふ、二人ともひどい……。事実だけどさ……」
「……龍雲寺はもう空手はやらないのか?」
「……そりゃ少しは考えてるけどしばらくはいいかなって。やっとバイトして稼げるようになったんだし」
「……そう言えば言い損なってたけど、雷龍寺先輩から龍雲寺に伝言」
「え?」
「龍雲寺が住んでるアパートの家賃、もう払ったらしいよ」
「え!?そんなこと月仁から聞いてないのに!」
「つきと?」
「あ、うん。今お世話になってるアパートの大家。同い年なんだ。……最近桃丸ちゃんが家賃急きに来ないのはそのせいだったのか」
「龍雲寺も龍雲寺で新しい生活に馴染んできてるみたいだね」
「……えっと、兄さんは何だって?」
「龍雲寺のやりたいようにやれって。最近は久遠にも空手を強いていないみたいだし何か考えが変わったのかもしれない」
「……知らない内に槍でも降ったのかな?」
龍雲寺が窓の外を見る。
「……じゃあ、そろそろバイトの時間だから僕は行くよ」
「じゃあ俺も寮に帰るかな」
「二人とも今日はサンキュっす。暇なので出来たら毎日来てほしいっすよ」
「「それは無理」」

寮。食堂。
「と言う訳なんだ」
達真が陽翼との経緯を話す。そこにいたのは権現堂、火咲、紅衣、リッツだった。
「……それで私に陽翼さんと会ってほしいの……?」
紅衣が問う。こうして会って話すのは久しぶりだ。遠くから見ている限りだと明るさを取り戻しているように見えたが、実際に話してみるとまだどこか陰を感じる。
「ああ。蒼穹さんについても陽翼には話しておかないといけない」
「達真もとんでもない発想するわよね。いくら死んだと思っていたとは言え恋人と浮気相手を会わせようとするなんて」
火咲がため息をつく。
「陽翼がいなくなって3年間。何をしていたのかと聞かれれば間違いなく穂南姉妹について話さないといけなくなる。だから先に正直に話しておこうと思うんだ」
「……達真君……」
紅衣はやはり暗い表情のままだ。
「……達真、俺も最上の意見には賛成だ。お前の清廉潔白なところは称賛に値すると思うがしかし、他人を巻き込んでまでというのは感心しない。穂南の代わりに俺が同行しよう。一度しか会ったことはないが俺も久しぶりに挨拶をしたい」
「それ自体はかまわないが……」
達真はもう一度紅衣を見る。視線に気付いたのか紅衣もまた達真の視線を見返した。
「……達真君は陽翼さんが亡くなったと思ったからお姉ちゃんを好きになったの?それで今度はお姉ちゃんがいなくなったから陽翼さんと付き合おうとしてるの?」
「……それは、」
「だったらもし、お姉ちゃんが戻ってきたら……今度は陽翼さんと別れるの?」
「…………そんなことはない……と思う」
達真の優柔不断に権現堂と火咲が同時に脛を蹴った。
「おい達真……」
権現堂が立ち上がり、達真の襟首を掴む。と、それを払って火咲が立ち上がった。
「達真。紅衣はね、穂南蒼穹や陽翼があんたにとって何なのかって聞いてるのよ。いつでも取り替えできるセフレに過ぎないのかって聞いてるのよ」
「……そんなわけがないだろう……!」
「口では何とでも言えるわ。あんた女癖が悪すぎるのよ。いや、それだけじゃない。いざって時に他人を信じようとしない」
「…………」
思ったほど心外でもない。意外かもしれないが、しかし心のどこかではそんな自分を自覚していたのかもしれない。つまり今ここにいるのは(リッツ以外)全員達真のことを達真自身以上に知っている人達だ。
「……俺はどうしたらいい?」
「あんたに一番必要なのは自分を知ることよ。そして自分を信じてくれる人を信じること」
「…………簡単に言いやがって」
達真が小さくため息をつく。
「達真、正直になれ。俺達を信じろ」
「……権現堂……」
権現堂が肩に手を置く。もどかしいような暖かいようなくすぐったい感覚が達真の中に溢れてきていた。
「……紅衣」
「何?」
「……ごめんな。俺はやっぱり陽翼の方が……」
「それを私に言うのはちょっと……」
「……そっか」
「達真はもう少しデリカシーを学ぶべきね」
「……ねー」
火咲と紅衣が顔を見合わせた。くすぐったいようなもどかしいような、どうしようもない感覚を受けて達真は権現堂と肘を突き合わせた。
食堂での会話が終わり、それぞれ部屋に戻ろうとした際。
「矢尻達真」
これまで人形のように無言に徹していたリッツが達真を呼び止めた。
「どうした?」
「これを」
リッツがスマホを見せる。そこには一文のメールが表示されていた。
「……これは、」
「シフルからのメッセージ。エキサイト翻訳だったから私が翻訳した。少し時間が掛かったけどあなたに見せたい」
「……シフル・クローチェが俺宛にメッセージを?」
予想外。自分を恨んでいたためについこの前にあれだけの騒ぎを起こしたもはやテロリストと言っていいシフルが自分に対してメールなど、それこそ夢にも思っていなかった。と言うか自分は拳銃で撃たれてもいる。正直たとえメールでの言葉とは言え真に受けるには少々気後れがする。
「……」
息をのみ、リッツのスマホをのぞき込む。
「いや、アドレスを教えてくれたらそのまま送る。そうのぞき込まれても困る」
「…………正直お前達にメアド教えるのはかなり気が引けるんだが……」
「…………まあ、無理もないか。私もシフルもあなたには謝りきれない事をしたわけだから」
「……いや、許す許さないと言うのはあまりないんだ。生きてたからよかったものの俺は陽翼を死なしてしまうかもしれなかった。それを陽翼の友人だったシフル・クローチェが恨むのは当たり前のことだ。……まあ、組織がかって俺を殺しに来るとは思わなかったが。それにお前もあいつの命令に従っただけだ。確かに多少気は引けるがお前達のことは別に恨んでいない」
「……そう流暢に弁明されると少し不気味」
「……言ってくれる」
小さく笑い、達真はスマホを出して文字を入力する。
「ほら、メアドだ。ここに送ってくれ」
「……さっき権現堂昇が言っていたようにもっと素直になればいいのに」
「……善処する」
リッツが達真のメアドを完コピしてそのアドレス宛にメールを送った。
「……」
受信したメールを見る。見つつ、また結構女子のメアドが増えたなと遠い目をした。シフルからのメッセージ内容は簡単に言えば、これまで迷惑をかけた事への謝罪と自分はイタリアに帰るから陽翼のことはよろしく頼むとのことだった。また、シフルが三船でしでかしたことは特に隠す必要はなく、そのまま話してかまわないとも。
「……実際三船機関はもう伏見機関によって完全に閉鎖。三船所長もどこかに幽閉されている噂。そして陽翼は間接的に三船や大倉と関わりのある病院に入院しているから別に何も隠す必要はないそう」
「……隠すも何も俺はそこまでお前達の事情には詳しくないんだがな。それに完全にあいつは自分を悪者に仕立て上げようとしているみたいだな。……自分の手で三船を滅ぼすことになってそこそこショックだろうに」
「……シフルに伝えておく。あなたが心配していたと」
「……どういう意図だ?」
「たぶん日本語に翻訳できない悪罵が返ってくると思う」
「……あいつは本当に反省しているのか」
「……長年シフルはあなたに恨みがあった。反省しててもそう簡単に恨みは消えないと思う」
「お前はどうなんだ?詳しくは聞いていないがあいつのクローンなんだろう?」
「……確かに私はシフルから作られたクローン。特に格闘能力を持っているわけでもないシフルの代わりにあなたを殺すためにシフルによって調整された。だから生まれながらにあなたへの殺意がある。本能に根付いているから私の場合もそう簡単に消えはしないと思う。けど恨みがあるわけでもない。あなたの味方になるわけではないけど、でも敵になることもないと思う」
「……よくわからない奴だな」
「…………シフルがいなくなった今、私の寿命はそう長くないと思うから」
「どう言うことだ?」
「私達クローンは24時間に一度カプセルでメンテナンスを受けないといけない。でも、脱走したりしないようにカプセルそのものも1年に一度メンテナンスが必要。まあ、権限を持つ者によってパスワードを変更するだけだけど。その権限はシフルくらいか知らされていない」
「……赤羽や最上でも駄目なのか?」
「どっちも私とは所属が違うからたぶん無理だと思う。私は凶器だからシフルとはもう一緒に行動できない。このまま1年間だけあなた達の傍にいる。だから私のことは気にしないで構わない」
「…………お前は生きたいとは思わないのか?」
「…………あなたと富士の樹海で戦って腰を折られた時には、シフルに見捨てられた時には一度自分の命を諦めた。でも、あのまま私が死ねばシフルが危険だと思ったから諦められなかった。その結果生き延びて今がある。でも、シフルの身の安全が確保された今、私に存在価値なんてない。あなたへの復讐もなくなったのだから」
「……存在価値なんてどんなことでもいいと思うがな。情けないことに俺は陽翼と出会ってからは陽翼と一緒にいることが存在価値だと思ってたし、陽翼が死んだと思ってた頃は蒼穹さんや紅衣にその価値を求めていた。そして今は、陽翼や仲間達と一緒にしばらく生きていこうと思ってる。お前も、しばらくはそれでいいんじゃないのか?まあ、一年以内にあいつを呼び戻してパスワードの変更をしてもらう必要はあるかもしれないが」
「…………尻軽男に慰められるなんて。もしかして私の体が望み?」
「おい」
「……冗談。さっき最上火咲も言ったようにただでさえ女癖が悪くて問題がこじれているのに今この状況で私とも関係を持ったら……嫌がらせには使えるか」
「おい」
「…………ありがとう、矢尻先輩」
「…………お、おう」
演技なのかもしれないし、見間違いかもしれないがしかしリッツは笑顔を達真に向けて女子寮へと戻っていった。

翌日。放課後。陽翼の病室に集まる達真、権現堂、紅衣、火咲、リッツ。
「わ、いっぱい。達真たくさん友達が出来たんだね」
「……まあ、本当はこんなに連れてくるつもりはなかったんだが」
「私も来るつもりなかったんだけどね」
火咲がリッツを抱きしめながらため息混じりに言う。実際火咲と陽翼に関連はほとんどないが火咲が手足として使っているリッツは別だ。
「一度あっただけだが覚えているか?」
権現堂が陽翼に一歩歩み寄る。
「権現堂君だよね?確か一度だけ会ったことあるかも」
「ああ。また会えると思ってなかった」
「……達真ひどかったんじゃないの?」
「まあな。自分から一人になろうとする難儀な奴だ」
「……余計なお世話だ」
達真が言うと、火咲が脛を蹴った。
「今はこいつのルームメイトをやらせてもらっている」
「学生寮なんだっけ?そっか。男の子同士だもんね。僕も達真と同じ部屋がいいな」
「男女共同生活で周りから奇異の目で見られるのはあの先輩だけで十分だ」
3月の騒動を思い出して忌々しげに呟く達真。
「で、あなたは……」
「あ、あの、穂南紅衣です……」
「紅衣ちゃん。僕は陽翼です。名字はなかったけど今度から矢尻陽翼って名乗る予定です」
「……矢尻陽翼……達真君と本格的に付き合うんだね」
「…………えっと、達真?もしかして……」
「……まあ、その、なんだ。俺は陽翼が死んだと思ってそれから中々荒れた。空手も辞めたし権現堂くらいしかほとんど会話しなかった。けど、そんな時に俺を慰めてくれたのがこの紅衣と姉の蒼穹さんなんだ」
「…………えっと、慰めるってどこまで?」
「……たぶん陽翼の想像通りだと思う」
「…………そ、そうなんだ。もしかして僕、おじゃまだったかな……?」
「……こんな事言うのは最低だと思うけど、正直陽翼が死んだと思ってた頃は紅衣と蒼穹さんでいいやって思った。浮気になるかもしれないけどそれでももうどうにでもなれって。陽翼も紅衣も蒼穹さんにも失礼な最低なことを俺はしていた。最低でいいやって思ったんだ。でも、3月に蒼穹さんが亡くなって……もっと最低なことに俺は後を追おうって気にはならなかった。先輩に八つ当たりして、それでも生きてたんだ。今はもう、自暴自棄に自分も誰かも傷つけようとは思わない。ずっと一人だと思ってた俺にもこんなに仲間が出来たんだ。……だから、」
達真は紅衣の方を向いた。
「……ごめん。紅衣。俺は陽翼が好きだ。蒼穹さんのことも紅衣のことも好きだけど、でもこれ以上二人を言い訳に使いたくないんだ」
「……うん。お姉ちゃんも今の達真君なら大丈夫だって言うと思うんだ。お姉ちゃんすっごく達真君のこと心配してたんだから」
「…………紅衣」
「………………………………うん、そうだよね。今のはちょっと卑怯だったかも」
紅衣は一度俯きそして、達真の頬を叩いた。
「陽翼ちゃんの責任はちゃんと最後まで取ってね?」
「ああ、ありがとう。そして、ごめん」
頬を赤くした達真。目尻を赤くした紅衣は陽翼へと向き直る。
「陽翼ちゃん。達真君をよろしくね」
「…………うん。今まで達真をありがとう、紅衣ちゃん」
二人、手を握り合った。
「……あーあ、ぶたれちゃった」
火咲がからかうように言う。
「……当然のことをしたんだ。俺は紅衣や蒼穹さんの分までちゃんと幸せになるさ」
「……そうしなさい」
「で、ええっとあなたは」
陽翼が火咲の方を見る。
「私のことは別に気にしなくていいわ」
「最上火咲だ。こいつもちゃんと俺の仲間だ。そう言う関係はない」
「ちょっと、何勝手に紹介してるのよ」
「何だかんだで俺のことをこれまで何度も助けてくれたツンデレちゃんだ。まあ、頼れる友達になってやってくれ」
「ちょっと達真!」
「ふふふ。火咲ちゃん、よろしくね。それとこの前はそこのりっちゃんと一緒にシフルのところに連れていってくれてありがとうね」
「……あの場を解決するにはあなたを連れていくことが手っ取り早かっただけよ」
「……達真、いい友達を持ったんだね」
「ああ。陽翼もこの輪の中にいるんだ。……一緒に来てくれるか?」
「……うん。この矢尻陽翼ちゃんにお任せだよっ!」
笑顔の陽翼。達真もまた自然と笑顔が零れていた。そのまま周囲を見渡すと、
「!」
一瞬だけ笑顔の蒼穹が見えたような気がした。だが、
「……気のせいか」
もうその姿は見えない。それでいいんだ。

・7月。そろそろ夏休みに差し掛かる頃合い。多くの生徒は浮かれる頃だがしかし甲斐は違った。
「……はあ、」
部屋で一人、ため息をつく。その手には手紙があったがしかし、ため息の原因はそれだけではない。8月には西武大会があり、赤羽や久遠も参加を予定している。それに向けて4月から稽古を続けているのだが実のところあまり成果が出ていない。確かに交流大会から二人はかなり成長したと言っていいだろう。しかし、空手部の連中と練習試合を何度か行ってもその差が縮んでいるとは思えづらかった。まだこの道に入って1年目なのだからそこまで気にする必要もないのは分かっているのだがもし、留年組と一回戦からぶつかって徹底的に叩きのめされたあげく自分のように負傷することになったらと思うと気が滅入りそうになる。
「これが親ばかって奴なのか」
「何を言ってるんですか」
隣。テレビで競輪を見ながら和佐が声だけを飛ばす。
「あなたが戦う訳じゃないんですからもう少し気楽にしたらどうですか?教え子達に悪影響ですよ?」
「……自分で戦えるんだったらもっと気楽なものだ。殴れば済む話だからな」
「だからあなたはゴリラだの死神だの言われてるんですよ。しかも本当にそれで解決できるんですから身内からしたらホラーですよ、ホラー」
「…………ホラーね」
「そう言えば西武大会には矢尻さんも参加するみたいですよ」
「ああ、聞いている。一応どこの道場にも所属していない奴も参加できるみたいだからな。今回は大倉道場ではなくうちの空手部からの参加らしいな」
「矢尻さんも春頃には部内で気まずい雰囲気だったのに今ではまあまあ悪くなさそうですよ」
「……春頃に部内であいつが気まずい雰囲気だったのはどこかの誰かさんがお姫様やってたのが原因だったと思うんだがな」
「何か言いまして?」
「別に」
実際達真のことも気にはなっている。と言うのも先月くらいから少し表情が和らいだように見える。さらには精神的な影響もあるのか気持ちが前向きになってめきめきと成長している。
「矢尻さん、彼女が復活したそうですからね。毎日部活の後に病院に行っています。あ、怪我をしてと言う事じゃないですよ?」
「そんなことくらい分かってるわ忌々しい!お前が言うことか!」
持っていた手紙を床にたたきつける。そう、達真が空手人として成長していることは決して悪くない。嬉しさを共感してやれるほどの仲ではないから良い話よりのどうでも言い話だ。問題なのはその彼女、陽翼と言う名前の少女との経緯だ。いちいち自分で説明などしたくもないがしかしその事実に甲斐は最近心穏やかでないのだ。
「…………手紙、ちゃんと読まれたらどうです?」
「……もう読んだよ。これも全く気に入らない」
「ご家族との再会じゃないですか。どれだけ天の邪鬼なんですかあなたは」
「天の邪鬼でも天岩戸でもどっちでもないしどっちでもいい!こっちゃ空手だけをやっていたいというのに」
「……そう思っていたのがついこの前までの矢尻さんなんじゃないですか。あなたが後戻りしてどうするんですか?」
「だからお前が言うことかっての!」
ため息。ベッドに横になってため息。
「もう、そんな蒸気機関みたいにため息ばかりついてるのが部屋にいるとそこそこ迷惑なんですけど。どこかに誰かと一緒にお出かけしたらどうですか?最首さんあたりとデートでもすれば喜ぶと思いますよ?」
「最首とはそんなんじゃないし、それもお前が言うなっつうの」
完全にふてくされている甲斐。和佐はため息をついてから手紙を拾う。
「明日来るそうじゃないですか。私は行きませんけど楽しんできたらいいじゃないですか」
「絶対イヤだ。いっそのことそっちが行ってきたらどうだ?」
「いやまあ、会ったことはありますけど別に何の気概もありませんよ?ただの他人です。まあ、あなたを連れてきたなら競輪で穴馬当てられるってジンクスがあるのなら喜んで拉致監禁しますけど」
「ギャンブルのために実の兄を拉致監禁するな。ってか大金がほしいんじゃなくてそっちなのか」
「まあ、ギャンブルはそのスリルがたまらないんですけど」
「15歳女子の言う言葉じゃない」
ため息をつきながらUXをプレイする。
「おや、今更UXですか?」
「久しぶりにやりたいと思っただけだ。いちいち口出ししなくていい」
「はいはい、分かりましたよ。…………ってんん!?明日、優樹お兄さまも来るみたいですよ!?」
「はぁ!?」
あなたはそこにいますか?をBGMに甲斐は思わず叫びをあげた。

翌日。日曜日。
「よう、」
「ようじゃないわ。何考えてるんだお前は」
食堂。5月の時のように人だかりを作りながら優樹がインディアンポーカーで斎藤や最首と遊んでいた。
「え?タダ飯が食えるから来たんだぞ」
「……それ以前に誰から聞いたんだよ、この話」
「親父」
「…………はぁ、」
甲斐が激しくため息をつく。
「どうしたの?何かあった?」
額に2のカードを載せたまま最首がこちらを向いた。ちなみに相手の目の中に映る自分の姿を見たのか最首は既にこの勝負を下りていた。
「ん?ああ、うちの父方の家族が今夜ここに来るんだとさ。一緒に夕食どうかってな」
「…………え?それに優樹君が参加するの?」
最首が優樹を心底信じられないという表情で見やった。
「……えっと、」
ギャラリーにいた赤羽、達真、火咲も似たような表情だった。
「え、だってタダ飯が食えるんだぜ?今日はうちの親父仕事でいないから自分で何か買わなきゃいけないところだったんだから」
「お前には気まずいって感情がないのか」
甲斐、そして和佐がため息をつく。
「廉君は行きたくないんだよね?」
「…………まあ、小学生時代から会ったことないし。甲州院家に何の迷いもなく親権売り飛ばしてるわけだからな。おまけに再婚して新しい子供もいるわけだし」
この学校に通う生徒の大半は家族に何かしらの問題がある者が多い。故に甲斐の意見には理解が多い。
「……和佐ちゃんにとっては妹が出来たみたい……で、いいのかな?」
「よくありませんよ。同い年ですし」
「…………ん、会ったことあるのか?」
甲斐の疑問。
「ありますよ。小学校時代のクラスメイトですし」
「……それはそれでメチャクチャ複雑だな」
クラスメイトから義兄弟になった甲斐と優樹とは逆に実は義姉妹だったクラスメイトという事になる。確かに甲斐以上に行きたくないのも無理はなかった。
「最悪俺一人で行くから安心しろ」
「お前一人で行くのが一番意味が分からないんだよ!!」
甲斐のシャウト。ギャラリーすべてが頷いた。

「……で、こんな事してていいんですか?」
道場。本来今日は休みの予定だったが全員予定が空いているという事もあって急遽稽古をすることになった。
「現実逃避には大好きなことをするのが一番だ」
「死神さん、何があったの?」
「…………いろいろとな」
「でも弟さんと妹さん両方来てるよ?」
「は?」
甲斐が縁側を見れば和佐も優樹も来ていた。
「何でみんなここに来てるんだよ!ってか何でこの場所を知っている!?」
「……それはもういいじゃないですか。避難するならここが一番いいんです」
「俺は最低限お前を連れていかないといけないし。和佐ちゃんの後ついてきただけだぞ」
「…………はぁ、」
どうして3人集まるとこうやっかいなシチュエーションになるのだろうか。
「でも廉、本当に空手教えてたんだな。自分が殴ることしか興味ないと思ってたのに」
「人をなんだと思ってるんだ」
「「「「拳の死神」」」」
赤羽、和佐、久遠、最首が異口同音した。
「あはははは!!!」
「笑うな!ってか何でハモったんだ君達は」
「いや、その、割と事実ですし」
「全国区で暴れておいて何言ってるんですか
「そう君壊されたし」
「空手界で結構有名だと思うよ?」
女子達の感想は興味深かった。
それから優樹はスマホで何か遊び、和佐はどこかへ行き、甲斐達は集中して稽古を続けた。
「赤羽、久遠。実際この半年で結構強くなったと思う。だが、西武に挑むには正直まだまだ不安だ」
「……押忍!」
「久遠ちゃんなら大丈夫だよ」
「……赤羽も久遠も一回戦負けする確率は低いかもしれないが優勝する確率はそれよりも低いだろう。これまで何度空手部と稽古して負けてきたと思う?赤羽も久遠も一度でも村上に勝てたか?」
「……それは、」
「でもあの人、西武より上のクラスでしょ?あれくらいの実力者が西武に出てくるなんて滅多にないんじゃないの?」
「確かに村上は西武上位クラス。カルビにいていいレベルだ。でも、それでも西武に出て優勝できるかは時の運。5回出て2回は優勝できると思うが3回目以降は厳しいと思うし5回すべてで優勝できるとは思えない。せめてお前達が二人そろって村上から一度くらい技ありを奪える程度にまで強くなれればまだ優勝できる可能性もあるんだがな」
「……厳しい道のりですね」
「でも、死神さん。別に今度の大会で久遠ちゃん達が優勝できなくても何か困る訳じゃないよね?まだ1年目な訳だし。らい君に聞いたけど1年目で西武大会を優勝できた人間なんて1万人に一人いるかどうか位なんでしょ?」
「まあ、そうだな。俺ももちろん、雷龍寺でも確かそんなことは出来なかった。と言うか今はともかく以前は2年目以降じゃないと西武大会には参加できなかったからな。まあ、そう言う制限がなかったとしてもそうそういきなり西武に行ける奴なんていないからあまり問題なかったんだがな」
「……以前と違ってインフレしてきたという事ですか?」
「それもあるが1年目で交流大会を優勝してそれでも西武大会に出られないからって交流大会にまた参加して暴れる奴らが出てきたからな。本来そう言う強さが求められることがない交流大会を荒らすのがよくないとして制限が掛かったんだ」
「……それで西武大会が修羅場になってるんだ。間にもう1つランクを用意するとかいいんじゃないかな?」
「……まあ、そこは全国空手協会の采配次第だろう。急に新たなランクの大会を作るなんて出来るとは思えないな」
「それに西武大会って悪くいえばふるい落としの場からね。ここを勝ち残ることが出来たら見事ガチ勢の証明になるし、」
「なれずに空手部のような吹き溜まりを作ることもあり得るというわけですね」
和佐がどこかからやってきた。手にはコーラが握られていた。
「…………あー、」
それを見た甲斐は突然頭の中でスイッチが入ったようなパズルが嵌まったような感覚を得た。和佐と赤羽とで視線を交互させ、
「……どうしたの?」
最首が問い、それ以外が黙って視線だけを向ける。
「……お前達、そういう仲だったのか」
甲斐が赤羽と和佐を見て小さく呟いた。
「は?どういうことです?」
「……赤羽は寮に来るまでここに住んでたんだろう?だからここを稽古の場に選んだ。しかし同居人がいるかもしれないと最首が言っていた」
「……」
「赤羽はご両親はいないし、肉親と言えば兄くらいだろう。けどその可能性は低い。あいつは妹を捜してこっちを襲ってきたんだからな。それに最首が言うには同居しているのは女性の可能性が高いと。……優樹、1つ聞くが和佐は中学時代どこに住んでたんだ?」
「近くだってしか聞いてないな」
「……そう、そして和佐は本来知らないはずの穂南の事も事前に知っていた。和佐が初めてあの学校に姿を見せたのは穂南が死んだ日だ。あの日そのことは赤羽にしか伝えてなかった。だから面識がないはずの穂南のことをあの日に和佐が知っているとすれば赤羽から聞いたとしか考えられない。……結論を言うとお前達二人はここで同居していたんだ」
「…………え、本当なの!?」
最首が驚いて二人を見る。
「…………」
赤羽は冷や汗をかきながら和佐の方を見る。
「…………はぁ。愚兄のくせにやたらと女性関係だけは妙に勘が鋭いんですよね。そうですよ。全身義体となったばかりで碌に動けない頃の赤羽さんを引き取って面倒を見ていたんですよ、私がこの家で」
「…………春までここで稽古をしていた時も実は上の階にいたわけだ」
甲斐がひどく大きなため息をつく。
「……君、なんなわけ?どうして大倉と三船のトップシークレットである赤羽美咲の身柄を事前に確保できるんだ?」
「……それはトップシークレットです。まあ、ここまでたどり着いてしまったのなら仕方ありませんね。今夜一緒に行きましょう。そこで大体の種明かしは出来ると思いますよ。赤羽さんや最首さん、久遠ちゃんもいかが?」
「え、いいの!?」
「…………一応聞くけど俺は?」
「優樹お兄さまは本当に関係ないんでお引き取り願いたいんですけど。呼ばれているなら仕方ないですね」
「……はあ、やぶ蛇にラスボスを呼んでしまったかのようだ」
ため息。それから女子組がシャワーを浴びて、6人が寮に戻る。ちょうど一台のベンツが停まった。窓が開き風に乗ってきた匂いに甲斐が顔をしかめる。やがて、ドアが開いて長身の中年の男性が姿を見せた。
「……久しぶりだな」
「………………父さん」
甲斐親子が視線を交差させた。やがて父は甲斐、優樹、和佐の3人を見渡す。
「まさか、そっち側の3人がこうして揃うとは正夢もあるものだな。まあ、乗れ。お友達もいいぞ」
「あ、し、失礼します」
緊張したままの3兄妹を後目に最首が会釈をした。6人が車に乗って気まずい車内のままベンツが走り出す。
「優樹君もよく来てくれた」
「大丈夫っす!!いい飯食えると聞いて!」
「甲州院さんからはよく食べる子だって聞いてるよ」
「親父と知り合いなんですか?」
「たまに会って話すよ。そこの息子の生活費も払っているしね」
「…………親権売り飛ばしたんじゃなかったのか」
「まあ、その辺は後で話そう」
やがて車はとあるホテルにやってきた。
「ここのレストランを予約してある。多少数は増えたがまあ問題ないだろう」
7人が駐車場からホテル内レストランに入る。周囲は見るからに大金持ちなどばかりだ。
「……せめて制服着とけばよかったかも」
最首が赤面する。ちなみに赤羽と和佐は多少ましな服装で来ていた。事前に知っていたようだ。
「死神さんのお父さんって何やってる人?」
「……トラック野郎だって記憶しかないんだが」
「今はとある企業の会長をやっている」
「……会長……」
また何かパズルが嵌まりかけた。やがて7人が到着した予約席。
「甲斐様ですね。こちらです」
上品なウェイターに案内されたそこには、
「お待ちしていましたわ」
一人の少女と一人の青年が座っていた。
「……えっと?」
「娘の杏奈と執事のライル=ヴァルニッセだ」
「……娘……」
甲斐が少女の方を見る。
「お初にお目に掛かります。甲斐杏奈でございます、お兄さま」
杏奈と呼ばれた少女が上品に挨拶をした。それに対して和佐がむっとした表情をする。
「杏奈さん?ちょっとおいたが過ぎるんじゃないですか?」
「え?そんなことないと思いますよ、和佐ちゃん」
何とも言い難い関係のようだった。
「……で、呼んだ理由は?」
甲斐が適当に座り、言葉を投げる。
「ああ。まずは普通に一家揃わせたかっただけだ」
「一家って」
甲斐だけじゃなく久遠の方が先に苦しい声をあげた。
「えっとこれって和ちゃんと杏奈ちゃん?の関係ってどうなるの?」
「……直接的な血の繋がりはないな」
甲斐が運ばれてきたスペアリブを頬張りながら言う。そしてもっと血の繋がりがない優樹が負けじともつ鍋を注文した。
「この4人って兄妹って言えるの?」
久遠が最首に問う。
「む、難しい質問をしてくるね。廉君と和佐ちゃんはお母さんが一緒で
廉君と杏奈ちゃんはお父さんが一緒で、他は繋がってないよね?」
「死神さん、一気に妹が二人に増えたね」
「……いつかは兄や姉も出てきそうで怖いがな」
食事を続ける二人。他のメンツも席についてそれぞれ注文を始める。
「で、あんたは?」
甲斐がライルを見やる。甲斐よりもいくつか年上に見える。日系に見えるが名前からして外国人だろうか。
「杏奈様の執事をしているライル=ヴァルニッセだ。俺のことは気にしないでいい」
「……そ、そう」
「死神さん、執事まで出来たんだ」
「……飽くまでもそこの子の、だがな」
「いやですわお兄さま。妹なのですから杏奈とお呼びくださいな」
「……流石に事実でもあったばかりの子にそんな真似は出来ない」
チャーハンを食べ終わり、おかわりを要求してから甲斐が問う。
「で、赤羽のことを知っている上和佐に任せられるのだから大倉機関や三船機関と何かしらの関係があるのか?」
「何だ。もうそこまでは聞いているのか」
父が言葉の割にはあまり興味なさそうに言う。
「今度は何機関だ?」
「甲斐機関だ」
「………………はぁ、」
甲斐が今日何回目かも分からぬため息をつく。
「あれ、甲斐機関ってどっかで聞いたことあるような……」
久遠が首を傾げるのを赤羽が見る。
「そっか。何からい君や岩村さんがそんなこと言っていたような気がする」
「ほう、君は馬場家の子か。君の父君がご存命の頃はたまに一緒に騒いだりもしたよ」
「え、お父さんとも知り合いなの!?」
「……」
最首は急に居心地の悪さを感じた。
「まあ単刀直入に言うとだな。甲斐機関はこれまで海外で医療品を扱ってきたメーカーだ。大倉機関は子会社の1つに当たる。そして今回いよいよ日本に進出することになったんだ」
「……大倉機関の親会社。それだけじゃないんじゃないのか?」
「そうだな。クローチェ博士もうちの従業員だった。伏見機関が海外派遣で使う設備もうちのものが多い」
「……三大機関すべての親会社……!?」
「正確に言えば三船と伏見に関してはスポンサーだがな。明日にかけて三つの機関と会談を行う予定だ」
「……三船はもう閉鎖されたぞ」
「それもどうにかなる。まあ、もちろん人体実験などはさせないが。ただな、俺もそろそろ還暦。後継者がほしくなってきてな」
「……………………まさか」
甲斐がいつでも優樹を盾に出来るよう襟首を掴んで引き寄せる。
「そう。来期から甲斐機関の新会長をお前にやってもらいたい。ちょうど高校も卒業する年齢だろう?」
「い、いや、いきなりそんなこと言われて頷けるか!」
「しかもだ。お前にはすばらしいサプライズプレゼントがある。」
「……な、なんだよ。いやな予感しかしないぞ」
「思えばお前に誕生日プレゼントをあげたことはなかったな。18年分のプレゼントだ」
と、父が見せたのは一冊の写真のようなもの。
「…………」
滝のような汗を流しながら甲斐達が写真を見る。そこには甲斐と赤羽の姿が映っていた。
「赤羽美咲さんをお前の嫁にしようと思う」
「「「はぁぁぁぁぁぁあ!?」」」
驚愕のシャウトは数人分。
「な、な、な、そのt」
「そのために赤羽さんを私の元に預けたのですか!?」
「そんなこと私聞いてません!!お兄さまは私のものです!!」
「杏奈さんは黙っていてください!!」
「和佐ちゃんこそこれは私とお兄さまの……」
「待て待て妹たち。いや、本当に待て。な、何でこんな事になってんだ!?まさかこのためだけに赤羽を息子の元に通わせたのか!?ってか知ってたか!?」
甲斐が赤羽を見る。本人も愕然とした表情で甲斐の言葉に反応するにもラグがあった。
「………………え、いや、私も全く……」
「だから言っただろう?サプライズだと。赤羽美咲さんはまだ今度の誕生日でも15歳だから結婚は出来ないがその次の年なら問題ない。新会長就任2年目で盛大に結婚式を挙げよう。ついでに新居も購入予定だ。杏奈やライル、和佐も優樹君も一緒に住めるようにしようと思っている。家族は一緒じゃないとな」
「だ・か・ら!!!待てっての!!いきなりそんなこと言われて肯定できるか!」
「さっきから随分と反対だな。そんなに彼女のこと嫌なのか?」
「彼女が嫌とかそういうんじゃない。そもそも、」
「そもそも廉、彼女いるっすよ?」
わんこそば200杯目を食べ終えた優樹がさらなる爆弾を放り投げた。
「何!?本当か廉!?そんな情報赤羽さんからも大倉さんからも和佐からも聞いていないぞ!?」
「死神さん、彼女いるの!?そんなこと聞いたことないよ誰々!?」
「だぁぁぁぁっ!!!言う必要があるか!!」
優樹の顔面にパンチをめり込ませながら甲斐は叫んだ。完全に興奮した甲斐。期待の目で見上げる久遠。後ろめたさを帯びた表情で目をそらす赤羽、和佐、最首。驚きのままの父、杏奈。
「と、とにかくこの件はこのバカが言ったようにキャンセル!!ノーカン!!ってか現在進行形で家庭ぶっ壊しまくってるあんたが言うな!!」
期待の視線で押し寄せてくる久遠の肩を押さえながら甲斐は父に叫んだ。
「…………むう、これは予想外だ。完全に孫の顔を見るつもりで居たんだが……むう、」
「そんなのはそこの子にでも頼むんだな」
「お兄さま?杏奈は杏奈という名前ですよ?」
「……はあ、どんな種明かしが来るかと思いきやまさかこんな形で最悪な真実が待っているとは。…………いろいろと腑に落ちまくってるのが嫌すぎる。まさかと思うが穂南を見殺しにしていたりしてないだろうな?」
「するわけないじゃないですか」
甲斐の問いは和佐が答えた。
「赤羽さんからの報告で事前に穂南蒼穹さんという方がいらっしゃるのは把握済み。ですが彼女の病状などについては後から知り得たものです。まあ、甲斐機関の技術があれば救えた可能性は十分にあります。ちなみに矢尻さんの彼女さんである陽翼さんを治療したのも甲斐機関の技術なのであしからず」
「……あの病院が甲斐機関……。火咲ちゃんは三船に関係ない病院だって言ってたが……」
「知らないはずですよ。甲斐機関のことは日本ではそこまで有名じゃありませんから。三船は飽くまでもスポンサーとして関係している会社ですからね」
「……そこまで言うからには君も」
「ええ、甲斐機関の人間ですよ。生活費なども会長から出していただいていましたから」
「和佐、お父さんでいいんだぞ?」
「お断りします」
「……君は」
甲斐の視線が赤羽に戻る。
「……………………和佐さんから甲斐機関のことは聞いていましたがそれ以上のことは何も」
「……はぁ、」
席に着き、ため息。
「で、廉。どこの誰だ?お前の彼女というのは。ひょっとしてそこの子か?」
父の視線は最首に。
「い、いえ!違います!き……」
「そこまでだ最首。わざわざ教える必要はない。…………そうだろ?」
甲斐は一瞬だけ和佐を見た。
「……前に小学校くらいに時に会った時はまあまあかわいげがあったのに。父さんはがっかりだ」
「悪いが今の生活にはまあまあ愛着があるんだ。ぶっ壊すような真似はしないでもらおう」
そう言いながら結局甲斐と優樹とで2万円分以上食べてその日は寮に帰るのだった。

「…………なんてこと」
寮。部屋の中で火咲はリッツを抱きしめながら盗聴会話を聞いていた。
「……どうして赤羽美咲に盗聴なんて真似を」
「……あの人が父親と会うって聞いたからよ。それにあの赤羽美咲がついていくって……でもまさかこんな事が」
「……あなたは何に驚いてるの?確かにこの会話は中々裏に足を踏み込んだ情報だったかも知れないけどもう三船から出たあなたにあまり関係はないんじゃ……」
「…………少し整理が必要だわ。想像以上にとんでもないことになっているかも知れない」
火咲は盗聴内容を録音し、それから赤羽が帰ってくるまでの3時間何も喋らなかった。

・父親から衝撃的な事実を聞かされて数日。甲斐はどうにも落ち着かない日が続いていた。
「またとんでもないことになったな」
話を聞いた斎藤が何とも言えない表情。
「……ああ。赤羽も和佐も甲斐機関とか言う組織の一員で、父さんからの指示を受けてあの全国大会の日に赤羽と会わせた。後から聞いたけど赤羽も誕生日が1月14日らしいんだ」
「……親父さんからしたら結婚2年前に初顔合わせしておきたかったって事か。まあ、後からあんな事になったがそれでもなお合わせてきたと」
「そうだ。あの野郎の魔の手が水面下で暗躍しまくってたらしい。……結婚2年前の誕生日に初顔合わせをセッティングしたってことは来年の1月にも何か予定している可能性があるんだよな」
「……節目のタイミングに何でも合わせようとする。親子だな、本当に」
「やめろ」
用を足し、男子トイレから出てくる。
「そう言えばまた火咲ちゃんの行方が分からなくなったらしい」
「ああ、噂になってたな。けどもう三船は心配ないんだろ?ならもうどこの組織に拉致されるんだ?」
「今一番ホットなのはやっぱりうちの組織なんだろうけど、和佐が言うには火咲ちゃんは三船までしか関係がないから甲斐機関の存在は知らない筈なんだよな。それを鑑みれば赤羽が実の姉であることを話しているとも思えない」
「……今まで周囲がやけにきな臭い動きばかりしてると思ったら実は過去から来た身内がすべて暗躍していた結果だなんてノイローゼになるな」
「全くだ。…………それに実はまだ、ノイローゼの原因があってな」
甲斐がため息をついた瞬間。
「お~に~い~さ~ま~!!!!」
しあわせの4文字をこれでもかと言うほど音に乗せて走ってきたのは杏奈だった。
「は~ぐっ!!」
「しません」
「きゃぅ!」
あんなのダイビングハグを甲斐は回避。頭から床にたたきつけられそうになるもその瞬間どこかからやってきたライルがキャッチする。
「お怪我は?」
「ありがとう、ライル。で、何で避けるんですかお兄さま!」
「何であと一週間で一学期が終わるって段階でどんな権力使って転校してきたんだ君は」
「だってだってお父様がひどいんですよ。お兄さまはずっと前から私のものだったのに」
「君のものじゃない。それに、」
「それに何その人の妹というアイデンティティを背負いながら奇行をしまくってるんですかあなたは!」
超スピードで和佐が飛来して杏奈にコブラツイスト。
「だって和佐ちゃんだってひどいじゃない。この春からお兄さまと同じ高校に通ってただなんて。中学の時と志望校違うじゃん!」
「大人の事情です」
「同い年だもん!」
「…………はぁ、」
ため息で斎藤の隣に並ぶ。
「教室戻ろう」
「あれが噂の次女ちゃんか。甲斐機関の二人目のご令嬢。そして執事」
「……次女だけならともかく執事がどうして学校に来てるのか。……あと、あの執事どこかで身覚えないか?」
「ん?……確かにどっかで見たような気がするな」
二人がライルをちら見したらにらみ返された。
「俺はともかく一応お前は主人なんじゃないのか?」
「次女専用執事だそうだ。ほっとんど口なんて利いてくれないぞ」
教室にやってくる。流石にそこまでは妹たちは追ってこなかった。
「甲斐君また妹さん増えたんだ」
逢坂が教科書を引き出しに入れながら苦笑する。
「……これからどうするんだ?」
「……とりあえず来月の西武に向けて稽古を……あ~、でもまだ実力不足なんだよな。矢尻ならまだ西武でも通用しそうだが……はぁ、」
「こりゃ甲斐のリフレッシュが必要だな」
「リフレッシュって何するんだよ」
「まあ今日の放課後を楽しみにしてけって」
斎藤の発言。そして放課後。甲斐は久々に大倉道場へとやってきた。
「……久しぶりだな」
実際今年最初の方に大会に向けての調整で一度来たきりだった。今までの道場と言うか赤羽&和佐家も馴染んだがやはり昔からずっと通ってきたこの道場も、リラックスできる。今回は赤羽もいないため指導員ではなくただの空手門下生として胴着を着られるのがまたよかった。
「やっぱお前はここでその格好が似合ってるぜ」
「斎藤」
斎藤もまた胴着姿で道場にやってきていた。
「俺も久々だな」
「けどいいのか?現役じゃないのに道場に来ても」
「雷龍寺先輩から許可は取ってるぜ。里桜が入院中だしな。俺達で稽古を代わりにやる条件でな」
「……まあ、久しぶりに俺達二人でやるか」
「ああ!」
それから中学時代のように甲斐と斎藤が指導員として小学生達の稽古を見ながら夕暮れを過ごす。そして午後7時過ぎ。
「じゃあ、楽しむとするか」
「そうだな」
生徒達が帰った後二人きりでスパーリングを行うことにした。

「……って感じの時間を過ごしてるみたいだね」
和佐家道場。甲斐の代わりに最首が稽古を受け持つ。
「男同士で良さそうだね。そのかわりこっちは女の子だけだけど」
最首、赤羽、久遠が仲良く稽古をしていた。
「でも赤羽ちゃんも久遠ちゃんも西武はどうするの?」
「はるちゃんから見ても久遠ちゃん達ってまだ西武に通用しなさそうなの?」
久遠からの質問に最首は少し考える。
「運が良ければ一回か二回は勝てるかもってところかな。でもたぶん廉君は西武参加者の平均以上にはしたいんだと思う。村上君がその平均ってわけではないと思うけどでもあの村上君に勝てれば平均は間違いなく超えてるわけだし」
「ちなみにはるちゃんなら勝てる?」
「うん。勝てるよ」
最首は断言した。彼女らしくない断言に赤羽が目を点にする。
「すごい自信ですね」
「まあ、実際そこまで実力差はないと思うけど私は西武を勝ち抜いた身だから、実際に西武を勝ち抜いていない村上君に負けるわけには行かないんだよね」
「おおお、」
感心する赤羽と久遠。すると、
「流石ですね、最首さん」
2階から和佐が降りてきた。
「和佐ちゃん。本当にここに住んでたんだ」
「はい。この前あの人が言ったことは事実ですから」
和佐が縁側に座る。
「和ちゃんは空手やってないの?」
「やってますよ。甲斐機関は空手……と言うか総合格闘技道場も兼任してるんです。中学時代はまだ医療品メーカとしては上陸してませんでしたけど道場だけはやっていたので」
「……総合格闘技……、空手だけに限定してないから聞いたことないんだ」
「達真君よりかは強いんでしょ?じゃあ村上さんは?」
「どうでしょうね、実際にやってみないと何とも」
「和ちゃんとはるちゃんって知り合いなんだよね?」
「はい、そうですよ」
「私と廉君は小学校時代からの知り合いだからね。和佐ちゃんも小学生の頃に妹として知り合ったから」
「年上だとは思いませんでしたけど」
「もう、それどういう意味?」
実際最首は高2だが中学生程度にしか見えず和佐はおろか赤羽よりも年下に見える。流石にまだ久遠よりかは年上に見えるが来年くらいになったらまだ分からない。この中では一番強いであろう最首だがそこだけが悩みの種だった。
「で、昨日のあの話で死神さん悩んでるんだよね?」
シャワー上がり。全員下着姿で牛乳やらポカリやらを飲んでいる。
ちなみにシャワーに入ったのは最首&久遠ペアと赤羽&和佐ペアだ。
「和ちゃん、汗かいてないよね?」
「いいじゃないですか。女の子同士で楽しむならシャワーが一番ですよ」
「……ここで暮らしていた頃でも一緒に入った事なんてほとんどないじゃないですか」
赤羽が反論。
「本当に美咲ちゃんと一緒に暮らしてたんだね」
「久遠ちゃんもどうですか?お家のことは聞いていますよ」
「ちょっと和佐さん……!」
「いいじゃないですか、赤羽さん。女の子3人で暮らせたらたぶん楽しいですよ」
「でも、美咲ちゃんも和ちゃんも寮にいるじゃん」
「土日とかお泊まりに来たらどうです?」
「あ、それいいかも」
「ま、まあ、それくらいでしたらいいかもしれませんが」
「……で、和佐ちゃん。和佐ちゃんがまたこの街にやってきたのってお父さんに言われてなんだよね?」
「お父さんって言うと語弊がありますね。私にとっては会長です。小学校中学校とあの人の支援を受けて暮らしていましたから」
「……その時ってもう赤羽ちゃんとは知り合いだったの?」
最首からの質問を受けて和佐と赤羽が顔を見合わせた。
「そうですね。存在は聞かされていたってところですかね。三船機関で特別な遺伝子を持った少女の研究をしていると。直接会ったのは赤羽さんが全身義体になった頃なので2年くらい前ですかね」
「……あれから2年後くらいかな」
「…………そうですね」
最首と和佐が表情を暗くする。
「えっと、何の話?」
疑問の久遠。最首は説明しようとしてしかし取りやめて、
「久遠さん。うちの兄が昔起こした大失敗のことは知っていますか?」
和佐が説明を開始した。
「えっと、正直そう君ぶっ殺したってイメージしかないんだけど」
「久遠。早龍寺さんは生きていますよ」
「言葉の綾だよ美咲ちゃん」
「……うちの兄は今から4年前にあの学生寮の近くにある無人発電所で大火災を起こしてるんです」
「あ~、何かどこかで聞いたことあるかも。でもそれって確か妹さんが、つまり和ちゃんがいたずらした結果起きちゃった事故なんじゃなかったっけ?」
「ええ、そうですね。そこに関しては何も言い訳するつもりがありません。あの夜の後にお友達をなくしていると言うのも聞いています」
「そうなの?」
久遠が最首を見上げる。
「…………うん、まあね。生きてはいるけどひどい火傷をしたって聞いたよ。そのまま転校して以降全く関係が戻っていないみたいだけど」
「何をどうしたら火事が起きちゃったの?ライターでも持ってた?」
「…………いえ、信じてもらえないかもしれませんが暗闇の中、脅かす準備をして待っていたら誰かに背中を押されて制御パネルを間違って押してしまったんです。それで過剰電圧によって火災が起きてしまった……」
「誰かって……。他に誰か居たの?」
「いえ、居なかったはずです」
「聞いた話だけど、あそこにいたのは和佐ちゃん入れて5人の筈だよ。それで和佐ちゃん以外の4人は脅かされる側だったから、居ないはずだよ」
最首も補足する。
「う~ん、死神さんとお友達3人が肝試しだっけ?和ちゃんには死神さん以外気づいてなかったんだよね?」
「そうですね。しかも私以外の4人は最後までずっと一緒にいたのであの場所で私の背中を押せるのは見ず知らずの第三者って事になります」
「…………幽霊とか?」
久遠の発言に赤羽が冷や汗をかく。
「ひ、非現実的です。でも、実際その事故って警察的にはどういう扱いになったんですか?」
「その場にいたのが中学生4人と小学生一人でしたし、故意でやったわけでもないと説明したのでただの事故として扱われました。犠牲者も出ていないわけですし」
和佐の発言に最首が少し表情を変える。
「和佐ちゃん、流石に一応当事者でその発言はないと思うよ?あの一件で廉君がどれだけ傷ついたか知ってる?」
「知っていますよ。私としても悪気がないからって罪悪感もないわけではありませんからね」
「……そこです」
突然赤羽が手を挙げた。
「あの人なら和佐さんが悪気があって事故を起こしたわけではないと分かるはずです。たとえご友人を失うことになっても絶縁したりあそこまで憎悪したりは行かないと思うんです。……他に何かあったんじゃないですか?」
「…………赤羽さん、その話はもう何度もしたじゃないですか。あの夜、兄とはひどく喧嘩をしてしまって……」
「……あの人とはまだそんなに長い間一緒ではないので全部を全部知っているとは言いませんけど、でも、友人を失う原因を作ったとは言え妹であり女性であるあなたに見た瞬間全力で殴り飛ばすような憎しみを示すような人ではないと思うんです」
「…………」
和佐は何も言わない。
「そこは私も気になるな。ただ1つの失敗だけであなた達兄妹がそこまで関係悪くするなんてちょっと考えられない。……あの日、私は熱があってずっと部屋に閉じこもってたから何があったのか分からない。もしかしたら蒼穹先輩なら何か知っていたかもしれないけど」
「…………ノーコメントです」
しかし和佐は何も答えない。
「……う~ん、和ちゃんいじめてるみたいであまりこれ以上聞きたくないかな。聞きたい内容ではあるけど」
久遠の判断。最首、赤羽は顔を見合わせてからため息をつく。
「分かった。でも、いつか話せるようになったら言ってね」
最首の発言でその場はお開きになった。

夜。寮に戻ってきた赤羽達と甲斐達が食堂で合流した。
「……どうしたんですか?やけにボロボロですけど」
赤羽達がいつも通りなのに対して甲斐と斎藤は全身ボロボロだった。と言うか甲斐に至っては松葉杖をついていた。
「……ちょっと全力でやりすぎた」
「……そ、その相手が出来た俺もまだまだ捨てたもんじゃないな……」
斎藤はもっとボロボロだった。
「……お二人でスパーリングでもしてたんですか?」
「ああ、気が済むまでな。久々に思う存分体を動かしたから疲れたがまあまあ満足だ」
「お、俺の方は明日は動けないかもな」
二人が席について猛烈に食事を始めた。
「…………そうだ、久々に道場行って思い出したが」
「はい?」
ゆっくりと食事しながら赤羽が甲斐の方に顔を向けた。
「今年の夏も合宿があるみたいだ。出てみるか?」
「……合宿ですか」
修学旅行の類にも出たことがない赤羽はあまりイメージが出来ない。
「一泊二日で二日間の合計稽古時間は3、4時間くらいだからいつもやってるものと大して変わらないよ。でもいろんな年齢の人が来るからいい経験にはなると思うよ。100人組み手もあるし」
最首が追加。
「二日目には川でハイキングもある。魚の掴み取りとか外での稽古とかがある。いつもとが違う雰囲気で稽古が楽しめる。あとは、普段道場でしか会わない連中と一泊二日とは言え一緒に過ごせる新鮮さがあるな」
「そんなに多くはないけど伏見や三船の門下生も来ることがあるんだよ」
「……三船もですか?聞いたことない……」
「まあ、たぶん後ろ暗くない表向きのメンバーだけが参加してるんだな。実際今まで合宿で会った連中はいずれもまともに空手だけやってる雰囲気だったしな」
「……私も行って平気なんですか?」
「問題ないだろう。そうだな、矢尻も連れて行くか」
「でも廉君の方は平気なの?非整地が多いけど」
「そうだな。山道とか川とかは厳しいかもしれないな。とは言え連れて行くだけ連れて行って張本人がサボりも意味が分からないだろう。……それに、合宿には大倉会長も来る。滅多に話す機会もないから少し話がしたいものだな」
去年まで合宿でここまで息が詰まるなど予想もしていなかった。いつも通りの日々に少し変化を加えながらアウトドアを楽しむ程度のイベントだった。右足を壊したこともそうだが、間接的に自分の父親のせいで今年1年は凄まじい変化が起きている。それに多少申し訳なさを感じないでもないが何より放っておいてほしいと言うのが本音だ。
が、腐っても親子なのだから予想は出来る。あの父親がこれで終わりな筈がない。最悪今度の合宿でも何か仕掛けてくるかもしれない。
「誰か呼んだか?」
そこへ達真がやってきた。どうやら風呂上がりらしい。
「よう、矢尻。今度合宿行くぞ」
「合宿ですか?ひょっとして大倉の?」
「ああ。バカ弟子から聞いたのか?」
「それと龍雲寺ですね。最近よく一緒にいるんで」
「ああ、3人同い年だったな。龍雲寺も馬場家の問題が解決しそうらしいし、今度の合宿は馬場家も揃い踏みになりそうだな」
「俺、次男のことはよく知らないっすけどね」
達真の発言に視線が甲斐に集まる。
「……まあ、早龍寺は来れないだろうから除外だな。逆に久遠ははじめての合宿だろう。龍雲寺も2、3年ぶりくらいになるか」
「まだ龍雲寺君は来るか分からないけどね」
達真が牛乳を片手に席に着く。
「赤羽は行くのか?」
「はい。甲斐さんに誘われて……。興味もありますし」
「……ちなみに費用は?」
「ああ、それは、」
甲斐がずっと無言もままだった和佐に視線を向ける。
「融通しろ」
「……ひどい言いぐさですね。どんな兄妹の会話ですか」
「せめてそれくらい役に立て。どうせまた合宿で何かたくらんでるんだろう」
「……そこは企業秘密です」
「……と言う感じだ。矢尻も赤羽も費用は気にしなくていいぞ」
「……鬼畜だな」
「和佐さんに請求するってことはつまり私も機関に請求しないといけないのであまり関係はないと思いますが」
「……ってことは俺だけ自費か」
「い、一応掛け合ってみます」
「……」
「廉君。和佐ちゃんへの嫌がらせのつもりが一人だけ悪者になっちゃったね」
「……何の事かな?」
冷や汗かきながら醤油ラーメンとカツ丼をむさぼる。
「そんなのメニューにありませんよ」
赤羽のツッコミ。
「まあともあれ西武前に普段会うことのないいろいろな奴らと会ってスパーリングが出来るのは大きいだろう。特に大きいのは普段は指導員として稽古を教える立場の人間と組み手が出来ることだな。赤羽の場合は俺や最首が実戦に近い形で毎回教えているから実感沸かないかもしれないが、普通の門下生からしたらわくわくと萎縮とが合わさった特別な機会になるんだ」
「さっき言っていた100人組み手と言うものですか?」
「ああ。参加者が100人とは限らないから他の参加者全員と組み手が出来る訳じゃないが基本的に合宿参加者は全員参加する。組み手一回は大体30秒くらいしかないがきっちり100回行うから50分くらいはずっと動きっぱなしになるわけだな。相手もスパーリングだからまあ、多少手加減はするだろうが本気で倒しに来るわけではないから安心はしていい」
「あ、でもどこかの誰かさんはその30秒で相手をボコボコにしてくるから注意してね。拳の死神って呼ばれている人なんだけど」
「……何となくそんな気はしてました」
「まあ、女の子相手には優しいと思うから赤羽ちゃんは気にしなくて良いよ。矢尻君は死んじゃわないように気をつけてね」
「……3月に自分を圧倒した女子が居ましてね?まだまだ自分の未熟を恨んでいたんですよ。そしたら突然部室の障子をぶち破って目の前にいた女子を正拳突き一発で中庭までぶっ飛ばした先輩が居ましてね。奇遇ですけど、その人も確か拳の死神って呼ばれてる人でした」
「……矢尻、合宿に行く前にどこがいいかか決めておくと良いぞ」
甲斐から達真のスマホに何かのURLが送られてきた。開くと近所のメモリアルパークの検索結果が表示された。
「…………」
風呂上がりなのに悪寒を感じる達真だった。
「……火咲ちゃんも連れて行きたかったんだがな」
「さっき少し部屋を見ましたがまだ帰ってきていないようでした。黒も姿を見ないので一緒に行動して居るものと思われます」
「……三船という奴らじゃないんですよね?」
達真が冷や汗かいたまま甲斐を見つめる。
「ああ。その可能性は低いだろう。赤羽やあのクローンの子ならともかく火咲ちゃんが三船に拉致される理由が見あたらない。何より三船は既に閉鎖されていて活動はほとんど何も出来ないはずだ」
「……そうですか」
言いながら甲斐は黙っていた情報もある。昨日寮に帰ってきてから上着に発信器のようなものが付けられているのに気付いた。いつ付けられたのかは分からないが父に付けられたものだと思う。しかしもしも火咲に付けられたものだとしたら……。そして何か昨日の会話で彼女がここを離れる理由が生まれたとしたら。
(しかし、何が火咲ちゃんに関係していた?あの子に関係するものと言えば精々三船の上位組織である甲斐機関の存在だけだ。それがあの子の何を急がせた?)
「……どうしたんですか?」
「いや、何でもない。火咲ちゃんのことはひとまずおいておこう。警察に言っても良いか分からないが寮長には不在のことだけは伝えておこう。そこから警察に行くかもしれないが……ん、」
「どうしました?」
「……いや、あの子、生活費とか学費とかどこから出してるんだ?三船か?」
「いえ、あの人は三船から脱走した人なのでその線はないかと」
「……あの子も両親は居ないはずだから…………いや、けど可能性が一人いたな」

・甲斐機関。病院。
「で、俺のところに来たのか」
剛人の病室。そこに甲斐は来た。
「ああ。正直まだあんたのことは怖い。けど気になったんでな」
「……ふん、急に妹が二人になった事で親近感でも出てきたか?」
「……あんた、その話をどこで……」
「三船の情報網はまだ生きている。むしろ所長が捕まったことでパイプが増えたと言うべきか。今日は三大機関と打ち合わせをしているようだしな」
「……」
「まあ、上がどうなろうと知った事じゃない。俺としてはまた妹と暮らせればいい。……2、3人増えてしまっては居るがな」
「そのうちの一人に用があるんだ。火咲ちゃんどこにいるか知らないか?」
「さあな。どこにいるかは知らない。ただ、今月分は家賃を支払わなくていいって言ってたな。代わりに少し金をよこせって」
「……やっぱり火咲ちゃんの生活費を払っていたのはあんたか」
「所長が結構懐広い人でな。必要だと言えば目的を話さずともいくらでも資金を出してくれた。そもそも火咲が脱走するのを手伝ったのは俺だ。元々は大倉に回収された美咲を探すためだったがそれが方便で三船から脱出したかっただけなのは俺も気付いていた。それでもよかった。あいつも簡単に大倉に捕まるほどバカじゃない」
「……彼女の行きそうな場所は?」
「さあな。三船でないことは確かだ。それに今朝ここに来たぜ」
「…………今朝か」
やはり彼女が昨日の話を聞いていた可能性が高い。だがそれでも理由は不明瞭だ。
「聞きたいが、甲斐機関の存在を火咲ちゃんが知ったとして何か不利になるようなことはないか?」
「何?…………火咲に盗聴でもされてたのか?ともかく、何も関係はないと思うが?」
「……そうか」
「なるほど、お前の話を聞かれてそれの何かが理由で火咲がお前の元を離れた……そう考えているわけか。それは少し突飛だな」
「……だとしたらどうして……」
「いくら三船が崩壊したとは言え単純にまた一人になりたかったんじゃないのか?お前達に見つかって周りに人間が増えて、それが鬱陶しかったんじゃないのか?……それか、あの陽翼って子が関係しているのかもな」
「陽翼ちゃんが?……いや待て。火咲ちゃん妙に矢尻と仲良かったしそう言う可能性もあるのか……?」
「矢尻達真か。穂南蒼穹と言い矢尻陽翼と言い、不律儀な男に引っかかってしまったようだな」
「……その可能性はなくはないだろうがタイミングがおかしい。どうして昨日の今日で姿を消すんだ?矢尻を忘れたいって言うならもっと早く姿を消せばよかったはずだ。……なぜ今日に……」
「死神。火咲には100万くらい使えるカードを渡した。黒も一緒だが基本あいつは両手が使えない。いくらか握力は回復したかもしれないがそれでもあいつには自由がない」
「だから自由にしてやれって?」
「ああ。俺に対して別に何も言って来ていないからまだ俺と縁を切るつもりはないだろう。たった100万ならそんなに長い間離れることもない。お前は少し構い過ぎじゃないのか?他人の妹に」
「…………悪い。俺が関係してるんじゃないかって……」
「……何でもかんでも誰かが変化する理由を自分に探すのは傲慢な話だぜ。神様じゃあるまいし」
「……そんなもの、宛にしたことはないさ。じゃあな、怪我治っても脱走するなよ。赤羽美咲の方にはいつでも会わせてやるから」
「……ふん、」
甲斐は退室した。
「……ここ、矢尻が入院していたところだよな。ってことは火咲ちゃんもこの病院は以前から知っていたことになる。けど、ここの病院は甲斐機関のもので……火咲ちゃんはここに何か隠していたのか?三船はもちろん他の機関にも知られたくない何かを」
甲斐は廊下を歩く。ここには陽翼も入院している。さすがにほとんど面識がないし、夜も遅いから顔を出すわけには行かない。
「……けど明日じゃ遅すぎる気がする」
夜の病院の廊下を歩いていると関係者以外立ち入り禁止の看板を見つけた。
「……」
甲斐は周囲を見渡してその先へ進んだ。照明もついていない真っ暗闇の廊下を進む自分の足音だけが聞こえる時間。
やがてわずかな照明が見えてきた。何かの部屋だろう。物音もするため誰か居るのだろう。
「……」
ドアに向かって手を伸ばす。直後、
「させない!」
「!」
その手がたたき落とされた。
「火咲ちゃん!?」
流血した腕を庇いながら後ずさると、正面に火咲の姿が見えた。
「いきなり何をする……!?」
「ここは関係者以外立ち入り禁止よ。それにここから先あんたは絶対に通すわけには行かないわ、変態師匠」
「……無理に聞き出したりはしないつもりだった。だが、何か企んでいるなら悪いが力ずくで聞き出させてもらう」
流血した右腕と共に左腕も構える。対して火咲は空手ではない、ムエタイの構えを取った。
日本刀や槍、弓矢などの日本の武器に対してたとえ船上であっても安定して戦うために作られた空手に対して古代のタイにて武器を使わずともその手足だけで相手を仕留めるために作られたムエタイ。かみ合いそうでかみ合わない異色の組み合わせ。
「……悪いけどまだあなたには知られるわけには行かないのよ!」
床が爆発した。そう思わせるほどの踏み込みで火咲は彼我の距離を縮めた。距離も速度も足りないが理屈としては縮地に近い。この爆発的踏み込みをダイレクトにパワーに利用する飛び膝蹴りがムエタイの最大の武器と言っていいだろう。
「初見ならまだしも!」
甲斐は左手でそれを受け流す。同時に右手で攻撃しようとするが流血による痛みから数テンポ遅れる。
「儲けもの!」
火咲は制空圏でそれをギリギリで受け止めると甲斐の右膝に向けて自身の膝をたたきつける。
「ぐっ!?」
「…………っ!!!」
膝と膝の激突。この界隈ではよく自爆と表現される事故。最悪互いの両膝が破壊されるため最大限注意される行為だ。しかし火咲は今自らの意志で自爆した。しかも半年前に早龍寺との戦いで負傷した部分を正確に。
「くっ……ううう!」
無意識にトラウマになっていたのか甲斐が痛み以上に興奮し、後ずさる。
「……武闘家としては最低だけれどもあなたを止めるにはこれしかない……」
「……これも三船の情報網か……?この足の正確な怪我まで把握して攻撃できるなんて……」
「……三船は関係ない。これは、私だけの問題よ……」
火咲も左膝が妙な方向に曲がっている。ダメージだけで言えば火咲の方が上かもしれない。
「……ここは、病院だぜ?」
「え?」
甲斐は手すりに捕まって立ち上がる。
「……そんなの、」
火咲もまた手すりに捕まって立ち上がるが、
「…………くっ、」
「その足では彼我の距離を詰めるのは不可能。よしんば詰められても膝蹴りは繰り出せないだろう」
「……ムエタイは膝だけじゃない!」
手すりに捕まりながら少しずつ距離を詰めて甲斐に向かって肘を放つ。
が、
「遅い!」
甲斐の手刀が火咲のこめかみを穿つ。
「っ!!」
「手刀横顔面打ち!!」
その打撃が火咲の体を床にたたきつける。
「……そんな、パンチですらない手刀で……くっ、まだこんなに差が……」
「諦めろ火咲ちゃん。山羊座は好奇心が強いのさ」
「……そんなことは知っているわ。けど、だからこそ……」
「だからこそチェックメイトなのです」
新たな声。見れば和佐と赤羽がいた。
「どうしてここに……」
「尾行したに決まってるじゃないですか。ついでに時間外に赤羽剛人への見舞い客が現れたとも連絡が入りましたからね。それはあなただけでなく、今朝の最上火咲さんについても」
「…………くっ!」
火咲はまだ揺れる視界のまま立ち上がった。
「……その足ではもう悪足掻きも出来ませんよ。何をしたかったのかは分かりませんがもう諦めてください」
和佐が静かに構える。一方、赤羽は電気のついた部屋のドアを開ける。
「…………!!!」
「赤羽さん?どうしたんですか?」
和佐もまた開かれたドアの先を見た。
「……最上さん、あなたどうしてこれを……」
「……くっ!」
火咲が無理矢理床を蹴って距離を詰める。しかし、全く速度が出ていなかったため和佐に片手で止められる。
「……どうしてあなたがこれを知っているのですか……!?」
ねじ伏せ、右腕の関節を完全に決める。肘も肩も10秒と待たずに折れるだろう。しかし、
「はいそこまで!」
甲斐が一瞬で和佐を殴り倒す。
「ぐっ!!」
「……さて、」
床にうずくまる和佐を見てから甲斐が動けずにいる赤羽の方へ向かう。
「いったい何が隠され……て……」
開かれたドア。そこは病室。一人の少女がベッドの上で眠っていた。
「……………………キーちゃん?」

・夜が明けた。
「……さて、そろそろ話してもらおうか」
自室。指をバキバキ鳴らす甲斐。正面には顔も首から下も血痣だらけで倒れる和佐。
「あの火事のせいで一酸化炭素中毒になりアメリカの病院に入院中のあの子がどうして日本の、甲斐機関の病院にいるんだ?あぁん!?」
「………………答えられません」
「ホァタァァッ!!!」
勢いよく和佐の頬をたたき、妹の体が宙を舞い、部屋のドアを突き破る。
「あ、」
ドアの向こうには赤羽と最首がいた。
「……何だいたのか」
二人を見て呼吸を整える甲斐。
「……廉君、少しやりすぎだよ。流石にこれ以上和ちゃん殴るなら私が相手になるよ?」
「…………まあいい」
血塗られた手をシャツで拭う。
「…………でも和ちゃん、私も同意見だよ。いったい何がどうなっているの?赤羽ちゃんからもほとんど話が聞けなかったし」
「…………それは、」
「赤羽、君はどうなんだ?」
甲斐の視線が赤羽を刺す。それに怯みながらも赤羽は答えた。
「…………いえ、全く知りません」
「そうか。まあいい。そろそろ朝か。悪いけど今日は休ませてもらう」
「え、皆勤賞狙ってなかった?」
「……流石に入院して修学旅行不参加だしもう無理だろう。……そいつのことは任せた。好きにしてくれて構わない」
ぶっきらぼうに、しかしなるだけ冷静なそぶりで甲斐はベッドに潜った。
「……流石に和ちゃんもその顔じゃ学校いけないよね」
「……すみません。でも機関に行けば治ると思いますので」
「……甲斐機関って医療品メーカーだったっけ?それでもそんなすぐ治るものなの?」
「……あの火事の時、私もあの人も火傷を負いました。それでも甲斐機関の力で人工皮膚などを使うことで元通りの外見に戻れました。今では肉体のほとんどを人工物で補うことも可能なんです。赤羽さんのように」
「…………」
赤羽は答えない。最首は二人の顔を交互に見るだけだ。やがて和佐は重い体を引きずってどこかへ去っていった。赤羽も無言のままそんな彼女の背中を追いかけた。

「……はあ、」
一人きりの登校中。最首は大きなため息をついた。
「よう、最首。珍しいな、一人か」
斎藤と途中で合流。
「いろいろあってね……」
「また甲斐が何かやらかしたのか?昨日の今日でそんなに時間なかったろうに相変わらず巻き込まれ体質だな」
「……斎藤君も相当だと思うけどね」
学校に行くまでのわずかな間に設置されたベンチ。そこら中に湿布や包帯を巻いた状態で黄昏ている姿は変に味がある。
「……キーちゃんが日本にいたの」
「……え、もう目が覚めたのか!?」
「ううん。私も直接見たわけじゃないんだけど昨日、廉君が和ちゃん達の病院で目撃したんだって」
「……どういうことだ?あれ、でも甲斐機関って元々アメリカの企業だよな?で、キーちゃんも確かアメリカの大きな病院に入院してたから何かしらの関係があったってことか。…………あ~、で、甲斐の奴が和佐ちゃんに詰め寄ったわけか」
「そうなの。一晩中すごい音ばかりしてて……。もう収まって和ちゃんは病院にいったんだけどね。あ、廉君は今日休みだって。これから寝るそうだし」
「あいつ、妹や嫁の話になると途端にバーサーカーになるからな。けど、日本にいてしかも結構大きな医療機関にお世話になってるならキーちゃんも安心なんじゃないの?」
「だといいんだけど、和ちゃんもそれに赤羽ちゃんも何も言ってくれないから」
「赤羽も何か関係してるのか?」
「同じ組織の一員だし、何か黙ってるような感じだった。でも赤羽ちゃんはあの火事のこと詳しく知らないみたいだったし。……はあ、私もよく分からないよ」
最首がまたため息。斎藤も小さく息を吐いてから立ち上がる。
「せっかく昨日少しはリフレッシュしたんだがこれじゃリバウンドかな」
「廉君のこと任せていい?私は和ちゃんや赤羽ちゃん当たってみるよ」
「ああ。俺も今日は休むわ。今日体育あるしこの体じゃ厳しいしな」
「そう……。何かあの頃のこと思い出しちゃうな。熱が上がってやっと学校通えるようになったのに廉君も和ちゃんもあの二人もいない……」
ため息。心なしか顔色もあまりよくないように見える。
「最首、大丈夫か?お前も少し休んだ方が……」
「……大丈夫。何もしないよりかは体動かした方が良いもの……」
そう言って最首は軽く手を振って学校へと向かった。
「……因果なものだな。この学校は孤児が多い。死別以外で別れた奴もいるだろうが再会できるのはかなり珍しい。……なのに、いやだからこそか。家族が再会したせいで今までの日常が狂ってしまう。……贅沢な悩みなのかな」
斎藤は頭を振るい、立ち上がり学生寮へと戻っていった。

思い出すのはいつだって炎の夜だ。軽い気持ちで足を踏み入れた無人発電所。いつも通りの仲のいいメンツだけで進んだ暗闇のワクワク。わずかとも言えない恐怖をごまかすための他愛ないおしゃべり。いつまでも続くと思ってた日常は突然の炎によって葬られてしまった。
見知った顔から延びた炎は一瞬で暗闇もワクワクも塗りつぶした。
「熱っ!!うああああああ!!」
「こ……か……じぃぃぃぁぁぁ!!!」
「お前達!!」
すぐ隣で燃える友人達。苦しみもがいている内にその手足が黒く消えていく。
「廉君!!廉君!!」
手を伸ばす。それは黒く消えていった友人達を助けるためではなかった。暗闇の中悲鳴を上げる少女達を守るために。
「くっそぉぉぉぉぉ!!」
そのまま両手で拾える命だけを連れて走り出した。炎が照らす先ではなく静かに残ったままの暗闇へと。ただひたすらに暗闇の中へと走っていく。
「待って!!廉君!二人がまだ……!」
「駄目だよ!僕達まで……!!」
「……僕が行く!」
「キーちゃん!?」
手を払い、少女は赤く燃える光へと走り出した。
「待って!!きーちゃ……」
「廉君!!」
「和佐!離せ!!キーちゃんが!!」
「でも廉君が……!!」
「……くっ!!」
甲斐はその手を払い、燃えさかる光を手で遮りながら突き進む。その後のことはよく覚えていない。ただ、気付いた時にはレスキュー隊員が来ていた。手足を失った友人達が救急車で運ばれていき、そしてその腕の中で黒ずんだ物体が息を潜めていた……。
「……どうしてこんなことになったんだ」
帰宅してから一人きりの部屋でうずくまる。わずかな光さえも断絶した真っ暗な部屋で。
「……」
少しドアが開いた。気配と匂いで分かる。和佐だ。
「……私はここにいるよ」
「……」
顔を上げる。骨折したみたいに左腕を包帯で支えていた。炭になったわけではないだろうが大きな火傷を負ったことは間違いない。
「……私ならここにいる」
寄り添うように少女は兄へと足を進め体を預けた。
「ここから二人で始めようね……?」

朝が来た。
携帯電話にいくつかのメールが届いていた。
「…………最低だ」
カーテンを開ける。窓に映った曇り空にはその評価が正しい男の顔。一人だけ大した怪我もなく生き残ってしまっただけでない。一番苦しくないくせに苦しみを晴らすことを求めてしまった。望んでしまった。傷つけてしまった。
「…………」
濁った朝の日差しからベッドに横たわり眠る和佐の裸体を見て初めて火傷の多さに気付いた。火傷だけじゃない。自分で傷つけた打撃跡、血痕。ただ助けようとして助けられなくて自分だけ助かって恐怖を忘れるために見捨てた誰かをまた傷つけて……。
「大丈夫。またいくらでも受け止めてあげるよ……」
「っ!!」
優しい闇が慈愛の声を上げる。光を寄せ付けない闇の毛布が、シルエットが自分に優しいだけの声をかけてくる。
「廉君」
「廉君」
「廉君」
「廉君」
ただ自分の名前を優しく呼んでくれる無数の声。消えない声。ずっと求め続けていたい声。消えない声。消えない声。消えてくれない声。
「廉君」
「廉君」
「廉君」
「廉君」
耳を、頭を、全身を優しく抱き留めてくれるような声。消えない声。消えない声。暗闇以外がすべて燃えさかる光になっても消えない声。優しいだけの声。すべてを受け止めてくれるだけの声。消えない、消えない消えない消えない消えない消えない……

「しっかりなさい、甲斐廉」
「!!」
目を開ける。見慣れた天井。久々に聞いた誰かの声。
「……穂南……?」
もう1つのベッドを見る。そこにいるべき少女は二人ともいない。
「……何だったんだ」
起きあがる。ペットボトルの少ない水を一気に飲み干してから時計をみた。
「……昼過ぎか。思ったよりは寝てたな」
スマホを見る。いくつかメッセージが届いていた。
「斎藤、最首、……火咲ちゃんから?」
そう言えばいつの間にか姿を消していた。自爆した膝ではそう遠くはいけないはずだが。
「……」
思い出すと自らの膝も痛んだように感じる。しかし歩いている内に慣れていく。
「……やっぱりここか」
誰もいない学生寮。女子寮へと進んだ先は赤羽と火咲の部屋だ。ドアを開けると、
「……」
上半身裸の火咲が立っていた。
「…………あー、その、なんだ」
「……………………はぁ、やっぱこうなる」
火咲がため息をつくと同時にベッドからリッツが跳び蹴りを放ってきた。
「いや、悪い。すぐ出てくから」
その跳び蹴りを片手で受け止めてから甲斐は部屋を出ていった。やがて5分ほどしてからドアが再び開く。
「相変わらずあなたは変態師匠なんだから」
私服姿の火咲だった。
「……戻ってきたんだな」
「あなたに見られちゃったしね。あなただけじゃない。あの二人にも。だとしたらもうコソコソしてたって無意味だし」
リッツが煎れた紅茶にストローをさして飲む火咲。
「……どうして君があの子のことを知っている?」
「……私にだって交友関係くらいあるわ」
「……事前にあのこと知り合いだったっていうのか……?ならどうしてあの病院にあの子が居ると」
「逆よ。私があの人をあの病院に運んだの。今の甲斐機関は胡散臭いから三船の方がまだ信用できる」
「……」
ため息をつき、床にそのまま座る甲斐。少し足にはきついが考えを乱すほどではない。
「…………じゃあ何か、君は以前からあの子と友達で、甲斐機関が信じられないから三船の息が掛かったあの病院に運んだってことか?」
「ええ、概ねその通りよ」
紅茶を飲み干すとリッツがティッシュで火咲の口元を拭う。
「ずっと三船にいた君がどうしてあの子と知り合った?」
「あなた、そんなに独占欲が強かったかしら?自分の嫁が自分の知らない交友関係を築いていたらそんなにおかしい?」
「そう言う訳じゃないが……あまりに結びつかないというか……」
「…………せっかくだからもう少し混乱させてあげる。あなたの妹と今の赤羽美咲を信じない方が良いわ」
「……どういうことだ?」
「あの二人、おかしいのよ。あなたは気にならない?いくら何でも裏の事情に関係しすぎている。それに、今の赤羽美咲。あれが三船でどんな実験を受けていたのかそれを調査したのだけど私が全く知らないものだったのよ」
「どういうことだよ」
「本来三船研究所が赤羽美咲に対して行っているものとは違う実験をしていると言うことよ。そして昨日の様子からしてあれは彼女を、ながy……甲斐三咲を知っている様子だった。おかしいと思わない?彼女がアメリカに入院していた時にはもう今の赤羽美咲は本来とは違う実験を受けていた。私以上に三船の研究所にずっといた。それなのにどうして彼女のことをしれるの?」
「……和佐から聞いたんじゃないのか?機関で一緒だったようだし」
「甲斐三咲の入院先を赤羽美咲は知らなかった。存在を隠していたのよ?甲斐三咲の情報はあなたの妹が厳重に秘匿していた。いざという時に使うために……!」
「……」
混乱している。火咲が何を話しているのかが分からない。だが、こんなに感情的になっている火咲は初めて見る。赤羽と和佐に何かがあるのは間違いない様子だ。
妹はもちろん、赤羽美咲に関しても最初の頃から違和感はあった。きっとまだ隠していることもあるのだろう。しかし火咲の言葉と昨日の出来事からどうも普通ではない、何かとんでもないことが起きている感覚がある。
「…………1つ、知ってたら教えてほしいんだけど」
「何?」
「4年前の火事で和佐は誰かに背中を押されたって言っていた。それって誰に押されたんだ?」
自分でも何でこんな質問をしたのかは分からない。普通火咲が知るわけがない。
「…………4年前。私とあの赤羽美咲は三船の実験の合間に一度だけ外に出されたことがある」
「……え?」
「辻褄が合うのよ。あの日私と別々に行動していた赤羽美咲が研究所に戻ってからいつもと違う実験が始まった。そしてそのタイミングであの人はアメリカに渡った」
「……待ってくれ。何を言ってるんだ……そんなの、あり得ないだろ……?」
「……理由がない。でも、物理的に不可能じゃないわ。どうしてあの夜だったのかは知らない。でも、あの夜。あの赤羽美咲はその無人発電所に行って、あの人を……!!」
「っ!!」
直後は一瞬だった。窓ガラスが割れ、胸から血を流したリッツが火咲を庇うように倒れた。
「……黒……!?」
「狙撃!?」
甲斐はすぐに火咲の手を取って引き寄せて窓から離れる。
「待って、黒が!」
「狙いは君だ!」
カーペットに染み渡るリッツの血だまり。しかし立ち上がったリッツが窓の外を見ると今度はその右目が撃ち抜かれた。
「黒!!」
叫ぶ火咲。胸と右目を撃ち抜かれたリッツはドアに向かって吹っ飛び、二人の足下に倒れた。
「…………貧乏くじ引いちゃったな……シフルと帰ればよかった」
感情のない声。右目と口と胸からは血が止まらない。
「リッツちゃん……!」
「死神、あなたは火咲の腕になって。そして火咲があなたの足になる」
「……黒……あなた……」
「死神、私の両目はカメラにもなってる。右目は破壊されたけど左目はまだある。これを三船の研究所に繋げれば狙撃手の解析が出来る筈だ」
「……腕ってそう言うことかよ」
甲斐は右手をリッツの左目にのばす。彼女の唯一残った光を閉ざすために。

学生寮、裏庭。斎藤と合流した甲斐と火咲は雅劉に連絡を入れることにした。事情を話したらすぐに来てくれるそうだ。
「……何か、とんでもないことになったな」
斎藤が口にする。今朝は別のことで悩んでいたのに今はそれどころじゃない。少しはとれた全身の筋肉痛も別の緊張で本調子じゃない。
「……巻き込んで悪いけどバラバラで行動している方が危険だからな。背格好も近いから間違って斎藤が襲われるかもしれないし」
「いまいち現実味がないけどな」
なるべく顔を出さないようにして雅劉の到着を待つ3人。
「……」
その中火咲は何も喋らない。
「……意外だな」
「何よ。血も涙もない女だと思った?」
「多少は。……リッツちゃん犬死ににさせたくなかったら生き延びることだ」
「……分かってる」
「……ん、誰かいるぞ」
斎藤が指を指す。学生寮の廊下を制服姿の少年が歩いていた。
「今ここは危険だって伝えないと……」
「…………いや、待て斎藤!」
甲斐は叫ぶ。しかし少年に歩み寄った斎藤が振り向いた瞬間。その少年が斎藤に飛びかかった。
「くっ!何だよ!」
正面から受け止め、少年の攻撃を防ぐ。
「あれはまさか男性型人造人間……!?」
「それって三船の……!?」
「本来三船の人造人間は赤羽美咲の特異な遺伝子を研究するのが第一目標だった。だから必然的に女性型を作る。でも、三船は一度男性型を作ったことがあるのよ」
「……待て。三船は敵に回ってるのか?いや、それより封鎖されたんじゃないのか!?」
「……今三船の施設を使えるとしたら……」
「……うちの連中か……」
甲斐が立ち上がる。が、
「来なくていい!俺一人で何とかする!」
「け、けど……!」
「俺だって戦えるんだ!」
少年の至近距離からの膝蹴りを防ぎ、逆にその膝を掴んで関節を外す。少年が怯んでいる隙にその顔面に飛び膝蹴りを打ち込む。
まだ体は鈍いがいざ戦いになれば話は別だ。確かに相手は普通じゃないが戦えないわけでも技が全く通じないわけでもない。
「斎藤、まさか囮になるつもりか!?」
「そんな殊勝なことしないっての!」
少年が膝関節を直そうとしているのを見た斎藤は飛びかかり覆い被さるようにして少年の動きを封じつつ腰関節に体重をかけてダメージを与える。
「……空手じゃないわよね?」
「まあ場面が場面だからな」
実際前屈みになった相手に対して有効な手段である。身動きを封じているのはもちろん場合によってはそのまま腰を折ることで完全に動きを封じられる。空手ではもちろん御法度だが状況が状況だ。咎めるものはいないだろう。
「ただ、室内だからまだいいが身動きがとれないのは斎藤も同じだ。狙撃されないかだけ不安だ」
「…………そうね」
「どうした?」
「昔私が聞いた男性型にしては少し外見が幼すぎるのよ。製造途中だったとは言え今のあなたくらいの年齢だったはず」
「……まさか……!」
その時。甲斐のスマホが鳴る。雅劉からだ。
「雅劉さん!?」
「生きてるか!?甲斐!」
「何とか……!」
「笑えない状況になった。伏見が攻撃を受けている。お前からの連絡を受けて一部隊連れて向かってるんだが謎の男から攻撃を受けて先に進めない状況だ」
「武器は!?」
「使ってるんだが当たらねえ!!」
武器即ち銃を使っても当たらず軍人を相手に出来る男。悪い予感しかしない。
「そんなこと出来るのは噂の奴くらいなものね」
「……三船の男性型人造人間……そしてそれを扱う甲斐機関の人間」
話が繋がりすぎて怖い。
「甲斐!出来るだけ密室に隠れているんだ!別の部隊も回させる!」
そこで雅劉からの通話が切れた。甲斐はそのままある人物のアドレスを出す。
「ちょっと、赤羽美咲に連絡するつもり!?」
「もしかしたら何か知っているかもしれない」
「あいつ、私を始末しようとしたのかもしれないのよ!?」
「そんなおかしなことになってないと信じたい。だから」
甲斐は赤羽に電話をかけた。
「はい、私です」
「今攻撃を仕掛けてきているのは君か?」
「……何の話ですか?」
「火咲ちゃんが狙撃された」
「……狙撃……?」
「何も知らないのか?三船の設備が使われているみたいだぞ……!?」
「…………調査してみます」
「なるはやでな」
通話を切る。火咲の方を向き、
「騙しているようには聞こえなかった」
「…………あなたがそう言うならそうなのかもしれないわね。けどそうなるといったいどこの組織が……」
そこでクラクションの音が聞こえた。甲斐は駐車場の方を向く。
「……伏見か?それにしては早すぎるな」
「用務員が何かに巻き込まれたのかもしれないわ」
「お、おい!お前達こいつどうしたらいいんだ!?」
そろそろ体勢がきつくなってきたのか斎藤が声を上げた。見れば両足を掴まれてものすごい握力をかけられているのか肌の色が変わってきている。
「出来れば気絶させて手足の関節を外す!順不同!!」
「よ、よし、ならまずはこのまま……!!」
斎藤はより強く少年の体を捕まえて腰骨に体重をかける。すると少年はタイミングを合わせてしゃがみ込む。
「わ、」
勢い余った斎藤は少年の背後にまで前転してしまった。しかも斎藤の両足はまだ掴まれたまま。
「こいつぁまずいか……!」
逆さになった斎藤。少年はそのまま斎藤の頭を床にたたきつけようとする。斎藤は両手を伸ばしてギリギリで防ぐと自ら両足の関節を外して強引に少年の握力から逃れる。
「……くっ!!」
激痛。耐えながら斎藤は素早く関節を入れ直す。それは少年も同じで膝の関節が正常に戻ったと同時に斎藤に襲いかかる。受け止めた斎藤。しかし少年は素早く体勢を変えて斎藤の右腕の関節を決めてそのまま一気にへし折る。
「っがああああああああ!!!!」
「斎藤!!」
鈍い音と絶叫。もだえる斎藤の背後を素早く奪った少年が懐からナイフを取り出し斎藤の背中に突き刺す。
「ぐっ……あ、あああああ……!!」
斎藤の背中からナイフが抜かれ、少年が再び斎藤の背中に突き刺そうとした時。
「やめろ!!」
甲斐が縮地で一気に距離を詰めて少年の鳩尾に拳をたたき込む。
「っ!!」
体が浮き、窓ガラスを突き破って少年が頭から裏庭のコンクリートにたたきつけられる。
「斎藤!!しっかりしろ!!」
「……だい……じょーぶだっての……」
右腕をへし折られ、背中から血を流す姿はとてもそうは見えない。どうしてもさっきのリッツの姿と被ってしまう。そして、
「変態師匠!!」
叫ぶ火咲の声。振り向けば黒服が10人ほどいた。それも味方ではない。全員が拳銃を甲斐と火咲に向けていた。やがて、
「やあやあ、ご機嫌かな?」
奥から小太りの中年が闊歩して来た。
「……あんたは?」
「わたくし、こういうものです」
にやにやした顔のまま名刺を出してくる。しかし読める距離ではあっても受け取れる距離ではない。もちろん勝手に動ける状況でもない。
「……甲斐機関の小野」
「そう。次期社長となるはずだった小野です。しかし、社長はご乱心された。息子が可愛いのは分かるが今の時代にそれだけで次期社長の座を渡そうとするのはおかしいでしょう?」
「……あんた、それだけのために火咲ちゃんや斎藤を襲ったのか?リッツちゃんを殺したのか!?」
「あなたのご友人は事故です。すぐ救急車を手配しますよ。で、私の要求分かりますね?」
「……そんなに社長の椅子がほしけりゃ好きにしろよ。心配しなくても次期社長なんてものになるつもりはない。だが、こんなことをして許されると思っているのか!?」
「甲斐機関の権力と財力の前では。まあいいでしょう。話はすぐに済みます。契約書を書いてほしいだけです。次期社長の座を私に譲りますとね。そうすれば救急車を手配しましょう」
小野が口元をゆるめる。甲斐の足下で斎藤はついに吐血を始めた。黒服の銃口が火咲に向けられ引き金に指が掛かる。
「私は平和主義でね。なるべく犠牲は出したくないのですよ」
「……くそが」
甲斐はそれでも両手をあげて小野へと向かっていく。当然いくら甲斐でもこの状況を力でどうにかできるとは思っていない。大人しく言うことを従うしかない。ついに小野と手が触れ合うまでの距離に近付いた時だ。
突然、周囲にいた黒服達が一斉に倒れた。
「な、何だ!?」
「…………」
振り向いた小野。様子を見る甲斐。その姿を見て唾を飲む火咲。
それは十代後半くらいの青年だった。無表情に慣れきった無機質な青年。
「…………最強の白帯(マスター・オブ・ホワイト)」
「え?」
「三船が作り上げた最強の男性型人造人間……」
甲斐がわずかに視線をそらした瞬間、青年の拳が小野の顔面を貫いた。
「……!?」
小野の後頭部から出てきた青年の右手は全く傷を負っていない。
「…………」
青年が腕を引き抜くと、顔面を失った小野は血を吹き上げながら倒れてそのまま動かない。
「……間に合いました」
やがて赤羽がやってきた。
「赤羽、どういうことなんだこれは……」
「小野が甲斐機関に押収された三船の施設を勝手に使って起こしたものです。彼、白夜一馬もまた所有者が小野に変更されていました。ですが甲斐機関となった私にはより上位の権限が与えられていたため白夜一馬の制御を取り戻したわけです」
「…………今回の件は全部こいつの根回しだったのか……?」
甲斐は見下ろすがしかし小野はもう何も言えない。
「……」
火咲が立ち上がり、赤羽へと詰め寄る。ほとんど握力の機能しない右手で赤羽の襟を掴んだ。
「あんた、何を企んでいるのよ」
「……最上さん、学生寮に戻っていたんですね」
「とっくに気付いてたんじゃないの?さっきのそこの男に私を狙撃する理由はない。そこだけはあんたがやったんじゃないの?」
「ちょ、火咲ちゃん……」
甲斐を無視して火咲は続ける。
「あんたがあの日、甲斐和佐を突き飛ばして発電所の事故を起こしたんじゃないのかって話よ!」
「……弱々しいですね」
「何よ」
「名前とちゃん付けで呼ばれるのは羨ましいですがこんな手にはなりたくないものです」
「…………あんたやっぱりカラクリに気付いて……!?」
「あなたが何を言っているのか分かりません。私に和佐さんを害する理由なんてありませんから。……甲斐さん、今回の件申し訳ございません。社長にも報告しておきますので今日はこのままお休みください。斎藤先輩もすぐ救急車を手配します。また、黒に関しても直るかどうか分かりませんが回収して三船の技術で出来るだけのことはやりたいと思います」
「あ、ああ……」
それから、伏見機関がやってくる頃には甲斐機関のスタッフにより斎藤やリッツが運ばれていき、雅劉達は事後処理だけをやらされたのだった。

・高3の一学期が終わり、生徒達は夏休みに突入した。最後の一学期が終わり、最後の夏休みが始まる。甲斐達は宿題よりも最初に合宿に備えた準備を始める。
「……」
その間、甲斐は久しぶりに自分一人だけの部屋で夏日を過ごすことになった。赤羽も稽古ではこれまで通り毎日で顔を合わせているが寮の中では会う機会が減っていた。そして和佐に関しては全く姿を見かけなくなった。
火咲に関してはこれまで通り赤羽と同じ部屋で過ごしているようだがあまりいい関係には見えない。
「……はあ、どうしたものか」
「ん?このマンガの最新刊ならまだ3ヶ月くらいは先だと思うけど」
「そんな話はしてない。そして何でまたお前が来てるんだよ」
ベッドの上に寝転がってマンガを読む優樹の姿があった。
「だってまた夏休みなのにお前家に帰ってこなさそうだし」
「……お前なぁ」
「それに斎藤からなんかお前がとんでもないことになってるって聞いたしな。甲斐機関、俺が継ごうか?」
「……お前、赤羽に気があったのか?」
「何でそうなるんだ?」
「だって父さんは赤羽の結婚相手を次の社長にしたがってるんだぞ。正確に言えば順序は逆だけど」
「う~ん、嫌いじゃないけど好きなタイプでもないな。とは言え大学に行ってもしばらくはサッカーと弓道剣道ばかりやってそうだし」
「……まあ、面倒を引き受けてくれるのはありがたいが余計面倒なことになりそうだからな、お前の場合。……まあいいや、明日から合宿だからその間ここの部屋使ってて良いぞ」
「俺も合宿に行くという可能性は?」
「どんだけ暇人なんだよ。流石に空手に関係ない奴が参加するのは無理だろ……」
「……あれ?お前小学生時代にキーちゃん連れて行かなかったっけ?」
「ノーコメントだ」

合宿当日。まだ朝日が昇ったばかりの頃。
「……じゃあ行くか」
寮から甲斐、赤羽、最首、達真、火咲が荷物を持って歩き始める。優樹は本格的についてきそうだったため起こさずに置いてきた。
「……斎藤君はやっぱり来られなかったか」
「まあ、刺されてるしな。リッツちゃんも無理なんだろ?」
「……はい。一命はとりとめていますが両目の修復にまだ時間が掛かりそうです」
「…………」
赤羽の発言に火咲がわずかに反応を示す。それに気付いたのは達真だけだ。
「……どうした?少し前から変だお前」
「……別に何でもないわ」
「……と言うかお前も合宿に行くのか。遠足の時みたいに山道とかあるらしいが大丈夫なのか?」
「そう言うのは参加しないからいいわよ。川で少し遊ぶくらいでいいわ」
「川?」
「へえ、火咲ちゃんよく知ってるな。合宿二日目に山の麓にある小川でバーベキューやるんだ」
「……そうなんですか?」
「ああ。そこでは空手とかそう言うのは一切関係ない。ただ楽しむだけでいいんだ。……まあ、前夜があれだしな」
「?」
赤羽が疑問。それに対して火咲もまた難しい表情になる。
「……何で合宿の情報がないのよ」
「赤羽は合宿初めてなんだから仕方ないだろ。と言うかお前の方こそどうして初めてなのに合宿のことを知ってるんだ?」
「…………別に」
再び無言に戻る火咲。
「…………あなた、だから水着を用意してたんですか?」
しかし赤羽からの追撃。
「え、水着?」
甲斐が食らいつく。
「……別にそんな本格的な奴じゃないわ。濡れないようにするだけよ」
「一日使ってお買い物してたのにですか?」
「……赤羽美咲。あんた私に恨みでもあるの?」
「ただの疑問です」
「ま、まあまあ二人とも。女の子なんだから水着選びに時間掛かるのは仕方がないことだよ」
「……最首がそれをいうのか。小学生時代からほとんどサイズ変わってないのに」
「廉君何かいいました!?」
「……いってません」
萎縮する甲斐。対して赤羽は火咲のすぐ隣にまで歩幅を合わせ、
「……あまり事前準備してると怪しまれますよ?」
「……私としてはあんたの方が怪しくて仕方ないんだけど」
やがて5人は久遠との待ち合わせ場所に到着し、久遠と龍雲寺と合流した。
「雷龍寺は?」
「スタッフ側なので先に行ってるそうです」
「馬鹿弟子は?」
「逃げました」
龍雲寺の発言を受けて0.1秒。甲斐は速攻スマホで呼び出しを行った。冷や汗をかく龍雲寺と達真を尻目に久遠が赤羽と最首に抱きつく。
「今日はいっぱい楽しもうね!美咲ちゃん!はるちゃん!」
「そうですね、久遠」
「一応いっておくけど飽くまでも合宿だからね?」
そう言いながらもやっと笑顔になった最首だった。

朝8時。道場の駐車場にやってきた2台の貸し切り大型バスに80人が乗り込んでいく。
「意外といっぱい居ますね」
「まあ、いつもの稽古は年齢や性別で分かれてるから10人前後くらいしか見知った顔がいないだろうけど小中学生とかだけでも実際は200人以上はいる。夏休み最初の土日だから大抵は家族で旅行にでも出かけてるんだろ」
「……なるほど」
感心の赤羽。一方で中々バスに乗ろうとしない達真。
「……どうかしたの?」
龍雲寺が訪ねる。達真は中々返答しない。そこで火咲が口を開いた。
「そいつ、極度の乗り物酔い体質なのよ。隣に座るのなら覚悟しておいた方が良いわよ」
「そ、そうなんだ」
「……エチケット袋はたくさん用意してあるから問題ない」
「乗り込む前に気絶でもさせておいた方がいいんじゃない?」
火咲が少し構える。
「……相手になるぞ」
達真も構えるが、
「そう言うのは後にしろ」
そこへ雷龍寺がやってきた。
「げ、兄さん……」
「げ、らいくん」
「おい弟妹ども。げとは何だげとは」
二人にげんこつの雷龍寺は、甲斐と赤羽を見やる。
「二人とも来たんだな」
「ああ。山道とかはきついからそんなにつき合えないが赤羽のためでもあるしな」
「すみません……」
「……赤羽はそっち側でいいのか?」
「?どういうことですか?」
「甲斐機関は別口でどこかで集合していると聞いたが」
「……私、聞いてないです」
「……なら和佐か」
甲斐がため息をつく。
「和ちゃん来れるんだ。最近見てないから心配してたんだ」
久遠の笑顔が眩しくて再度ため息。
「……久遠ちゃんと同じ部屋だったら廉君ももう少し紳士的になるかもね」
「え、死神さんと同じ部屋で暮らすの?おもしろそう」
「死神、手出ししたら試合を組むぞ」
「試合自体は別にいいけど手出すつもりなんてないっての」
「妹に魅力がないとでも?」
「いや久遠は後輩だし弟子みたいなものだしそう言う対象じゃないっていうか」
「甲斐さん、彼女居ますからね」
それだけ言って赤羽はバスに乗り込んだ。
「……ほう、死神。色恋にうつつを抜かす暇があるとは余裕じゃないか」
「あんたの弟もうつつを抜かしてると聞いたが?」
甲斐はそれだけ言ってバスに乗り込んだ。
「……ほう?」
そして雷龍寺の目が龍雲寺へと向かった。
「……本当に男に対して手加減しなさすぎるわね」
窓から火咲が小さく笑みをこぼした。

バスに揺られること2時間。その間の記憶は達真にはないがどうやらなのはリフレクションが放送されていたらしい。とは言え娯楽として見るより何かしらの戦術的な情報教育として放送したていらしく割とみんな真面目に見ていた。
「……空中戦とかどうしろと?」
達真の感想だった。
そして到着した合宿会場。あらかじめ予約しておいたホテルだった。2階と3階が丸々貸しきりになっていて当然食事も出る。温泉も自由時間に入っていいことになってる。
そこまではいつも通りなのだが。
「来たか」
ロビー。そこには松葉杖をついた剛人がいた。
「兄さん……」
「あんたも来てたのか」
甲斐と赤羽と久遠、そして雷龍寺が剛人に歩み寄る。
「しばらくだな」
「馬場雷龍寺か。この怪我が治ったら一番に相手してやる。精々この合宿で鍛え直すんだな」
「以前に負けたのはお前の方だったと思うんだが?」
「……」
にらみ合う両者。流石に割って入れるものはいない。
「……ん、」
代わりに甲斐は奥の方で見覚えのある顔を見つけた。
「あれって遠山じゃないか?」
「え?…………あ、本当ですね」
伏見道場の遠山弟が他の門下生と一緒に歩いていた。
「……本当に伏見も三船も来てるんですね」
「……剛人がいるところが少し気になるが。今まで来てなかったろあんた」
やっと甲斐が剛人に声を振るう。
「……一応10年ほど前までは何回か来てたがな。改造されて以降は参加していない。する意味もなかったからな。けど今回は別だ。もう三船はないし、どこかの誰かさんの妹が余計な気遣いしてくれたんでな」
「……まさか、」
「はい、私です」
声。冷や汗かきながら甲斐が振り向くと2階に続く階段の上から和佐が降りてきた。
「和佐……!」
「そんな怖い顔なさらないで。ほら、」
和佐は赤羽と久遠の手をつないで甲斐達の前に移動する。
「妹たちが揃っているんですから」
「わ、そう言えばそうだね」
「…………」
和佐、久遠、赤羽の姿を見て甲斐、雷龍寺、剛人が閉口。
「火咲ちゃんとりゅーくんもいるんだしこれでゆーきくんまでいたらある意味完璧だったかもね」
「やめろ。この状況をさらなる地獄に変えるな」
それから男子は3階に女子は4階に案内された。それぞれ班編成されて班ごとに部屋が割り当てられている。しかしゆっくりもしていられない。案内された部屋に到着したら胴着に着替えて近くの体育館で100人以上の大規模な稽古が行われる。
「そこでやるのが100人組み手だ」
「100人組み手ですか?」
ホテルから体育館に行くまでの間、徒歩で移動しながら甲斐は赤羽と久遠に説明を始める。
「100人とスパーリングするってこと?メチャクチャ疲れそう」
「まあ確かに普通の稽古の倍どころじゃないくらい疲れるんだが、一回20秒程度だから実際には33分しかやらない。まあ、インターバルもあるから実際にはもう少しかかる。そしてこの100人組み手だと老若男女関わらずに誰とでも100回戦うことになるんだ」
「それは……厳しいかもしれませんね。場合によっては兄や雷龍寺さんとも戦うことになると言うことでしょうか?」
「げ、そんなの久遠ちゃんイヤだよ!絶対絞られるじゃん!」
「まあ流石にレベルが違ければ手加減くらいはしてくれるだろうしたった20秒しかないからな。怪我したりはしないだろう。それでも20秒間本来なら全く戦うことのない奴らと戦うことになる。大変勉強になるから誰とでも胸を借りるといい」
「お、押忍」
「久遠ちゃん汗くさいの嫌いなんだけどなぁ……」
やがて15分程度歩いた先の体育館に到着。
「じゃあ全員ヘッドギアとサポーターを付けろ」
加藤がとりまとめをやっている。ちなみに大倉会長も合宿自体には参加するが業務もあるため全く付きっきりというわけではない。伏見提督はもっと忙しいため全く参加できないし、自衛隊の施設に幽閉中の三船所長に関しても同じだ。
「付けたな?じゃあ全員8列くらいになって正面に会った奴と20秒だけスパーリングをする。終わったら5秒で場所を移動。歯車みたいに前後して対戦相手を変えていく。いいな?」
加藤の説明。しかし、
「……あの、あの人大倉道場の師範ですよね?」
「ああ、そうだな」
「…………私達と同じように並んでいるような気がするんですけど」
「………………ああ、そうだな。あの人はああいう人だ」
「……………………そうですか」
「え!?加藤先生とも戦うの!?い、いや、でも100人の中に入らなければ……」
「確かに参加者は100人超えてるから当たらない可能性はあるが雷龍寺や他にも黒帯段位持ちの人が何人か入ってるからほぼほぼ確実に場違いなくらい格上と当たると思うぞ」
「えぇ~!!そんなぁ~!!」
「グズグズするな。始まるぞ!」
甲斐が構えると同時、馬鹿でかいストップウォッチが大きな音を立てた。

「……くっ!」
既に10戦。赤羽は息を切らしていた。確かに1試合たったの20秒だが大会ですら遙か格上とぶつかることはない世界なのにここではそれがある。普通女子中学生の選手なら男子と当たることなどまずない。精々男子小学生低学年くらいなものだ。それが既に大学生くらいの男子と2度当たっている。当然いずれも格上でかなり手加減された上での20秒間であっても結構体力を消耗する。もし手加減されていない本物の試合ならば20秒もあれば間違いなく倒されているだろう。それに100戦やれば30分程度とは言うがまず普通30分以上もスパーリングなどしない。成人男性を含む一般クラスとされる稽古は2時間行われるがその内連続してスパーリングをやるのは2、30分程度だ。実際には大会が近ければ練習試合に時間を割くのだが全員が全員一度に戦うわけではなく、場合によっては15分以上インターバルが空くこともある。普段からそれくらい稽古を積んでいる甲斐や最首達ならともかくほぼほぼ素人に等しい赤羽達からすればまさに合宿のふさわしいハードメニューだった。
「……これが合宿……しかもその最初の30分……!」
息を整えるまもなく矢継ぎ早に次々と相手が決まり、その度に全く違う対戦相手とのスパーリングが始まる。
「……赤羽ちゃん結構きつそうだね」
「ああ。だからこそ練習になる」
甲斐と最首はさして息も切らせていない。甲斐は久々と言うこともあり、例年と比べれば余裕はない方だがそれでも赤羽と久遠よりかは遙かにマシだ。よくみれば達真もまあまあついて来れている。龍雲寺はややきつそうだ。里桜は余裕じゃなかったら殺す。
「弟子の成長がうれしいか?甲斐」
「ええ、もちろんです」
そして甲斐は改めて正面に立った次の相手を見る。
「20秒間付き合ってもらおうか」
「押忍!加藤先生!」
大倉道場師範と拳の死神の組み合わせはわずかだがざわつきを作った。皆その20秒間は自分の戦いをしながらもどこか尻目でその戦いを意識していた。
「…………ふう、」
たった20秒をこれほど長いと感じることはそうそうない。20秒を知らせるアラーム音を甲斐は意識を半分失いながら聞き届けた。
「押忍!またな!」
「お、押忍!」
わずかな時間の握手をして二人はそれぞれ次の対戦相手を目指す。
「…………う、」
「さあ、やろうか」
「うそでしょ……」
「本気でぶつかってこい」
そして赤羽の前に加藤が、久遠の前に雷龍寺が立ちはだかった。
「……大変そうだな」
「あんたもよそ見してていいわけ?」
「……お前と畳の上で戦うことになるとはな」
踊るように殺し合う達真と火咲。
「お前、空手も出来たのか……」
「私を誰だと思っているのかしら」
「……ふん、知るか。俺にとっては最上火咲。それ以上でもそれ以下でもない」
「それでいいわ」
20秒のダンスを終えて二人は何も言わないまま次の相手へと向かう。
「矢尻っすか」
「燐か」
達真と里桜、雷龍寺と加藤、甲斐と火咲、最首と久遠が激突を果たす。
「ん、」
「またあったね」
「遠山弟さん」
「直太朗なんだけど……」
そして赤羽と遠山も畳の上で再会する。
「……面白い催しですね」
壇上。和佐と剛人が組み手の様子を眺めていた。
「やってる側はまあまあきついがな。何せ全国区の奴も遊び半分この100人組み手半分を期待して合宿に参加するくらいだ。お前も参加してみたらどうだ?」
「……そうですね。矢尻さんや赤羽さんとお遊びするのはいいのですがうちの兄に当たったら本気で殺されそうですからね。最上火咲さんも少し危ういかも」
「……お前、何を企んでいる?うちの妹たちとどんな関係なんだ?」
「長女の方は特に関係ありませんよ?次女の方はまあ、そこそこ付き合いあるので」
「……甲斐機関か。美咲はついこの前まで三船の所属だったはずだ。いつそっちに移ったんだ?」
「2年前ですよ。まあ、あまり深くは言わないでおきますけれど」
「……」
剛人は笑顔のままの和佐を睨むだけだった。

30分が過ぎて長い長い100人組み手が終わった。加藤や雷龍寺などの一部のトップ選手以外は全員立つのがやっとなほど疲れ切っていた。
「……お、思ったよりかなりきついですね……」
赤羽も膝を折り、ペットボトルにかみつくようにして水分を補給する。
「まあな。ただ最初に言っておくとここまできついのは他にそうそうないから安心しろ。……次のに選ばれなければな」
「……次?」
赤羽が疑問していると、
「次は指名試合を開始する。1試合2分の試合形式で行われるものでこの場にいる者なら誰を指名してもいい。くじ引きで最初の一名を決めてから対戦相手を指名。試合を行い、試合後に指名された者が次の対戦相手を指名する」
加藤から説明が入った。
「つまり、どこかで一度でも指名されたら2連続で試合をしないといけないと言うわけですか」
「そうだ。と言っても通常の試合と違って延長戦の類はない。2分だけ戦えばいい。ただしさっきまでの100人組み手と違ってレベルに差がない限りは互いに全力で戦うことになる」
「……い、今から全力での試合ですか」
「赤羽は遠山弟だったり空手部だったりと別門下とやることが多かったが普通は大会の時かこの合宿の時でもない限りは戦う機会はない。だから意外と人気のコーナーでもあるんだ」
「……戦闘狂しかいないの?」
戦慄する赤羽と久遠。それを尻目に和佐が超スピードでくじを配る。くじには番号だけ書いてある。
「ランダム抽選システムを使って最初の一名を決めます。じゃがじゃがじゃがじゃじゃがじゃがじゃが……じゃじゃ~ん!!66番の方!」
モニターに映し出された66の数字。
「……俺だ」
66番を持っていたのは達真だった。
「矢尻さん、誰を指名しますか?」
「え、いや、急に言われてもな」
周囲を見渡す達真。明らか期待の色が目に浮かんでいる。需要は高いらしい。しかし名前を知っている者はそんなに多くない。そして知っている名前はいずれも格上か格下のみ。
「……じゃああんたで」
達真が指さしたのは甲斐だった。
「は?俺?」
周囲から驚きと期待の声が挙がる。
「いいのか?まだレベルが違うと思うが」
「あなたとは一度ちゃんとした場所で戦ってみたかった。……以前戦ったのはあの春の夜。今の俺がどこまで胸を張れるか確かめてみたいんです」
「……いいぜ、矢尻後輩。この胸貸してやる」
「では、両者中央のコートへ!」
和佐のアナウンスを受けて二人が中央コートへと移動する。
「全力で来い」
「押忍!!」
「では、開始!」
和佐がアラームを開始すると同時、達真が距離を詰める。当然甲斐には余裕で目で追えるスピードだ。それでも赤羽や久遠に比べれば断然速い。距離を詰め切った達真がその勢いのままに跳び蹴りを繰り出した。
「……ふっ、」
甲斐は片手で受け流しつつ相手の腰を軽く小突く。加減こそしているがそれでも冗談ではない打撃だ。着地したばかりの達真のバランスを大きく崩し、あわや転倒寸前まで追い込む。しかし、ギリギリで持ち直す。
「くっ!」
すぐさまギリギリ足の届く範囲内で可能な限り速度を上げた蹴りを放つ。相手の対応速度を上回ろうとする手段だ。しかし当然甲斐はこれをすぐ後ろに下がるだけで回避。
「……あの人らしくない防御と回避ばかりですね」
赤羽が目を丸くする。
「そりゃ廉君でも手加減は出来るし格上としての戦い方もするよ」
最首が答える。
「正直男子相手だから瞬殺して終わりだと思ってた」
火咲が袖で汗を拭いながら言う。
「確かにそっちの方が死神さんらしいかも」
久遠が苦笑。
4人以外のギャラリーも拳の死神の二つ名を持つ男にしては珍しいスタイルに驚きと期待の声を作る。
(流石だな……こんな上等なテクニックも持っているとは)
達真は自分が掌で踊っている自覚はあった。火咲が言っているように素早く処理されて終わりだと思っていたがこんなあしらい方をされるとは。
「けど、負けない!!」
「いいぜ」
一歩踏み出した達真は拳を繰り出す。拳の死神を相手に愚策だが足では届かないと思い知らされた後だ。精々胸を借り続けることにしよう。
「せっ!!」
繰り出したワンツー。甲斐はまるで最初からそこに来ることが分かっていたかのように完璧に受け流す。達真も制空圏を練っている。そして逆に甲斐は制空圏を使っていないように見える。だが実際は違うのだろう。レベルが違う相手の制空圏は見えないのだ。
囲碁や将棋には空中戦という言葉がある。正面から相手にせず一見真面目に取り合っていないかのように振る舞いながらしかし、気付いた時には既にあらゆる手段が上から押しつぶされて意味のないものと化しているのだ。
「なら!」
達真が繰り出したのは単純な力勝負だ。何の策もない真っ正面から立ち向かう愚直な攻撃の連続。真っ向から相手にされないのなら肉薄し続ければいい。取り合ってくれないなら振り向かせればいい。
「へえ、」
甲斐は小さく笑う。達真の密着からの単純な攻撃は決して悪いものではない。少なくともそれまでのような守ってすらいない圧倒は出来なくなる。しかしそうなれば困るのはどちらか。向こうだ。
「!?」
達真は見た。甲斐の拳から見えた制空圏はまるでドリルのように螺旋を築いていた。
「せっ!!」
そして放たれた拳は達真の築き上げた制空圏を攻めも守りもひっくるめてぐちゃぐちゃにかき乱しながら破壊してそのボディに6割くらいのパワーでたたき込まれる。
「ぐっ!!」
2歩下がる。流石にあの時のように倒れはしなかった。それなり以上に手加減されている。その上で今のすべてが指導であると分からされた。空中戦は囮なんかじゃない。二者択一で二種類の地獄が選べるだけの嫌らしい罠だった。空中戦のままならいずれ体力を減らされ、最初の小突きのように隙を見いだされては割と無視できない攻撃を被り、単純な攻撃で無理矢理打ち破ろうとすれば今みたいなひたすら重いカウンターが待っている。
おそらく本物の試合ならこんな風に格下相手に気付かされないほどうまくやるだろう。
(……やはりこの人は本物だ。本物の実力者だ……。けど俺だって蒼穹さんの傍にいたんだ。もう二度と誰も失わない強さを……!!)
達真は跳躍した。いつもよりもやや高めの跳躍。
「……」
甲斐は守りの制空圏を達真には見えないほど幾重にも形成していく。
「……っ!!」
その制空圏が完成したと同時に達真の右の跳び蹴りが甲斐の額の前で受け止められた。
「があああああぁぁっ!!!」
が、落ちきる前に達真の左足が回し蹴りを繰り出す。
「一度のジャンプで2発の跳び蹴りを!?」
驚く赤羽。驚いたのは赤羽だけじゃない。観客の多くが達真の技を見て声を上げる。
「……どちらかと言えばカウンターのための守りを優先するあいつらしくない攻撃の一手ね」
火咲も感心するが、
「けど、足りない」
火咲の前。達真の両足はどちらも甲斐の右腕によって止められていた。
「!?」
「よかったぜ」
そして左腕からの打撃が空中で無防備をさらす達真の鳩尾……の数センチ下にぶち込まれた。
「ぐっ!」
体育館の床に背中から打ちひしがれる達真。
「ここまでだな」
甲斐が構えをとくと同時にアラームが鳴る。
「……す、すげぇ。拳の死神が瞬殺していないのに一回も直撃をもらわずに完封勝利した……」
ざわめくギャラリー。どこからか拍手すら鳴り響く。
「……確かにすごいな」
雷龍寺がつぶやく。しかしその視線は達真の方に向いていた。実際に戦ったことはないが甲斐レベルならあの程度のことは出来て当然。そのことに何の感慨もない。むしろ甲斐を相手にとことん粘った達真の方こそ感嘆するにふさわしい。それに昔どこかで見たような気がする。
「……後で龍雲寺に聞いてみるか」
スパーリングが終わり、握手を交わす甲斐と達真。
「流石です。全然届きませんでした」
「いやいや、想像以上だったと思うぞ。くじで最初に選ばれたのが不運だったくらいに」
「へ?」
「次は誰を選ぶかだな。……雷龍寺、気配をぶつけてきたところで流石にあんたとはやれんぞ。よし、赤羽やってみるか」
「私ですか……!?……わ、分かりました!」
達真の代わりに赤羽が甲斐の前に立つ。
「いつもの稽古と同じ風にやればいい。ギャラリーは少し多いが試合だと思えばいい。さあ、来い」
「押忍!」

それから赤羽や達真を中心に何度か練習試合が行われ、たっぷり3時間以上も白熱が続いた。途中少しの休みを挟んだことで気付けば夕暮れになっていた。みんなくたびれた状態でドッジボールをやってから体育館の掃除を行い、旅館へ着く頃には17時を過ぎていた。
女子達は汗だくなのを嫌ってすぐに温泉に向かった。男子達は着替えただけでそれぞれ夕食まで団らんを楽しむことにした。
「じゃあのぞきに行くか」
何人かの男子達が女湯に向かっていくのが見えた。
「里桜、片づけられないなら同席してこい」
「いや、意味不明なクエストを突然出さないでくださいっす。と言うかさっきの練習試合でもうくたくたっす」
「もう一回やってもいいんだぞ?」
「……む、無理っす……」
仕方なく里桜が男子達について行った。何だかんだで数分後には連れ戻してきていた。しかもなんか里桜に対して同情的だった。
「……なんだありゃ」
「……道場内でもしっかりと恐怖が作用しているということですよ」
達真が陽翼相手にメールをしながらつぶやいた。
一方。女湯。
「あの人がのぞきに来ないか心配で仕方がありません」
シャワーを浴びながら赤羽が壁やら出入り口やらを気にしている。
「いやいや、いくら廉君でもここには来れないでしょ」
隣で最首が笑う。その最首は久遠の頭を洗ってやっている。
「どういうこと?」
「流石に廉君ほど強い女子はいないけどそれでも今ここには女子が30人以上いるわけだし。大人の人もいる。何より普段の道場……赤羽ちゃんと和佐ちゃんの家ならともかくここ旅館の温泉だからね。小学生とかならともかく高校3年生が突入したら間違いなく警察沙汰だよ。……小学生の頃はさも当然のように入ろうとしてたけど」
「…………そのころあの人彼女いましたよね?」
「まあね。あの頃の廉君もえっちな感覚でやろうとしたわけじゃなくてたぶん単純に男女の分け隔てなく友達と一緒にお風呂に入るっていう本人にとって当たり前の気分だったんだと思う。当時はまだ学生寮じゃなかったしね。今となっては廉君と面識がある同年代の女子って私達くらいしかいないけど当時はもっといたんだよ」
「そうなんですか?」
「どれくらいいたの?」
「同い年なら20人くらいいたんだ。ほとんどが中学にあがった頃にやめちゃったんだ」
「まあ、ふつうそうだよね」
頭をふるって水分をとばす久遠。
「そう言う意味では蒼穹先輩の存在はやっぱり大きかったんじゃないかな?4年間ずっと一緒に暮らしていたわけだし」
「…………かもしれませんね」
別に禁句というわけではなく、紅衣もいない。しかしそれでもしばらく聞かなかった故人の名前に気持ちが動かないわけではない。
「穂南蒼穹だってそう変わらないわよ」
そこへ火咲がきた。当然全裸でその肢体はこの場の女子の中では間違いなくもっとも扇情的だろう。同性である3人でも思わず火咲の体には注目してしまう。
「どういうことですか?」
「詳しく聞いた訳じゃないけど穂南蒼穹だってどこにも居場所がなかったんだからあの変態師匠の存在は決して邪魔じゃなかったってことよ」
「……何で火咲ちゃんって死神さんのこと変態師匠って呼ぶの?弟子入りしてたっけ?」
無垢な久遠の質問。
「…………別に。それ以外の呼び方なんて知らないだけよ」
「……変に呼び方変えたら大事件ですからね」
「何よ赤羽美咲。まるで直接見たことあるかのような言いぐさね」
「……別にそんなこと言っていませんよ」
「あ~はいはい。姉妹同士喧嘩しちゃ駄目だよ~」
最首が割って入った。すると、
「きょうだいってそう言うんじゃないと思いますけど」
そこへ和佐がやってきた。その姿を見て赤羽と火咲はわずかに身構える。
「どういうこと?」
「きょうだいって一番近くにいる他人なんですから喧嘩だってしますよ。まあ、あの人が絡むとふつうの喧嘩じゃないことも多々あるかもしれませんが」
「まるでふつうの兄妹をやっているかのような言いぐさね」
火咲が睨む。
「最上火咲さん。あなたと同じように私もあなたのことはよく知りません。赤羽さんと本当はどんな関係なのかも興味ありません。だからそう喧嘩腰にされても正直困るのですが……」
「…………」
沈黙する火咲。赤羽も何も言わない。和佐だけが本当に少しだけ迷惑そうにしていた。
「はいはい。せっかくの温泉なんだから険悪しないの!」
最首が手をたたく。その音で少しだけ目立ってしまったが。
「3人がどんな関係なのか、そう言うのは今はいいじゃない。温泉なんだからさ。どうしても嫌だって言うなら出て行けばいいんだよ」
最首の口調もどこか強めだ。睨んでいるわけではないが目の色も違うように見える。
「……すみません」
「……ふん、」
赤羽と和佐が謝ると火咲は脱衣所の方へと向かっていった。
「……あれ?火咲ちゃんって自分で体拭けるの?ちょっと見てくるね」
久遠がその後を追いかける。
「……赤羽ちゃんも和佐ちゃんもどうしたの?」
残った3人。
「赤羽ちゃんも最上さんと一緒だとどこかおかしいよ?」
「……そんなつもりではないのですが」
「和佐ちゃんも不穏な動きが多いって廉君だけじゃない、私だってそう感じることがあるよ?確かに私は一人っ子だからきょうだいの事情はよくわからないけどもうちょっと何かあるんじゃない?」
「……善処します」
赤羽も和佐もそれ以上何も言わなかった。

・夕食が終わり、皆それぞれ就寝時間までの間を過ごすことになった。男子は基本的にこの時間にそれぞれ適当に風呂をすませる。
「……なんかちょっとつまらないな」
久遠は部屋を抜け出してロビーあたりを散歩していた。さっきまでは女将の娘らしき小学校低学年くらいの女の子が自慢げに男女問わず門下生相手にみゅーくるどりーみーの録画ビデオを見せていたがそれももうない。ちなみに一番熱中して見ていたのは雷龍寺と剛人だったのは久遠と赤羽の脳内からは既に消えている情報だ。
ともあれ結局合宿でもそんなに年の近い女子は多くない。何より自分にはあの迷惑すぎる兄の存在故にあまり話しかけられたりはしない。結局ここでもそこまで環境的に変化がない。
「……はあ、久遠ちゃん孤独少女だなぁ」
「……何を言ってるんだおまえは」
「あ、死神さん」
1階縁側。夜空をバックに甲斐が座っていた。
「どうしたの?」
「お前こそそろそろ消灯時間だぞ?」
「羽伸ばしてるの。流石に女子部屋にはらいくんも来れないから自由になったのはいいんだけど同じ部屋の子って小学生低学年ばかりだからつまらないんだよね」
「なるほど。で、女子部屋にいるていで散歩か」
「みたいなものかな。死神さんは?」
「里桜と同じ部屋だからな。流石に休ませてやろうかと」
「死神さん、里桜先輩に対して厳しすぎだと思うんだよね」
「男同士ならまあこんなもんだろ」
「……確かにらいくんとそーくん、りゅーくんも似たようなものだったかも」
「まあ、そんなことはどうでもいい。あまり遅くならないようにしろよ」
「……うん。でももう少しいていい?」
「いいけど、さっき俺と雷龍寺が似たようなものって言ってたな。なら俺のことも苦手なんじゃないのか?」
「だって死神さんは女の子に優しいじゃん。和ちゃんは別として。あ、もしかして久遠ちゃんに気があるとか?らいくん達からのバリアになってくれるなら考えてもいいよ?」
「そんな気はない。まあ、仲間としては好きだと思うがな」
「仲間か。久遠ちゃんは死神さんに別に弟子入りしてないから師弟関係じゃないし、友達って感じでもないから先輩後輩になるのかな?」
「さあな。久遠のことは妹みたいなものだと思ってるぞ」
「ええ~?和ちゃんに怒られるよ。…………ねえ、どうして和ちゃんと仲悪いの?あの事故ってだけじゃないよね?」
「……またその話か」
「さっきお風呂で少し話題になったんだ。きょうだいって仲悪いんじゃないかって。久遠ちゃんのこと妹みたいって思ってるならどうして本当の妹の和ちゃんにはあんなに厳しいの?」
「……間違えたんだよ。兄妹としての関係を」
「どういうこと?」
「久遠がもう少し大人になってから話してやるよ、その内に」
「……ぶぅ~!」
「……久遠、空手は楽しいか?」
「うん?う~ん、そうだね。ちょっと前よりかは楽しいかもしれない。でも本当に久遠ちゃんがやりたいことなのかは分からないかも。久遠ちゃん天才だから美咲ちゃん以外に負けないし。ちょっと女の子に空手は退屈なんだよね」
「なるほど。貴重な意見だな」
「怒らないの?死神さん空手大好きなのに」
「そりゃ怒らないよ。趣味は人それぞれだからな。それに女子空手の事情は少しくらいは知っている。きっと3年以内には久遠が満足する相手は見つからないだろう。精々赤羽がどこまで食らいついていけるかって感じか」
「……ふ~ん」
悪い気はしなかった。
「じゃあもうそろそろ寝とけ。それともこの後来るのか?」
「この後?パジャマパーティでもやるの?」
「似たようなものだ」
それから2時間後。深夜12時を待ったところで甲斐の部屋に何人かの男女が集まった。
「……何やるの?えっちなこと?」
久遠が甲斐に訪ねる。
「それを厳禁としたパジャマパーティみたいなものだな」
手荷物検査でゴムなどないかを確認。当然男女で二人だけにしない。その条件で深夜に年頃の男女が同じ部屋に集まったのだ。
「で、実際どういう場なの?」
「日中は基本的に監視の目が行き届いていて男女同じ部屋に入ることが出来ないからな。いろいろな道場が集まっているこの場を利用して合コンみたいなのをやるのが目的だな」
「何で死神さん参加してるの?」
「監視役みたいなものだ」
「……ってことはこれ先生とか知ってるんだ?」
「ああ。昔は怪談とかをやってたんだが流行らなかったんでな。で、今度はただ夜中の部屋に集まるだけってやったら一度だけ大変なことになって……」
「大変なこと?」
「……まあ、その、なんだ。子供が出来るようなことをする奴が何人かな」
「セックスしちゃったの!?」
「こら久遠。年頃の女の子がそんなことを言うんじゃない。雷龍寺に殺されるぞ」
「いや、久遠ちゃんももう中学生なんだしそう言うことちゃんと習ってるよ」
「ま、まあ、注意するのはいいことなんだ。うん」
久遠との会話を聞いて若干冷や汗をかき始める周囲。実際そう言うことに興味津々な男女中高生がこうして集まっているのだから無理もない。
「……空手の合宿の夜に中高生で合コンってらいくんが聞いたら乗り込んで来そうなんだけど」
「実際そう言うやばい奴らには聞かされていないからな。……こういうことを言うのは何だが空手に人生かけてたらあまりそう言う経験できないからな。まあまあ貴重な場なんだよ、うん」
「……やっぱり久遠ちゃん空手辞めようかな?」
遠い目をする久遠。しかし意外と周囲は悪くないように見える。普段は厳格な空手道場にいるからかそう言う縛りが一切ないこの時間は本当に貴重なんだろう。
「ここでカップルって出来たりするの?」
「さあな。ここは飽くまでも出会いしか提供しないからそれ以降のことはそいつら次第だ」
「……そうなんだ」
正直少しどきどきしていた。まだ中学1年生だから少し早いとは思うがここで恋人が出来るかもしれないなどさっきまでは夢にも思っていなかった。
「……でも死神さん、結構厳しいのにこういうの許していいの?らいくんも死神さんも怒りそうだけど」
「確かに畳の上では何より礼儀を尽くすべきだ。けど、俺達は人間だからな。空手だけに生きていけなんて誰も言えないさ。まあ、雷龍寺とか空手星人だから空手だけに生きていると思うが」
「……死神さんは彼女がいたから空手星人だけど少しなんか違うよね」
「別にそれが原因ってわけじゃない。ただ例の火事の後に俺はほぼすべてを失った。一時期空手もやらなくなった。その時にいろいろあったんだ」
「……死神さんはどうやって空手に戻って来れたの?死神さんのような人ってたぶん最初からずっと空手大好きだったよね?らいくんもそーくんも暇さえあればずっと空手の稽古ばかりしてるもん。きっと死神さんだって……そんな死神さんがしばらくの間空手から離れるってすごいことだと思うし」
「……確かにあの頃は地獄だった。ずっと一緒だった仲間達も失い、空手からも離れた。その間も斎藤や最首、穂南は居てくれてたんだけど当時の俺にとってはすべて失われたものだと思ってたんだ」
忌々しい記憶。どうしてもその始まりはあの炎の夜からしか想起できない。
「でもお友達も軽傷で済んだんだよね?誰から聞いたの?」
「小学校時代の担任だった近藤先生って人から聞いたんだ。空手に行かない代わりに俺は気晴らしにいろんなところを歩いて回ったんだ。変な奴らに絡まれることもあったけど当然ぶっ飛ばした」
「相手に南無阿弥陀仏だね」
「殺してない。……で、そうしていろんなところを回ってたら偶然再会したんだ。そこであいつらの無事を知った」
「それで空手に?」
「そんな優しい奴じゃない。むしろだからこそ離れようって思ったくらいだ」
「え、無事だったのに?」
「なんか昔見たアニメでそう言うのがあってだな。とらわれていた最愛の人を助けて無事を確かめたら何も告げずに離れていく。まあ当時は中学生だったからな。そう言うのに憧れもする年頃なんだよな」
「……よくわからないけど」
「まあそれで変に納得してたんだよ。まだ中学2年生だったのに自分がすべてを諦めることでパズルのピースが嵌まって完成する……これしかハッピーエンドはないんだってな」
「何でそんな理不尽なことを……」
「そう言う年頃だったんだよ。今も心のどこかでそれしかないならそうするまでだと思ってる。誰もそんなこと望んでないってのにな」
「本当だよ。でもそんな死神さんを誰が畳の上に戻したの?はるちゃん?和ちゃん?ゆーきくん?」
「いや、名前は分からないけど一人の女の子だったよ。一度だけ夜に帰らずに知らないところを夜通し歩いたことがあった。その時に会ったんだ。真夜中だったし顔も覚えてないけどな。好き勝手にやるのが正しいと思ってるならまたマイナスをかければいいって。×ゼロをするよりかはマシだってな」
「え?ひょっとして勝手に辞めたから今度は勝手に戻ったの!?」
「流石に何もしない日々に罪悪感あったしな。学校には行っていたけど誰とも何も話さない生活してて、まるで他の誰もが全く別の人間に見えたんだ。……全く別の奴になったのは他でもない自分だってのに」
「……本当よく分からない話。今の久遠ちゃんと1つしか年が離れてなかったのに」
「……まあ、年は同じでもいや同じだからこそ思春期の男女じゃ全然考えること、感じることも違うだろうな。まあ、こんなくだらない話はおしまいにしよう」
そう言って甲斐はポケットから何かを取り出した。それは油性マジックだった。
「……え、マジック?そんなの何に使うの?」
「合宿の夜の恒例行事その2だ」

深夜1時半。小学校低学年男子の部屋。そこに甲斐と久遠が潜り込み、寝ている少年達の顔にひたすら落書きを加えていく。
「……何でこんな事してるのか分からないけど楽しいからいいよね」
「やっぱり久遠は止めないよな。赤羽や最首だったらアウトだったけど」
「毎年やってるの?」
「ああ。元は別の人が始めたんだけどな。たまにはこういうのもいいだろう」
ひたすらまでに落書きをしたらノーフラッシュで写真を撮る。寝ている男子全員に落書きしたら次の部屋へと向かう。
「……このホテル、セキュリティどうしてるのかな?」
「さあな。許可取ってるわけはないが向こう10年くらいは続いてて何も言われないからレクリエーションの一巻として見逃されてるんじゃないのか?」
こそこそ話をしながら次の部屋へ。これを可及的速やかに繰り返していく。
「……で、死神さん。この隣の部屋ってらいくんとかいる部屋だけどどうするの?」
「無視するに決まってるだろ。まだ寝てるライオンから肉奪う方が命に優しい」
「で、もっと大きな問題だけど」
「何だ?」
「女子部屋は?まさか……」
「決まってるだろ」
上の階にあがる階段に足をかけて、
「やる」
「だよね!」
実際ここからは緊張のレベルが違う。今まではいたずらレベルで済む話だが今からするのは一歩間違えれば犯罪だ。
「死神さん」
「どうした?」
「真夏のサンタクロースだね」
「……いい着眼点だ」
「それに一応久遠ちゃんもいるからね」
「ナイス!」
「……っていうか去年までもやってたんだよね?」
「……まあな」
「えっちなことした?」
「…………ノーコメント」
「…………死神さん確か学生寮で唯一女の子と一緒の部屋になることを認められたんだよね?」
「笑えるだろ?」
「うん、どきどきしちゃう」
最初に入るのは女子小学生の部屋だ。男子に比べれば人数は少ないが不確かな希望を抱きたくなるくらいには人数が揃っている。そんな少女達の顔にひたすらマジックペンで黒を入れていく。
「……思ったんだけど」
「何だ?」
「朝起きて顔に落書きされてない人が犯人だよねこれ」
「ああ。同じ部屋の奴にもやったし即バレだろうな」
「……男子達だけならそれでもいいかもしれないけど女子まで対象にしてよくやれるよね」
「流石に大人達は相手にしないから罪をかぶせてる」
「……最低な事してる」
「逆よりマシ」
写メ撮ってから次の部屋へ。次は中高生の部屋だ。本来なら久遠もこの部屋で寝ているはずだが今は隣にいる。
「……ん、赤羽がいない」
当然赤羽もこの部屋で寝ているはずだがその姿が見えない。周囲を見れば久遠が小さく鼻歌しながら最首の顔に落書きをしている。
「……火咲ちゃんもいないな」
正直あの二人の組み合わせには不安しかない。まだ一度も戦いにはなってないがいざ戦ったら甲斐兄妹レベルにはなりそうだ。
「美咲ちゃんと火咲ちゃんがいないね。トイレかな?」
「……深夜に二人でか?」
「変な想像しちゃう?」
「絶対久遠とは違う意味でな」
その辺の女子の胸を揉みながら二人の動向を予想する。もし本当にトイレだったらすぐに戻ってきてしまう。しかし、廊下に人の気配はない。
「あの二人だから他に誰も邪魔が入らないところで何かしてそうなんだよな」
「和ちゃんのところかもしれないよ?美咲ちゃんのお兄ちゃんのところかもしれないし」
「胡散臭いな、それ」
とは言え和佐や剛人がどこで休んでいるかは分からない。こんな真夜中にフロントに聞くわけにも行かない。
「とりあえずお風呂行ってみる?」
「……風呂か」
こんな真夜中に風呂に入れば確かに邪魔は早々入らないだろう。しかし、貸し切りになっている女子部屋ならともかく風呂は一般の客もいるかもしれない。もし覗きに行って誰かいたら即一発アウトだ。
「まあ、今もアウトかセーフかっていったらアウトだと思うけどね」
「期待してるよ、久遠」
ひととおりいたずらを終えて二人が部屋を出る。ちなみに成人男子の部屋と成人女性の部屋、スタッフ達の部屋は流石にスルー。貸し切りエリア内を見て回ったが甲斐機関のメンツは見あたらなかった。
「で、お風呂行くの?」
「頼む、久遠」
「まあ、一回真夜中に温泉を独り占めとかやってみたかったし。いいかな」
手荷物を持った久遠が部屋から出てきて甲斐と共に女湯へと向かう。
「え、一緒に入るの?」
「いや、ここで待ってる」
男湯と女湯。それぞれの出入り口前に自販機とベンチがある。そのベンチに甲斐が座った。
「赤羽達がいないか見てきてくれ」
「入っちゃ駄目?」
「後でな。報告してくれたらそのまま入っていいぞ。ついでにそのまま帰って寝た方がいい」
時刻は深夜2時半過ぎ。いつもなら久遠はおろか甲斐だって余裕で眠っている時間だ。
「……そうなんだ。じゃあ行ってくるね」
「ああ」
ベンチに座ってスマホを見る。その間に久遠は女湯へと消えていく。とりあえず1分は待とう。そう思って5分。
「……これは風呂入ってるなあいつ」
ため息。特に物音や声の類もない。あの二人と会って話をしているというわけでもないようだ。
「……俺も風呂入るか」
荷物を取りに部屋に戻ることにした。
結局赤羽と火咲がいない理由は不明だった。トイレという事もないだろうが風呂でもない。いくら夜中でも風呂とかが自由に利用できる旅館だからと行って外には出られないようになっている。だから外にいると行うことはないだろう。ならやはり二人揃って甲斐機関……つまり和佐のところにいるというのが自然。赤羽はともかく火咲はいったいどんな理由で和佐のところにいるのか。
「……秘密を探りに入れて見つかって始末されている……なんてアニメの見過ぎか」
一応和佐に連絡を入れてみるが反応はなかった。
「何か見落としている事がある?」
部屋に入る。まだ誰も起きていないいびきだらけの暗い部屋。既に下手な教科書よりかも凄まじく書き潰されている里桜の寝顔が見えた。あまりにもかわいそうなのでベランダに移動しておいた。
「さて、」
荷物を持ち、またさっきの場所へと戻る。途中、スタッフの一人がトイレに入っていくのが見えた。特に変わった様子はなかった。
「……ふう、」
湯船につかる。学生寮でも男湯は同じくらいの大きさなのだが足を怪我して以来は部屋のシャワーで済ませることが多かったため意外と久しぶりに風呂でくつろげる。元々風呂は一人で入ることが多い。夕方のように他の連中と一緒に入るのもたまにはいいがやはり一人が一番だ。
「一人は落ち着くな」
「でも邪魔するよ?」
「は!?」
声に振り向けば全裸の久遠がやってきた。
「く、久遠!?どうしてここに……!?」
「お風呂入るの」
「い、いやお前さっき入ったんじゃなかったのか!?ってかここ男湯……」
「気にしない気にしない」
本当に気にしてない素振りで久遠は体を洗ってから甲斐の隣に来る。
「どう?死神さん。久遠ちゃんの裸に釘付け?」
「いや、そこまででもないが……。お前の場合何かしたら雷龍寺が黙ってないのが怖すぎるからな」
今この場を抑えられただけでも命はなさそうだ。
「で、どうしたんだよ」
「うん。最初に言っておくとさっき女湯に美咲ちゃん達いたんだよ」
「ん、そうなのか?」
意外だった。人の気配は分からないが話し声などは聞こえなかった。
「それが美咲ちゃん達死神さんがやっていること知ってたみたいで何かされるの面倒だからお風呂に避難してたんだって」
「……マジか」
知られていたのは想定外だった。しかし誰から聞いたのか。最首だとしたらその最首が寝ているとは思えない。
「まあついさっき部屋に戻ったから久遠ちゃん達があがる頃には寝てるんじゃないかな?」
「そうか」
「もしかしてまたやっちゃう?」
「いや、今日はもうあがったら俺も寝る。さっき夕方くらいに少し寝たとは言えまあまあクタクタだからな」
「だね。100人組み手とか意味分からなかったし」
「……久遠、空手続けるか?」
「急にどうしたの?とりあえず美咲ちゃんがいる間は続けようと思ってるよ。交流試合でのリベンジを果たしたいからね。でもまだ中学にあがったばかりだけどもし高校に上がってもリベンジできなかったらもしかしたら辞めるかもしれない」
「……そうか」
深夜。疲れも十分たまっている。温泉で暖まっている事もあり段々頭が働かなくなってきた。
「そろそろあがるか」
「え、まだ5分も経ってないよ!?」
「久遠は眠くないのか?明日も明日でやることあるぞ?」
「う~、そうかもしれないけど……」
「ほら。先に上がれよ。服着たら呼びに来てくれたらいいからさ」
「いやそこまで紳士ぶらなくていいよ?変な死神さん」
「……お前見られてもいいの?」
視線を振る。確かに全く隠す素振りはない。中1の7月ということもあってその裸体はそんなに小学生のそれと変わらない。下の毛だってまだ生えていない。正直情欲の類はそこまで沸いてこない。
「そうだね」
久遠は何かを考えるように天井を見上げた。
「久遠ちゃんは別にいいよ?死神さんのこと好きだもん」
「いやいや、そういうことじゃなくてだな」
「確かにそーくんを壊されたって事はあるけどでも私にとって死神さんは4人目のお兄ちゃんみたいなものだもん。空手しか頭にないらいくんやそーくん、逆に少し頼りないりゅーくんとも違う。空手も教えてくれるし逆に空手を押しつけたりもしない。家が家だからこんなふつうの兄妹みたいなの初めてなんだよね。だから死神さんにはいっぱい甘えようと思うの。死神さんも和ちゃんや杏奈ちゃんとは違った3人目の妹みたいに久遠ちゃんに甘えていいんだよ?」
「……久遠……」
思わず頭を撫でた。もしあの夜、道を誤ることがなければふつうの兄妹でいられたのかもしれない。そんな気がした。
「……背中洗ってやるよ」
「うん!」

それから4時間ほど。
「起きろ!!」
各部屋を回りながら声を上げていくスタッフ。
「……ん、」
それに気付いて甲斐が目を覚ます。正直全然眠い。実際に寝たのは3時間程度だ。
「……すー……すー……」
風呂から上がってすぐに眠ってしまった久遠を仕方なく同じ部屋に運んで他のメンツを全員押入の中に放り込んだ状態で久遠と一緒に眠っていたのだ。運良くスタッフには見つからずに済んだ。
「……あー……」
眠気が残る頭で甲斐は状況を整理しながらとりあえずスマホを出す。新規着信は特にない。代わりに赤羽に久遠を預かってるから引き取るようメールを出す。
「久遠。起きろ、朝だぞ」
「う~~~」
無理もない。事前に備えていた甲斐と違って久遠はほとんど寝ていないのだから。
とりあえずトイレを済ませてから久遠を背負って廊下に出る。赤羽からの返信はまだない。が、
「お楽しみだったようですね」
廊下を出てすぐ。和佐がいた。
「何の話だ。言っておくが疚しいことは何もしていないぞ」
「でしょうね。私と違ってよその子にしたら大問題ですものね」
「……言っておくが余計なことは言うなよ」
「ご安心を。私としても流布してメリットなんてありませんもの。……久遠さん引き取りましょうか?」
「結構だ。赤羽を呼んである」
「……そうですか」
和佐が踵を返そうとした時だ。
「……死神さん」
後ろから声がした。
「久遠……」
「久遠ちゃんは自分で帰るよ。ごめんね、ありがとう。で、ありがとうついでなんだけど和ちゃんとお話ししてあげて」
「……」
「同じ妹だから分かるもん。死神さんも和ちゃんも本当はそんなにお互いのこと嫌いじゃないって」
久遠が甲斐の背中から降りて半分寝てるような足取りで歩き始めた。
「またあとで」
そのまま甲斐兄妹を背に久遠はその場を去っていく。
「………………そう言うことだったんだ」
小さな言葉だけを残して。

朝マラソンから朝食。そして帰り支度が始まる。短いようで長い一泊二日の合宿は既に半分どころかほとんど終わっていたようなものだった。
10時に旅館をチェックアウトしてバスに乗り、11時半頃に到着したのが渓谷だった。小さな川があり、放流された魚が一気に川の中を暴れ回る。
「合宿最後はここでバーベキューだ。魚は掴み取りで、西瓜は拳でかち割った奴から持ってこい!」
加藤が言い、小学生達が着替えないまま川に飛び込んでいく。
「……ふっ、」
そんな中大胆な水着姿を見せたのが火咲だった。
「……それがこの前言ってた奴か」
達真がやや呆れて感想。
「何かしら?あなたもやっぱり性欲で私を見ていたの?」
「いや、何でこんなところで本気を出すのかと」
「別にいいじゃない。学校のプール以外で水着を着てみたかったのよ。文句ある?」
「いや、別に……」
本当にただ呆れたような表情のまま達真はゆっくり川へと向かっていく。
その様子を見てから火咲は頬を膨らませながら後ろから達真の背中を蹴りつけたのだった。
「本当に川で遊ぶんですね」
西瓜割を見学しながら赤羽が言う。
「一日目は100人組み手をしたかと思えば二日目はふつうにレジャーですね」
「まあ小学生多いからな」
あくびをしながら甲斐が答える。ちなみに久遠は赤羽の隣で寝ている。
「……一応聞いておきますが久遠には何もしていませんよね?」
「するわけないだろ。一緒に遊んでただけだ」
「……一応信じておきますけど」
「それより昨日……一応時間的には今日か。どうして風呂に避難してたんだ?誰から聞いたんだ?」
「企業秘密です」
「……そりゃ貸し切りにしてるんだし分かるか」
つまり、甲斐機関経由で甲斐と久遠が夜な夜な出入りしているのをホテルのスタッフから聞いたという事だろう。
「まさか本当に女子部屋までやるとは思いませんでした」
「昔は女子側からの参加者も何人か居たんだけどな」
「……あなた一人になった時点でやめればよかったのに」
「……それが一番なんだろうけど、あんな下らないことでも昔から変わらず続けてきたことなんだ。願わくばずっと変わらないものには残っていてほしいよ」
「……」
赤羽は答えず久遠の前髪を撫でてやるだけだった。

・8月。長いようで短かったがついに西武大会が近づいてきていた。やれるだけのことはやったが未だ赤羽も久遠も矢尻もどこまで勝ち進められるか分からない。

「……さて、」

私服から胴着に着替えてリビングを出る。気がかりになっているのは他にもいくつかある。

「入るぞ」

「あ、うん」

最首からの返事。ふすまを開けて和室に入る。そこでは既に胴着に着替え終わっていた赤羽、久遠、最首が待ちかまえていた。

「いよいよ今週末の土曜日と日曜日は西武だ。ここにはいないが矢尻もまた部活を通して大会に向けて腕を磨いているはずだ。赤羽や久遠も負けないように日々精進するんだ」

「……押忍」

「うん、そうだね……」

「……」

合宿の日以来どうもこの二人の様子がおかしい。何があったのか本人達に聞いても特に答えはなく、最首に聞いても心当たりはないらしい。

大会前で緊張しているというわけではないだろうがこのまま大会に臨んでいい結果が出せるとは思えない。とは言えどうしたらいいものか。

「とりあえず稽古を始めるぞ。赤羽は最首と。久遠は俺と仮組み手だ」

「はい」

「う、うん……」

ここ最近は組み手と基本稽古の時間を増やすメニューにしてある。筋トレや型の稽古ももちろん大事だが大会前に必要なのは実戦とそれに耐えうる体力づくり。そしてそれでもなお基礎を忘れないようにすること。

これは例だが、全国区の選手の中にもごく稀だが試合中に疲労して体力と精神力が欠けた結果段々と動きが単調になり、同じ攻撃しかしなくなっていく奴もいる。たまたまそいつが肉体的に非常に有利だったからそれでも押し通せる場合は多いが二度三度と通じる事はないだろう。

何が言いたいかと言えばどんな実力者でも基礎を蔑ろにして臨機応変に戦う精神力を養う必要があると言うことだ。人間はピンチになるとついつい自分が最も信頼する手段に頼りがちになってしまう生き物だ。それを可能な限り起こさぬよう基本稽古を重点的に鍛える。試合前に12を争うくらいに大事なことだ。

「……とは言ってもなぁ……」

仮組み手の段階で久遠は制空圏に頼り切っている。基本稽古も実際にやれば普通に上達しているし、制空圏頼りなのも生半可な奴には破られないから有効なんだが。

「久遠。お前の制空圏は確かにすごい。けどな、」

「あ、」

久遠が形成した制空圏を一瞬ですり抜けてその頭に軽くげんこつ。

「う、」

「格上には通用しない。そして西武大会において久遠より格下なんていないと思った方がいい。これがどう言うことか分かるな?」

「……でも久遠ちゃんにはいくつか切り札があるし」

「膝天秤でも虎徹絶刀征でも大技過ぎて通用しない相手には通用しない。どこぞの明治の新撰組じゃあるまいし必殺技を1つ持てばいいなんて世界じゃないんだぞ?」

「……それはそうかもしれないけど……」

「…………最近おかしいぞ?久遠も赤羽も。あとついでに和佐も」

視線を上にやる。今日あの愚妹は部活をやっていない。夏休みだしそう言う日があってもおかしくはないのだがしかしどうにも最近何か様子がおかしいようにも見える。みんな、あの合宿の日から何か変だ。

「なあ、久遠。あの合宿の日に何かあったのか?」

「な、何でもないよ……?」

「何でもないってリアクションかよ。あんまりわがまましてると雷龍寺呼ぶぞ?」

「それは普通に困るけど……でも死神さんには言えないことだよ」

「……なら最首に相談したらどうなんだ?だめなのか?」

「……はるちゃんは関係ないもん」

「……」

最首と目配せ。関係ないと言われたこともショックだが久遠達の力になれないことの方がショックって表情をしている。たぶん自分もそんなに変わらない表情だろう。

「……はぁ、」

あまり集中できないまま稽古が終わり、俺はまたリビングで私服に着替え直す。女子達はまだ着替えているかシャワーでも浴びているのだろう。だから俺は階段を上る。

「……くっ、」

一段一段あがること昔ならなんて事なかったが、あれから半年以上経ってもまだ少しきつい。赤羽という全身義体の前例がすぐ近くにあり、そこに可能性を抱いているとは言ったもののやはりたったこれだけのことにも痛みを感じる己の体が不甲斐ない。本当にまた畳の上に戻れるのか不安になる。

「……ふう、」

上がりきった時には少し息が切れて汗が滲んでいた。情けない。

だが、そこから先に迷いはない。気配がする部屋に向かい、ドアを開く。

「……え」

そこには下着姿の和佐がいた。

「入るぞ」

「……あの、普通に年頃の妹が着替えているんですけど」

「興味ない」

「……と言うかどうやってここまで来たんですか?」

「階段上ってきた」

「……その足でですか?」

「そうだ」

下着姿の妹を素通りして適当に椅子に座る。

「……何を当たり前のように」

「聞きたいことは一つだけだ。あの合宿の日に何があった?赤羽も久遠も様子がおかしい」

「…………あなたに言う必要はありません」

「何かあってそれを知っていると受け取っていいんだな?」

「……ご想像にお任せします」

いいながら下着姿のまま身構える和佐。自分が何を言っているかの自覚と覚悟はあるらしい。

「あなたもいくら空手のコーチをしているからと言って年頃の女の子の心に入り込みすぎるのはよくないのでは?」

「……」

確かに全寮制で学校も同じ。放課後も空手の稽古をしている。だがそれ以上ではない他人を相手に少し踏み込みすぎているんじゃないかと自分でも思う時はある。

「あなたがあの二人と離れることになった最大の理由は自分だけが絶対に正しいと思って私を殴ったことですよ。……あの火事のことは私にとっても苦い思い出です。その罪をあなた一人に背負わせるつもりはありません。けど、あなたが自分を省みない限りあなたに未来はありません」

「……」

和佐は構えをおろすと近くにあった服に着替えた。

「……尤もどんな横暴であってもあなたにはあなたのままであってほしい人もいるみたいですけどね」

「……どう言うことだ?」

「さあ?私も最近知りましたからね」

和佐はそれだけ言って部屋を出ていった。

「……」

ここにいても仕方がない。俺も部屋を出て階段を下りることにした。ここで大人しく階段を下りてしまったことを俺は後々ひどく後悔することになるのをまだ知らない。

「はあ、」

稽古も終わり、夕方。斎藤のお見舞いに行く。

「……どうした、暗い顔だな」

ベッドの上の斎藤は思ったより元気でそろそろ退院できそうだ。その姿に少し安心しながら俺はとりあえず今日起きたことを話す。

「……なるほどな。合宿で落書きが響いたか」

「いやいつものメンツだと最首相手にしかしてないぞ」

「冗談だ。……いやまあ普段は空手の稽古をしてくれる高校3年生の先輩が合宿の夜に女子部屋に入って顔に落書きしまくってるとか普通に幻滅の対象だと思うからそこは割とマジで考えた方がいいと思うがな」

「……まあそこは置いといて。最近女子達の間でもあまり仲がいいように見えないんだよな。赤羽とうちの奴も最近2ショットを全然見なくなったし、火咲ちゃんは変わらず赤羽とバチバチだし。久遠もあれだけなついていた赤羽と微妙に距離を置いているように見えるし……」

「見えるだけで錯覚なんじゃないのか?暑い時期だし単にベタベタしたくないとかかもな」

「……だといいんだが」

実際8月の猛暑の中での室内稽古はいつ熱中症で倒れてもおかしくない。だからあの和室でも扇風機を用意したり常に窓と言うか障子を開けておくことでわりかし涼しいようにはしている。それでも暑いことは暑いが。

「西武も近いし、お前が一番緊張しているのかもしれないぜ」

「……一応覚えておくよ」

それだけ言って斎藤の病室を後にした。恐らく次に会う時は退院する時だろう。

通常、高校3年生の夏休みなら推薦で既に進路が決まっている場合を除けばかなり忙しい。集中的な受験勉強が出来る最後の機会として40日弱の時間をすべて勉強で詰める事だって珍しくはないだろう。

「……ん、」

学園都市……と言っていいか微妙だが学生寮と学校の間には学生向けの様々な施設がある。その中の1つにまあまあ大きめな図書館がある。

そこに逢坂の姿が見えた。

「逢坂か」

本能が涼しさを求めていたのか冷房が効いて気持ちのいい図書館へと入る。

「あ、甲斐くん」

「勉強か?……真面目だな」

甲斐は一瞬言ってはならないことを言いそうになり慌てて息を飲む。

逢坂のような下半身丸ごと人工義体化してるようなレアケースは本来なら本人にとってもかなりハンデになっている。しかし敢えてそう言うハンデの重い生徒を招致することで周囲へのアピールに繋がる。

この学校にはそういう生徒がたくさんいるためスポンサーとなっている企業もいくつか存在する。それ自体は甲斐達のように身寄りのない子供にとっては感謝の念に耐えない。しかし哀れみまでは受けたくない。

実際に多くの企業からは通常よりも遙かに軽い条件で案件が来ている。とりわけ逢坂には既に選びたい放題と言っていいくらい企業からの招待状が届いているのだが。

「まあ僕の場合、見ての通りよりどりみどりだからね。だからこそ自分の実力で行きたいところに行かなきゃ」

「ちなみにどこに行きたいんだ?」

「宇宙」

「宇宙?NASAか?」

「いずれはね。まずは渡米してアメリカの大学に行こうと思ってるんだ」

「……アメリカか」

確かにアメリカにまでこの学校の事は伝わっていないだろうから単純に実力勝負となるだろう。それも今逢坂がやっているようにかなり勉強した上じゃないとそもそも勝負にすら挑めない。純粋にその根性は甲斐も認めてやりたいところだ。……つい身近にアメリカに強く関わりを持ってしまっている組織がいなければ。

「甲斐くんは反対?」

「いや、大賛成だ。…………で、何してるんだ?そこの」

逢坂が座る席の4つくらい向こうの席。そこにすごい見慣れた顔があった。即ち甲斐杏奈及びライル=ヴァルニッセ。

「いえいえお兄様のせっかくの休日なんですもの。どんな生活をされているのか興味があるだけですわ」

「言っておくぞ甲斐機関。逢坂に手を出すなよ。盾にするなよ。余計なことは一切するなよ」

「あら、その方がお兄様の意中の方なんですか?」

「誰がじゃ!!」

とはいえ確かに逢坂は性別不明だからおかしくはないのかもしれないが。

むしろ髭なんて生えてるところ見たことないし声も高いから割と女性である確率が高かったりするのが甲斐の分析結果だったりする。

「まあともかく最近甲斐機関は動きが変なのでわたくしとしてもあまり動けません」

「甲斐機関が?」

「はい。和佐ちゃんも赤羽さんも様子がおかしいですし」

「……具体的に言ってくれたら昼飯くらい一緒にしてもいいぞ?」

その発言に両目ともハートにした女の子が奇声を上げたのをきっかけに甲斐達は図書館を追い出された。

ラーメン屋。甲斐、杏奈、ライルはそこに来た。

「次女はともかくあんたはラーメン平気か?」

問いかけはライルに。名前も外見も日本人じゃないから一応確認。

「問題ない。社長もラーメン好きだからな。アメリカでも何軒かラーメン屋を作っていた」

「……けっ、んな血縁があったのかよ」

文句を言いながらも3人で特盛り塩とんこつラーメンを注文する。

「お嬢様、特盛りでよろしかったのですか?」

「大丈夫だよ、ライル。あたしだってお年頃なんだから」

胸を張る杏奈。確かにどう見てもその細い体に特盛りが入るとは思えない。これは甲斐かライルが腹をくくるしかなさそうだ。

「で、長女と赤羽はいったい何をしているんだ?」

「わたくしの事もそうですけど名前で呼んでください。兄妹じゃないですか」

「長女はともかく次女のことはまだその感覚には慣れないな」

「貴様、お嬢様からのご依頼だぞ?」

「関係ないな。で、あいつらはどうおかしい?」

「そうですね。今までは友達ってほどではないんですけど同じ目的のために行動を共にするビジネスパートナーみたいな感じだったんですけど最近はただの同僚みたいな感じになってます。喧嘩したというかお互い話し合ったところ微妙に目的が違ったとかそんな感じですかね」

「……目的か」

実際それが一番よくわからない。赤羽は一応同じ義体同士で空手をやっていることが理由で稽古を行う師弟関係のようなものだ。それも完璧に納得したわけではない。しかし和佐に関してはもっとよく分からない。

「大ボスの目的は分かってるんだがな」

「大ボスってお父様のことですか?」

「まあな。次の誕生日にあわせて赤羽と結婚させて会社を次がせること。そのためになんか色々とこそこそしてるんだろう。目的自体ははっきりしててわかりやすい。……従うつもりは毛頭ないけどな」

「……お兄様は恋愛に興味ないんですか?」

「ないな。好き合った相手はずっと眠ったままだ。恋愛感情とか異性への興味とかはもうあの日からずっと置き去りのままだ」

「……和佐ちゃんから聞いたことがあります。梓山美夏さんですよね?」

「ちがう」

「あら、じゃあ違う人ですか。でも話は何となく聞いていますよ。元々はアメリカの病院にいたのを甲斐機関で保護して日本に連れてきた女性だって」

「……まあ間違ってはいないな」

「恋愛はともかくとして機関はどうするつもりですか?実際こんな大企業の会長になれるなんて夢のようだと思いますけど」

「……もしあの大ボスが普通の父親やって家族離散なんてしていない普通の家族だったらもしかしたら喜んで次いだのかもしれない。けど、どうしたってそれは無理だ。あの学生寮にいる奴らは基本的に過去にどうしようもないわだかまりがある。けどその中でも俺は自分自身の過去が一番面倒くさいと勝手に思ってる。実際両親もほかの兄妹もいる。どころか増えていている。だから余計に面倒くさくて嫌なんだ」

「……寂しかったときの方がいいんですか?」

「別に孤独に浸りたかったわけじゃない。孤高と格好付けたかったでもない。それでも、他に誰もいない。ただ一人で好きなようにやる。そんな小学生時代が一番輝いていた。一番充実していたんだ。成長するにつれてあのころの自由が奪われていく。それが我慢ならないんだ」

拳を握る。

「へいおまち」

そこで3人分のラーメンがくる。一瞬杏奈の表情がバグったがライルが小皿を注文したため事なきを得た。杏奈の分のライスは甲斐が食べることにした。

「……さすがに食い過ぎたかな」

店から出てげっぷしながら腹をさする甲斐。

「すみません……」

「次女は気にしなくていい……いややっぱ気にしろ」

「だから次女はやめてくださいって。わたくしは杏奈。甲斐杏奈ですぅ!」

「はいはい」

学生寮への帰路に足を向ける。

「帰るんですか?」

「……ああ。話をしてて分かったけど周りに興味があるんじゃないんだ。……周りが面倒くさくなるのが面倒くさくて嫌なだけなんだ。ならただもう自分の役割を演じるだけでいいや」

そういって踵を返す。

「……甲斐廉。1つだけ言っておくが……」

ライルが口を開いた。

「お前が賞賛したあの少年……少女か?が口にした夢は、決して一人になりたいがためのものじゃないぞ?」

「……」

振り向き、ライルの方を睨む。しかしそれだけで今度こそ甲斐は学生寮へと歩いていった。

「……お兄様……、ねえライル。あなたにはお兄様の気持ちが分かる?」

「……同情はしませんが理解はできます。俺もあなたも元は孤児。なら分かるでしょう?」

「…………そうよね。一人になりたいよね。でも、なれないんだもの……」

二人は甲斐の背中を見送った。

「はあ、」

自室。ため息。ライルに言われた言葉と自分で言った言葉が反芻される。

「……最悪だ」

完全に自分に酔っていたことを甲斐は後悔する。ここまで自己嫌悪することは久しぶりだ。

いくら周りの雰囲気が陰鬱だからと自分までそれに便乗してしまうのはあまりに勝手が過ぎる。

おそらく赤羽や久遠、和佐も似たような何かがあったのかもしれない。自分の中の強すぎるこだわりを出してしまった事による自己嫌悪。それが尾を引いているのだ。

「ん、」

そこでやたらと低い位置からノックの音が聞こえた。

「いる?」

「その声は火咲ちゃんか?」

ドアを開ければ火咲がいた。純白のワンピースは綺麗だがその両手を指先まで全て覆い隠す袖からして手が使えない者用だろう。

「どうしたんだ?」

「話がしたいのよ」

といって堂々と部屋の中に入っていく。真っ先に和佐がいないことを確認してからそのベッドの上に座る。

「で?」

ドアを閉めて甲斐が火咲の正面に座った。

「変態師匠。あなたはずっとこのままがいい?」

「どう言うことだ?」

「変わりたくないかどうかって聞きたいのよ」

「……もしかしてまた盗聴器を?」

「つけてないわよ。何か思い当たる節でもあったの?」

「いや、別に……」

単純に間がよくないだけのようだ。と言うかいつかの盗聴器のを否定してない。

「まあ、さっきも次女関連でちょっとな」

「ああ、あれね。最初誰だか分からなかったわ」

「?会ったことあるのか?」

「……少しだけね」

「……まあいいや、」

冷蔵庫を漁る。一応蒼穹がいた頃から共用なのだが使っているのは甲斐だけだ。だからか飲みかけのものとかもある。一瞬それをくれてやろうかと思ったがやめておいた。

「これでいいか?」

出したのは紅茶のペットボトル。既に蓋は開けてある。

「……妹さんの?」

「違うけどどうして?」

「いや、あなたこんなものまで飲むの?イメージと違うというか」

「……紅茶用意してるだけでそれかよ」

しかしペットボトルをどう手渡そうかと悩む。少し前まではリッツが腕代わりになっていたのだが。

「リッツちゃんは?」

「まだよ。まあ、夏が終わる頃には戻るんじゃないかしら。それと、別に気を使わなくていいから。そんなに長居するつもりもないし」

うまくかわされたか?

「前から思ってたが火咲ちゃんは俺のこと好きなのか?」

「はぁ?」

「いや、だってまだ会って半年くらいしか経ってないのに結構べったりだし」

「……別にそんなんじゃないわよ。もうそういうのはいいわ。私は今の私をやるだけだし」

「……またそう言う……。大体どういう話なんだよ」

仕方ないので自分で紅茶を飲みながら続ける。

「進路の話か?」

「まあそれもあるわね。あなた、ずっと赤羽美咲の師匠やっていくつもり?」

「……そうだな。少なくとも高校生の間はそれでいいと思ってる。それ以降どうなるかは全然想像もついてない」

「空手はどうするの?その足で出来るの?」

「自分でもリハビリはしているつもりだ。まあまた全国の舞台に立つのは無理だろうが生涯現役も悪くない」

「……あなた、どうして空手をやっているの?他に趣味とかないの?セクハラ以外で」

「誰もセクハラなんて趣味にした覚えはない。……こっちにゃ昔なじみがいた。ずっと目を覚まさないけど」

「キーちゃんの事ね」

「……ずっとその子の後を追いかけてた。やることも一緒。そんな中初めてあの子と違うことをしたんだ。それが空手。学校のクラスメイトが一緒だったからって理由で始めたんだ。あの子のいない世界は新鮮でそして自由だった。時間も忘れてその自由を謳歌して殴り合ってたんだ。それが楽しかった」

「……それで今ではライフワークになったってことね」

「まあな。赤羽を弟子にとったっていったらあれだけど全身義体の赤羽には感謝しているんだ。赤羽がそれまで出来なかったことを出来るようになる度に自分にもまだ可能性があるんだと思えるんだからな」

「……そう。前向きなのね」

「そう言う訳じゃないが……」

「何よ」

「……いや、何だかな。こうしてるとまるで穂南と話してるみたいで少し変な感じがする」

「…………まあ、間違ってはいないのかもしれないけど」

「へ?」

「何でもないわ。けどそれならこれからもずっとあなたは空手だけをやっていくって事でいいわね?」

「……空手だけってのは厳密に言えば違うと思うがな。やりたいことをやるだけだ」

「……その結果望んでもない結果になったとしても?」

「……確かにそれで後悔はいっぱいある。けど、どんな失敗をしても諦めない限り未来はある」

「……失われた過去を取り戻すことも?」

「過去は過去だ。未来に繋げなければどうしようもない。未来に繋がれば何とかなると信じたい。どんな失敗をしてもだ」

「……そう。まあ、あなたの話は分かったわ」

「じゃあ今度はこっちの番だな」

「何よ」

「……君はあの病院で和佐に隠れてキーちゃんをどうしようとしていたんだ?」

「……前に言ったでしょ?単に知り合いよ。あなたのことも聞いていた。そしてあなたの妹は信用できない。だから隠していたのよ。三船の情報網によりあなたの妹より先に行動できていてよかったわ」

「……」

「信じられないの?」

「いや、そう言う訳じゃないんだがどうも足りないような感じがしてな」

「足りない?」

「君の言っていることはたぶん嘘じゃない。けどまだ何か理由がありそうに見える。……まあいいや、火咲ちゃんが不思議なのは今に始まった訳じゃないしな」

「……何よそれ」

「ところで赤羽美咲。君の妹最近様子変なんだが何かあったのか?」

「……別に妹じゃないわよ」

「……その気持ちは分からなくもないが」

「あんたのところとは違うわ。……けどあの赤羽美咲が様子がおかしいの理由は知ってる」

「教えてくれ」

「嫌よ。と言うかたぶん他の誰かならともかくあなただけは絶対に話せない」

「何じゃそりゃ」

「話は終わりよ。それともまだ何か聞きたいこととかある?」

「……そうだな。一応聞いておくけど火咲ちゃんは高校卒業したらどうするんだ?」

「何よ。まだ入学したばかりなのに」

「まあ確かにそうだが」

「……知らないわよそんなの。三船も事実上解体。ここにだって後3年はいられない。ならまたふらりとどこかを彷徨うんじゃないかしら?それとも私を養ってくれるのかしら?変態師匠」

「……まあ、本当に困ってて気が向いたらな」

午後。道場。甲斐、最首、久遠がやってくる。

「お待ちしていました」

既に胴着姿の赤羽が玄関に立っていた。靴は二人分あるため和佐も上にいるのだろう。関係が複雑になっているのに逆に同じ家で生活しているのは奇妙だが夏休みの間に実家に帰ること自体何ら不思議ではない。

最首と久遠が和室で着替えている間甲斐はリビングで着替える。赤羽はと言うとなるだけ甲斐の方を見ないようにしつつ食器などを洗っていた。

「……妹と何かあったらしいのにここで暮らしているのか?」

「……何であれ私は甲斐機関の一員です。甲斐機関がなければ私は今こうしていませんから。今は少し和佐さんとは意見が違っていますがあの人にも感謝はしています。あの人と会わなければやっぱり今ここに私はいませんので」

「……そうか」

「……妹さんのことやっぱり許せませんか?」

今日何度目かの質問。質問内容も答えも違うはずなのに考えてしまうことは同じ。意図的なものではなく偶然なのだろうが、それとも今の自分の悩みは全てそこに直結すると言うことか。

「……個人的にぎくしゃくしているだけだな。恨み辛みはたぶんもうほとんどない。ただ1つ言いたいことがあるとすれば」

「すれば?」

「……家族になんてなりたくなかった……かもな」

「……それってどう言うことですか?」

「変な意味じゃない。嫌普通でもないのかもしれないが俺はずっと一人のままがよかったんだ。そっちの方が気楽で、ずっと誰かと一緒にいるって言うのがたぶん気にくわないんだと思う。たまに会うのがいいんだ。……最近の生活をしててそう思うようになった」

「……そうなんですか」

声だけ聞いてて分かる。赤羽はかなり暗い気持ちになっている。そりゃそうだろう。こんな話を聞いても反応が困って当たり前だ。それに半年と少しだけだが赤羽や久遠とはずっとこの道場で一緒だった。今の発言はそれを否定するようなものだ。

「……けど、まんざらでもない」

「え、」

「結局無い物ねだりなんだよ。それが一番面倒くさい。今を全く見ていなかったんだ。今楽しければ今はそれでいい」

「……それが現実逃避でもですか?」

「無理に考えるよりかはたぶんマシだ。そう思うことにする」

「……そうですか」

何だかさっきよりかも落ち込んだ声になった気がする。どうしていいのか分からない。

「大会前に何をネガティブ言ってるんですかあなたは」

そこで今度は和佐がやってきた。

「和佐」

「和佐さん……」

二人同時に和佐の方を向く。巫女風ミニスカファッションみたいな格好してることもあってそう言う意味でも目がいく。

「……競輪か?」

「はい」

「え、その格好で?」

「こいつ、なぜか競輪=巫女服みたいなイメージあるからな」

「いいじゃないですか。それで結構勝てるんですから」

「……私の中で和佐さんのイメージがどんどん崩れていく……」

さっきまでとは違う形で落ち込む赤羽。

「で、あなたは何をネガティブ言ってるんですか?赤羽さんが言うように現実逃避ですよそれは」

「じゃあどうしろってんだ。手の届く範囲で最大限にやる。それ以上に出来ることがあるのか?」

「それを試合前に言うなって話です。と言うか一応赤羽さんは受験生でもあるんですからね?」

「……赤羽、うち以外の高校に行くのか?」

「いえ、今のところその予定は」

「はぁ……」

和佐が大きなため息をつく。

「あれ、和ちゃんすごいかわいい服着てる」

と、今度は和室から着替え終わった久遠と最首が出てきた。

「ちょっとお出かけをしようかと」

「そうなんだ。デート……はないだろうからどこに行くの?」

「……どうして否定されたのかは知りませんが競輪ですよ。久遠さんも行きますか?」

「和佐さん。中学生をギャンブルに連れていかないでください。と言うかあなたはいつから競輪やってたんですか?」

「小学生くらいからだぞ」

帯を締めながら甲斐が答えた。

「……おほん。それでは行ってきますね」

そうして和佐は玄関の方へと消えていった。

「……まあ、うちの愚妹はいいとして」

甲斐が咳払いしながら赤羽達を見る。

「みんな、今週にはもう西武大会が待っている。散々言ってきたが西武は交流試合とは比べものにならないほどレベルが高い。それぞれ何やら悩みとかがあるのかもしれない。思春期だし人間だからない方がおかしい。けど、今は目の前の試合に集中するんだ。全力を出し尽くして後悔のないようにしなければ今までの稽古に挑んできた自分を裏切ることになる。そうしないためにも今日も集中して稽古に臨む。いいな?」

「……押忍!!」

帰ってきた声に迷いなどはなかった。

・8月最終週土曜日。二日間に渡って行われる西武大会の日がついにやってきた。遊び半分の者も本気で空手に打ち込んでいる者もここで全てが試される。西武大会の先に進めるか滞るかここで道を閉ざしてしまうか、その全てが試される場所。

参加者はもちろん今まで指導をしてきた者達にとっても緊張せざるを得ない重要な場所だ。手塩にかけた弟子がしかし本当に自分と同じ道を進めるのかここで腐ってしまうのか。

空手に関わる全ての者が緊張と期待を込めて迎えたこの日、心安らかでいられるのは何も知らない一般観客だけだろう。

「とまあ、今更脅して見せても何の意味もない」

スタッフの車。甲斐、最首、赤羽、久遠が大会会場へと向かう。

「赤羽も久遠も矢尻も自分の力を出し尽くしてこい。ただそれだけの話だ」

「……あの、その矢尻さんは?」

「ああ。うちの馬鹿弟子と一緒に向かってるらしいぞ」

「りゅーくんも一緒だって言ってたよ」

「……そうか。3人には悪いことをした」

「…………何したんですか?」

「俺でも体調悪い時には苦戦する超レベル特訓用木人くんを配置しておいた。里桜は病み上がりだし少し同情して可哀想だなぁと思ったから木人くんの数を5倍にしておいた」

「それ、下手すると参加できないよね?」

最首が割と本気でドン引きしてる。

「……それってそんなにやばいの?」

久遠からの質問に最首はやや遅れてから首肯した。

「……久遠ちゃん女の子で本当によかったよね」

「……そこはまあ、肯定せざるを得ませんね」

冷や汗をかく赤羽と久遠。しかし赤羽は続けた。

「あの、以前から思っていたのですがどうして里桜さんなどの男性に対してはそんなに厳しいんですか?」

「まあ、体力の問題もある。女子としてはトップクラスの実力者である最首でもあの木人くんはまあまあ厳しいと思うが最首に勝てないレベルの矢尻達はたぶんクリアできるだろう。……ボロボロになってると思うが。散々いじめ抜いて鍛え上げた方がいいって頃合いが成長期の男子の体にはあるんだ。男子ならそれにギリギリ耐えられる。そうしてより強くなれる。だが女子に対して同じレベルの特訓を課したら間違いなく体が壊れる。もしかしたらその場は耐えられ強くなれるかもしれない。だが、将来性は間違いなく崩れる。赤羽や久遠がもしも今そんなことをしたら間違いなく成人する前に体を壊して下手すると日常生活に支障が出るレベルのダメージを帯びるかもしれない」

「……そんなに男女で違うものなんですか?」

「違うな。一言に筋肉と言っても男女では全く違うと思っていい。ギネスに載ったりするような例外を除いて考えると女性側はどんなに鍛えてもその筋力は精々男子中学生から高校生程度のレベルまでしか行かない。当然鍛え続けていれば男子としてはどんどん成長するから筋力という区切りで言えば男女で違う生物だと思えばいい。……それに、赤羽の場合は全身がアレだからな。あまり筋肉を鍛えても意味がないだろう。それよりかは他の方法で強くなった方がいい」

「……分かりました」

「あれ、でもどうしてりゅーくんまで?」

「そんなもん野郎共をいじめ抜きたいからに決まってるじゃんか」

甲斐の答えに冷や汗はため息に変わった。

西武大会会場。普段は市民に開放されていない、スポーツの大会などのために用意された特別な大型体育館だ。流石に甲斐と赤羽が初めて会ったあの全国大会の会場には負けるがそれでも普通は縁がないレベルの大きな体育館だった。

「駐車場周囲は渋滞が予想されるため、申し訳ございませんがこの辺りで……」

「押忍。ありがとうございます」

路肩で車が止められ、4人が荷物を持って降りる。会場の出入り口そのものは歩いて数分と言ったところだ。同じ考えの者は他にもたくさんいるらしく、車から何人も降りて徒歩で会場へと向かう胴着姿がたくさん見える。

「ちなみに普通に更衣室もあるから気にしなくていいぞ」

「あ、はい。心配してません」

入場して甲斐が申請を行っている間に最首が赤羽と久遠を連れて更衣室へと向かう。

「女の子もいっぱいいるんだね」

着替えながら久遠が周囲を見る。予想していたよりかは女子が多い。しかし当然姦しい雰囲気はなく、ややピリピリしている。

「まあね」

最首は口にしない。ただでさえ狭い西武大会の門だ。そしてまた女子で大成するのも狭き門だ。少数と少数が掛け合わさって男子よりかもさらに難関な舞台に今いるのだ。女子は数が少ないためトーナメントの最初の組み合わせこそ女子同士で当たるが勝ち進めば進むほどに男子と戦うことになる可能性が高くなる。そして当然男子は強い。女子が誰も勝ち進められないことも珍しくはない。と言うより年3回開催されている西武大会は既に30年以上の歴史があり、90回以上開催されていることになるがその中で女子が優勝をしたというのは前例がない。最首でも準優勝止まりだ。それでも決勝戦まで行けば次のランクの大会に参加できる。とは言えそれでもかなり難易度は高いのだが。

「……ん、来たか」

着替え終わった赤羽達が競技場フロアに行くと甲斐が先に待っていた。

「トーナメント表出た?」

「いやまだだ。それより矢尻もさっき到着した」

「え、あれをクリアしたの!?」

「いや、どうも里桜に全部押しつけて抜けてきたらしい。まあ、里桜が苦しむならそれでいいか」

「……里桜君に何か恨みでもあるの?」

「そんなことより準備運動しておくといい。ここから先絶対に妥協はするな。そしてそれ以上に無理もするな」

「「押忍!」」

やがて胴着姿の達真、そして火咲がやってきたところでトーナメント表が大型電光掲示板に表示された。また、紙でも配られた。参加者288人の超大型トーナメントだ。知った名前を見つけるだけでも一苦労だ。

「どのコートでやるのかだけ覚えていればいい」

「甲斐さん……?」

「やることは変わらない。相手を知ることに意味はない」

「……分かりました」

甲斐達はトーナメント表を見なかった。しかし、

「……見た方がいいと思うけどね」

最首だけは既にトーナメントを確認していた。

大倉、伏見両道場の代表からそれぞれ開会の言葉が与えられ順番ごとに第一試合が開始される。全ての試合が再延長戦まで進んだと仮定した場合、今日一日ではベスト32まで行く計算だ。逆に最速だとベスト8まで行く。間をとって大体ベスト16まで行くのが妥当な予測だろう。

「赤・山中!青・衣笠!両者前へ!!」

Aコート。第一試合。この大会最初の試合が始まる。珍しいことに最初から男女混合の組み合わせとなった。山中は中学生か高校1年生くらいの男子で衣笠はそれより少しだけ年上に見える女子だ。

「衣笠愛か」

甲斐がその姿を見る。

「お知り合いですか?」

「こっちは会話したこともない。だが、」

続いて視線は最首へと移った。

「……私が3年前にこの舞台で戦った相手。そして同じ日に道場に入った子だよ」

「……はるちゃんの同期……ライバルって事?」

「けど、それって……」

赤羽の疑問。最首が続けた。

「そう。私は愛ちゃんに勝って先に進んだ。でも愛ちゃんはまだここにいる」

「3年間一度も決勝まで進めていないって事だ。決して衣笠愛が弱い訳じゃない。最初から男子の相手をさせられているってことは前回そこそこの成績を収めたって事だろう。それでも3年間先に進めていないんだ。赤羽、久遠。よく見ておけ。この試合がお前達が絶対に越えるべき試合だ」

甲斐の表情は明るくなかった。

「……」

様々な視線を受けながら衣笠は意識を集中させていた。癖で握る帯もかつては緑だったが今は黒だ。階級だけが上がってしかし自分はここより先に一度も進めない。

一回戦の相手は男子だ。けた違いのパワー相手はもう慣れた。……慣れてもしかし勝てるとは言っていない。

「……ううん、勝つんだ」

帯から手を離す。ちょうど主審が畳に足を踏み入れた。

「正面に礼!お互いに礼!構えて……はじめっ!!!」

主審の言葉に和太鼓のゴングが鳴り響く。同時に一気に距離を詰める両者。当然山中の方が速い。しかしそのスピードもパワーも折り込み済みだ。可能な限り相手の攻撃を真っ向から受けずに相手の足を狙って体力を削る。一発二発じゃ意味がない。そして相手もまたこちらの狙いにすぐ気付いて最大火力による最短距離で衣笠を叩き潰すために力を振り絞り始めた。

「まだ試合が始まってそんなに経っていないのにもうあんなに……」

「だが決してやけになったわけじゃない。決勝まで進むのに何回戦うことになるのか分からない。その最初の試合における開始数秒。しかしだからといって手を抜いていい筈がない。衣笠愛は最初から全力で飛ばしているんだ」

「……男子と正面から渡り合っているんですか……?」

「もちろん工夫の末だがな。何も考えないで正面から戦っているわけじゃない。可能な限り考えて工夫している。衣笠愛は男子と戦う女子としては理想型を越えているスペシャリストだ。……だが、」

「だが?」

「……あの戦い方はそんなに長くないだろうな」

甲斐が見る中も試合は続いている。山中の攻撃を決して正面から受けることなくしかし一歩も退くことなく休む間もなく与えずに手足をひたすら動かし続ける衣笠。その動きは2段で取得する攻勢特化の型・綺龍最破と呼ばれるものだ。甲斐のようにとにかく前に出続けながら戦う者が自然と体に染み込ませている技法。山中は茶帯だからまだその域に達していない。単純なパワーとスピードで衣笠の綺龍最破に対抗して互角に打ち合っている。

しかし互角でいられるのは状況がかみ合っているからだ。これは西武大会の一回戦に過ぎない。手加減をするわけではないがしかし今日この日だけでもあと何回戦うかも分からない。その最初の一回でスタミナ全部使い果たすような戦い方をする奴が果たしているだろうか。だから山中は衣笠のハイペースを相手に"互角"以上のペースで戦うことが出来ないのだ。そして自身にとっては未知の型。これらの条件が合わさって少しずつ山中のペースが崩されていく。そして、崩されていくほどに衣笠の勝利は薄くなっていく。

「すごい。男子相手にもしかしたら勝てるかもしれない……」

赤羽と久遠はただ目の前の衣笠の健闘を見て賞賛しているだけでこの勝負に気付いていない。

「せっ!!」

やがて衣笠の膝蹴りが山中の左足側面に打ち込まれ、山中が後ずさる。相手の足への膝蹴りは自爆する危険性があるため憚られる事が多い。しかしその分決まれば有効打として勝負を優位に進めやすくなる。

「っ!!」

が、ここで完全に山中のペースは崩され省エネからハイパワーにスイッチされた。激痛の走る左足で衣笠の右足を蹴りつけてバランスを崩す。

「う、」

「ぁぁぁぁっ!!!」

1秒。1秒間に山中の拳が4度衣笠の鳩尾に刺さる。チェストガードのおかげで直撃ではないが男子渾身の拳を4度も急所に受けて無事では済まない。下手をすればこれで勝負が決まってもおかしくはなかった。だが、

「ああぁぁぁぁっ!!!」

衣笠は退かず、肩と肩を激突させほぼゼロ距離で山中の下腹部に膝蹴りを連続で繰り出した。対する山中も密着した状態で衣笠の胸に膝蹴りを連続で打ち込む。やがて、

「…………くっ、」

先にバランスを崩して尻餅をついたのは山中だった。

「せっ!!」

下段払いで技ありを奪う衣笠。

「…………勝った」

赤羽がつぶやくと同時、

「そこまで!!技あり!!勝者・青、衣笠!!」

主審の采配が下され勝負が決まった。

「はあ……はあ……はあ……」

十字礼をしてから衣笠がヘッドギアを外し、コートの外に出る。観客は沸き、他の選手達はただ重い息を吐くだけ。

「……どうしてこんなに空気が重いんですか?」

赤羽が問う。

「……赤羽、久遠。今の衣笠愛の戦い方は絶対に参考にするな」

「え、」

「どうして?男の子に勝ったんだよ?」

「そう。本来パワーが違いすぎるはずの男子相手に真っ向から力勝負で勝ったんだ。体への負担が軽いわけがない。後先を一切考えていないスタイルだ。こうでもしないと勝てないと言うのなら残念だがこの業界では生き残れない」

「そんな、」

「これまでの稽古を思い出せ。決していい加減な毎日を過ごしてきたわけじゃない。だからいつも通り気を絞ってこい」

「……押忍」

それから自分の番が来るまでの間赤羽と久遠はやや納得のいかない表情だった。

Fコート。達真は次の試合のための準備運動をしていた。

「どうしてお前がいるんだ?」

声をかけた先は火咲だ。

「いちゃ悪い?」

「別に。だがお前に関係あるのか?お前の戦術はムエタイだろ?空手はあまり関係ないんじゃないのか?」

「合宿まで参加したんだし今更何言ってるのよ。一応応援してあげるんだから私の事なんて気にせず頑張りなさい。無様に一回戦負けしても知らないから」

「……やれるだけのことをやるだけだ」

少しずつ体が暖まってきた。今やっている試合が終われば次は達真の番だ。久々の公式戦。緊張していないわけはなくしかも噂に名高い西武大会だ。しかし心はどこまでも冷静に澄んでいる。

「……やってやるさ」

コートの方へと向かう。到着すると同時に1つ前の試合が終わった。

「次!赤・遠山!青・矢尻!!」

達真がヘッドギアを装着する。そして以前赤羽美咲と2度練習試合をやったとされる人物の名前を思い出した。

「……関係ない」

反対側からヘッドギアを装着した遠山が入場してきた。

「正面に礼!お互いに礼!構えて……はじめっ!!」

和太鼓のゴングが鳴ると同時、達真と遠山が駆ける。中空で激突する蹴りと蹴り。パワーもスピードも互角。しかしこんなものは指針にはならない。足を置くと同時に達真は前進、遠山は再び蹴りを繰り出す。それは達真の前進を見越して先に放ったカウンターだった。それを片手で受け流しながら達真は距離を詰めて近距離。

「せっ!」

鳩尾向けてのワンツー。肘からまっすぐ放つのではなく、やや斜めに軌道を描いて放つワンツー。通常のそれより加速度と威力が高めな技はいつも近くで見ているあの男のものが自然と身についたものだ。

「っ!」

ガード。流石に勝負はすぐにはつけさせてもらえなかった。だが達真は攻撃を続ける。決して一方的というわけではなく遠山も攻撃を行ってきていたのだがしかし達真は努めて冷静にまるでコンピュータのように正確なリズムと角度で攻撃を次々と繰り出していく。

相手の足への下段回し蹴りは先程のワンツーとは逆に足全体で放ち、相手が足をあげて備えたガードごと穿つイメージで。相手の前蹴りは勢いよく半身をそらすことで完全に回避しつつ、半身を反らした勢いに乗じた達真の帯が勢いよく遠山のわき腹にたたきつけられ、殴られたと錯覚した遠山が無意識にわき腹へのガードを固めた瞬間に相手の鳩尾に拳をたたき込む。

ワンツーは大抵左手から放つものだ。同じ場所に2発打ち込むのが基本だが左で放つ初手をフェイントにして右手の本命を急所に当てるパターンもある。だが、達真は左利きだ。当然左手で殴った方が威力が高い。左手の初手が相手の鳩尾に入った直後に相手の左わき腹に右拳を打ち込む。パワーよりもスピードを優先した。なぜなら、

「くっ!!」

左手の一撃を受けた相手が猛烈な勢いで下がり、それはちょうど右拳を放った場所にわき腹の急所が至るタイミングだったからだ。

疑似的な3発同時攻撃を受けて後ずさる遠山。逃さず一歩前進しながら前蹴りを放つ……振りをして下段への攻撃を行う達真。

試合開始して30秒は完全に達真のペースだった。しかし遠山も負けてはいない。気持ちを切り替えた遠山は達真の攻撃を受けてから確実に回避もガードも出来ないだろうポイントを瞬時に見極めてそこへの攻撃を集中。

しかも先程までの達真の冷静さとは正逆の一気に気を解き放つパワープレイで。

「ぐっ!」

想定以上のパワーが飛んできて達真は後ずさる。

「……レベルが違うわね」

火咲は客席ではなくコートのすぐ外から試合を見守っていた。

「……私の知らないレベル。どうするのかしら」

火咲がつぶやいている間も達真は徐々に追いつめられていく。努めて冷静に……それをイメージしてはいるものの現実に暴力と言っていいレベルの攻撃を受け続けては痛みとアドレナリンで冷静さは奪われていく。

「それでも……!」

やがて遠山の攻撃は少しずつ達真に防がれていく。局所的だが制空圏を築いたのだ。遠山の攻撃はそのパワーを最大限発揮するために直線的なものが多い。よって半身を切りつつガードを固めながら接近することで相手の有利を侵略していく。そしてついに密着というレベルにまで接近を果たした達真はまっすぐ視線をぶつけたまま相手の両足のふくらはぎを踏みつける形で蹴り抜いた。

「!?」

相手は正面にいるのに背後からの攻撃。ついうっかり背後を振り返って確認したくなったが理性がそれを止める。しかしその一瞬にも満たない隙に達真の鋭い前蹴りが遠山の下腹部に突き刺さる。

「くっ、」

一歩退く遠山。既に呼吸はやや乱れてきている。対して達真はいつの間にか完全に冷静なペースに戻っている。

今日この試合において一番大事なのは精神力だ。体力には限界がある。そして戦えばどうしたって体力は削り合うものだ。だからこそ精神力を保ち、可能な限り体力の消耗を減らす。逆に相手の精神力を乱すことで隙を作り出す。その隙をつけば大きく体力を減らすことが出来る。これが達真の作戦だ。

遠山も達真の作戦に薄々気付き始めている。だからこそ出来るだけ速攻で決着をつけないといけない。出来る事なら次の一撃で。

「ぁぁぁぁっ!!!」

駆ける遠山。手足全身全てに闘気を込める。フェイントではなく全身全てを使ってでも相手を次の一撃で打ち倒すという覚悟の表れ。達真にはこれを回避する術も防御する実力もない。

「……やるしかない」

対して達真が繰り出したのはやはり前蹴りの一発だった。当然ただの一撃が遠山を止められるわけはない。遠山はステップでそれを回避してその勢いを利用した攻撃を繰り出す。狙いは達真の軸足。全力で蹴りつけてそれだけでKOする。必殺の念を込めた下段が放たれて達真の軸足へと吸い込まれていく……筈だった。

「そこ!」

「!?」

達真は素早く軸足を変えて姿勢と視線を低くしていた遠山の顔面に低空飛び膝蹴りをたたき込む。

「……本当フェイント大好き人間ねあいつは。いや、ギャンブラー?」

火咲が呆れる中、漫画のような鼻血を吹き出しながら遠山は倒れた。

「遠山!立てるか!?」

主審があわてて遠山に駆け寄り、決して触れぬように声をかける。

「……た、立てます……!」

ヘッドギアからも大量の鼻血が流れ落ちていぶし銀の胴着を赤く染めていく。弁償した方がいいのかとか下段払いして技ありとるの忘れてたとか達真が肝を冷やしていく中、遠山が立ち上がり構えた。

「……よし、続行!!」

主審がコートの端へと移動すると同時に両者が再びぶつかり合う。

遠山の突進するような蹴りを達真はステップだけで横に避けて再び正面から遠山のふくらはぎを踏みつける。

「ぐっ、」

重心を崩されてよろめく遠山。その帯に向かって達真は前蹴りを仕掛けた。腰回りを絞める帯の結び目に蹴りを入れて蹴りそのものの威力よりも腰や腹部への圧迫感を増加させた一撃。踏ん張ろうにもふくらはぎを潰されたことで足が持たずに遠山は後ずさる。その遠山の両脇に達真は両腕を差し込む。

「これは……クワガタ……!?」

遠山は反応に困った。パンチというのは脇を締めて行うことで威力を増す。そのため両腕を相手の両脇に挟まれるように突き入れると脇を絞めることが出来ず、しかもパンチは相手の腕の外側からしか行えず実質封じることが出来る技だ。しかし本来ならこのような技は小学生クラスでしか扱わない。相手の動きを封じるくらいなら蹴りを入れて手足を潰した方が早いためだ。だから惑う。それに最近ではこの技もあまり教えなくなってきていた。遠山も昔兄から聞いたことがあるくらいで実際には教わっていない。

「戦い方が古すぎる……!」

「関係ない!!」

そこから達真は一歩前に踏み入れ、発勁の要領で相手の両脇から体内へと衝撃を流し込んだ。

「…………っ、」

一瞬、また鼻血がヘッドギアの隙間から飛び出て達真の襟を汚す。そして次の瞬間には達真に寄りかかる形で遠山は倒れ込んだ。

「せっ!」

それを流し、倒れた遠山の背後で達真は下段払いをとった。

「技あり2本!勝者・青・矢尻!!」

「…………まあ、あの人のカラーで負けるわけにも行かないしな」

「現担ぎのつもり?」

コートの外に戻ってきた達真に火咲がため息。

「まあ、でもあの赤羽美咲が2度も勝てなかった相手によく勝てたじゃない」

「別に。俺の方が年上だしな。不利もない」

「不利もないってあんなギャンブルみたいなことしておいてよく言うわ」

「ギャンブル?」

「制空圏を弱めてわざと隙を作って相手を引き寄せてからカウンター。闘牛士みたい」

「別にギャンブルじゃない。相手のタイプを計算してうまくやっただけだ。俺にはどっかの誰かみたいな他を圧倒するパワーなんてないからな。小細工してやるしかない」

「はいはい。試合後でアドレナリン盛ってるのね。次の試合まで時間もあるわけだしクールダウンしてきたら?」

「……分かってる」

そう言って達真は控え室へと歩いていった。

(……いつの間にか女子最強クラスになってた衣笠愛、遠山を倒した達真、最強のライバルの久遠。強敵だらけであんたはどうするのかしらね、"赤羽美咲")

火咲はトーナメント表を見てから達真の後を追いかけた。

そんな赤羽も試合直前のためコートの前に来ていた。

「対戦相手は弥生ちゃんらしいよ」

「弥生?橋本弥生ちゃんか?」

最首からの言葉に甲斐が驚いた。

「知り合いですか?」

「こっちのライバルの一人に橋本勇也ってのがいてな。そいつの妹なんだ。年齢も階級も実力もそこそこ離れてたから面識とかはほとんどないけどな。けどあの子まだ空手やってたのか」

甲斐がしみじみとしている。

「赤羽ちゃんの1つ下だったかな?空手歴はまあまあ長いと思うから油断しないで頑張って来て」

「押忍。分かりました」

最首のエール。すると1つ前の試合が終わったため赤羽がコートへと向かっていく。

「赤・赤羽!青・橋本!」

主審に呼ばれて少しの緊張を胸に抱いて赤羽がコートの中央に立つ。相手は確かに自分よりやや小柄の少女だった。

「正面に礼!お互いに礼!!構えて……はじめっ!!」

和太鼓の野太いゴングに腹筋を押され赤羽が駆ける。散々鍛えたそのスピードは弥生の想像を超えていたがしかしそこまで差はない。赤羽の放った上段前蹴りを弥生は上段回し蹴りで払いながらそのまま蹴りを変形させて赤羽の顔面を狙う上段前蹴りへと移行した。

「……!」

「へえ、兄仕込みか」

甲斐が舌を巻き、赤羽はギリギリで回避する。

「長身の兄の技を小柄な妹が使うのは違和感あるが、精度は悪くないな」

赤羽はすぐに体勢を立て直して相手の方をしっかりと見やる。制空圏の形状、濃度、角度。すべてを直感で把握してから再び行動に出る。対して弥生は怯まず赤羽を迎え撃つ。赤羽の低空飛び膝蹴り。それを弥生は中段内受けで流しつつワンツー。赤羽は直撃で受け止めつつ払われた足を使って弥生の肩にかかと落とし。

「っ!」

衝撃に弥生が怯んだ瞬間に赤羽の低空飛び膝蹴りが追撃。今度こそ弥生の下腹部に打ち込まれ、その小柄を5歩下がらせる。

このやりとりで赤羽は、周囲は両者の実力差を確信した。おそらくこの勝負は赤羽が勝利する。だが問題なのは弥生がどこまで粘るかだろう。場合によってはそれで勝負を急いだ赤羽が思わぬ反撃を受けて勝敗が狂う可能性だってあり得る。だから赤羽は努めて冷静に勝負を続けた。

弥生の技は違和感が強かった。本来弥生が使うようなものではない技ばかり使っている印象だ。故に赤羽も本能による予想を崩されて手こずる。

「妙だな。あの子、自分で技を持ってないのか?」

甲斐が口を開く。

「分からない。でも私はあの子が道場で稽古をしているのを見たことないから」

「……基本女子小中学生は最首が稽古を受け持ってるんだろう?」

「基本はね。でも平日の夕方とかには大人の人が対応してるから必ずしも私が全員見ているわけじゃないよ。話もしてないから私も弥生ちゃんに何があったのかは分からない」

「……何か不愉快がありそうだな」

甲斐が眺める。既に勝負は赤羽の方が圧倒していた。そして赤羽にも相手方の不自然に気付きつつあった。

「……間に合ったか」

「斎藤」

と、そこへ斎藤がやってきた。

「遅くなった」

「退院したのか」

「直接来た。……お、あれは弥生ちゃんだな」

「斎藤。あの子の兄貴について何か知ってるか?」

「ん?橋本勇也か?あいつなら俺より先に空手やめたぞ」

「そうなのか?」

「確かにあいつはお前とライバルで何回かカルビで戦ってるけど結局全国まで進めなかったからやめちまったんだよ」

「……もしかして弥生ちゃんが兄貴の技ばかり使うのは兄貴のためか?」

「……むしろ逆かもな」

「逆?」

「弥生ちゃんは正直中2になるまで空手が出来るほど才能はない。西武だってほぼ間違いなく勝ち進められないだろう。それでも戦いたいからカルビまで行った兄貴の技を使ってるんだろうな。……体格が違いすぎてあまり意味があるとは思えないが」

「……あまり赤羽に聞かせられない話だな」

久遠には少し怪しいが。

やがて、本戦が終わり判定が始まる。勝負はやはり赤羽の勝利だった。

赤羽側はほとんど体力を消耗していないが弥生は既に肩で呼吸をしているほどの消耗ぶりだった。

「……あの、」

「……私の試合、どうだった?」

「……」

弥生からの質問に赤羽はうまく返答できなかった。正直迷走していてあまり強いようには思えなかった。そして本当に彼女自身の戦い方なのか疑問があった。

「……そっか。やっぱ私もだめだよね。……うん。空手やめよう」

「そ、そんな……私とそんなに変わらないのに……」

「うん。それなのに全く勝ち目がなかったから。全然力を出し切れなかった。才能が全然ないんだよ」

「才能なんて……」

「名前、聞かせてくれる?」

「……赤羽美咲」

「……ああ、あの拳の死神の……納得だ。じゃあね、赤羽美咲ちゃん」

十字を切って弥生は笑顔で畳を後にした。

「……」

コートを後にする赤羽。甲斐と最首、斎藤が迎える。

「……あの、」

「何も気にするな。ああ言うことだってある。いくらでもな。次の試合に備えて休んでおけ」

「……押忍」

赤羽はやはり納得できないような表情で隅の方に向かい、その場に座り込んだ。

「……そろそろ久遠か」

別のコート。久遠は正直少し不穏だった。

「……せめて一回戦くらいはもう少し選んでほしかったな」

正面に立つのは石田と言う小学6年生だが身長180を越える茶帯だった。小学生は黒帯をとれないためその1つ前の茶帯に甘んじているのだろうが絶対実力は黒の領域に達しているだろう。戦う前からその印象を抱いているのは少しばかり恐怖している故だろうか。

「……まあ、やられる前から何考えているだろうね。久遠ちゃんが負けるはずないのに」

「赤・馬場!青・石田!」

名前を呼ばれコート中央に立つ。

「正面に礼!お互いに礼!構えて……はじめっ!!」

これまでと全く同じ流れで身長差30センチ以上の試合が始まった。久遠は正面に制空圏を構えながら前進する。対して石田は、

「ずおおおおおおおおがああああああああああぁぁぁぁ!!!!!!」

「ひっ!?」

腹に強く重く響くようなけたたましい咆哮。本当に年下なのかとしか思えない。その一瞬の躊躇の隙に石田は猛攻を仕掛けてきた。

「くっ、」

想像以上のパワーが久遠の制空圏を大きく歪める。ギリギリで今の一撃は防げたが気付けば石田の猛攻に久遠の手足は早くもダメージが貯まってきていた。むしろその制空圏がなければ最初の一撃で終わっていたかもしれない。それを耐えられている事こそ久遠が石田と戦える存在だと言うことを証明している。それに気付いた久遠は、

「この久遠ちゃんとやるには10年早いよね!」

相手の制空圏と自分の制空圏を合わせ、隙間を見つける。確かに二人の身長差は激しい。当然30センチ以上も大きい石田の方がパワーなどでは圧倒的に有利だ。だがあまりに体格に差があるからこそ付け入る隙がある。石田のパンチを久遠は横にステップするだけで回避する。

「!」

石田の肩が久遠の肩に乗っかる形になり、一歩前に出るだけでその懐に潜り込めた。

「相手が強大なら強大こそ懐に潜り込むのが正道だよね」

そこから久遠の攻撃は全て石田の鳩尾に命中し、試合開始から30秒経過した時点で既に勝負は久遠がリードしていた。

「……やるな、久遠」

甲斐が眺める。甲斐から見ても久遠の戦術は極めて正しく、そしてこの勝負は久遠に有利だろう。あの石田という小学生はその恵まれた体躯でこれまで同年代を圧倒してきたに違いない。たとえ年上と言えど自分より遙かに小柄な相手に逆に圧倒されるなど考えもしなかっただろう。

「初体験に久遠は相手が悪かったな」

甲斐がコートを背にして去ってから20秒と経たずに石田は畳の上に倒れた。

「天才少女、久遠ちゃんの大勝利!」

「……礼を尽くせ。反則にするぞ」

主審をやっていた雷龍寺が久遠にげんこつした。

・それぞれ一回戦を経た赤羽達。当然だが一番試合回数の多い一回戦が一番長く時間がかかる。午前8時30分から開始して2時間以上経過してもまだ2回戦開始の案内が来ない。とは言え勝ち進んでいれば2回戦の相手などトーナメントを見れば分かるのでただただもやもやしているだけの待ち時間が続く。

「交流試合の時も思ったけどこの時間が一番嫌なんだよね」

すっかり緊張が解けてスマホをいじっている久遠。

「久遠。流石にリラックスしすぎです。畳の上でスマホはしないと甲斐さんから言われているでしょう」

「だって暇なんだもん」

「赤羽の言うとおりだぞ、久遠」

久遠にげんこつの甲斐。

「またげんこつぅ~!?」

「また?」

「さっきらいくんにもされたんだもん」

「……雷龍寺にされたのなら文句はないだろうな」

「あるもん」

頬を膨らませる久遠。とてもさっき身長180を越える巨漢小学生を秒殺した相手には見えない。

「でも公式もひどいよね。あんなでっかいのと久遠ちゃんを一回戦から戦わせるなんて」

「……分かってるだろ?それなのにお前は勝てた。加藤先生も雷龍寺もこの結果を知っていただろうな。この大会の台風の目になる存在だってな」

「……もう死神さんてばやっぱりかわいい久遠ちゃんを攻略しようとしているんだ。へへ、ハッピーエンドにしようね」

「はいはい」

久遠の頭をなでてやる。

「……」

「赤羽、お前はそんな久遠に勝ってるんだ。自信を持て」

「……はい。でも、」

「弥生ちゃんの事なら気にするな。勝ち進むということは誰かの希望を挫くと言うこと。そしてそうしない限り先に進めないんだ。相手もな」

「相手も……ですがあの人はもう空手をやめてしまうと言った……」

「……だが空手だけが全てじゃない。弥生ちゃんにとってはきっともう空手は過去にしたかったんだ。最後に破れかぶれで自分の可能性を試したかったんだろう。お前はあの子の背中を押したんだ」

「……最後のとどめを刺す役割でもですか?」

「人間は自分でも負けたと思うまで負けない。前を見ている限り心は死んじゃいないさ」

「……分かりました」

「……あ、廉君。そろそろ2回戦始まるみたいだよ」

最首に呼ばれて巨大な電光掲示板を見る。情報が更新されていて2回戦の組み合わせが表示されていた。ついでに紙の方でも2回戦からのトーナメント表が希望者にのみ配布され始めた。今更確認するまでもないため甲斐達は受け取らない。とは言え使用コートが変更されている可能性はあるため一応電光掲示板の方を確認しておく。

なお、詳しく見たわけではないため正確ではないが赤羽、久遠、達真はベスト8くらいまでは恐らく互いにぶつかることはない。本来なら一緒に頑張ってきた仲間達同士は年格好も性別も近いことが多いためこういうトーナメントでは早い段階でぶつかることが多いし、早い内にそう言う経験はしておいた方がいい。実際甲斐も最首もどこかで1回戦か2回戦くらいで赤羽と久遠は当たると思っていた。この二人は3月の交流大会で戦っているから敢えて今回は遠ざけたのだろうか?

「まあいい、最後まで勝てばいいだけだ」

甲斐はそれぞれの2回戦の様子を見に行くために会場内を歩いていると、

「あ、お兄様!」

杏奈とライルと出くわした。

「次女と執事か。珍しいな。空手関係のイベントに来ているとは」

「杏奈ですぅ!和佐ちゃんの代わりに視察に来たんですよ」

「長女はどうした?甲斐機関のイベントなら真っ先にあいつが来るはずだろ」

「それが、なんか最近様子がおかしくて。あまり甲斐機関のお仕事しなくなっちゃったんですよ」

「……生理か」

「何言ってるんですか……?」

「冗談だ。本当は合宿の時に何かしそうだったんだが結局何もなかった。次のイベントを探しているのかもな」

「イベント?」

「そちらの社長さんは何か記念を見つけるとすぐにイベントを開催する性質があってだな」

「……まあ確かに私や和佐ちゃんの誕生日に併せて新規プロジェクト発表とかよくしてましたね」

そう言うところは遺伝なのだろうか。

「あ、杏奈ちゃんだ」

「あ、最首さん」

甲斐の後からやってきた最首と杏奈が手を振る。

「どうしたの?珍しいね」

「はい。和佐ちゃんの代わりに視察を。まあ、空手なんて全然分からないんですけどね」

「へえ、ほうほう。じゃあ杏奈ちゃんも空手やってみる?女の子でも歓迎だよ?」

「う~ん、確かに身近な女の子は何か格闘技をやっている印象ですけど私は大丈夫です。ライルがいますので」

「……」

ライルは静かに頭を下げた。

「ライルさんか。……どっかで見覚えあるような気がするんだけど」

「そうだと思いますよ?だって……」

「お嬢様」

「……もう、ライルってば。ごめんなさい、最首さん、お兄様。そろそろ時間のようです」

「あ、うん。そうなんだ」

「おい次女。くれぐれも大ボスや長女におかしなことをするなと伝えろ」

「あ・ん・な・で・すぅ!!」

ちょっと不機嫌になりながらも杏奈とライルは去っていった。

「……廉君どうして杏奈ちゃん名前で呼んであげないの?」

「家族なんてそんなもんだろう。だからそれでいい」

「……欲張りだよ廉君は」

「だから面倒なんだよ。……次の試合に行くぞ」

「うん……」

「もう、別にいいじゃない」

杏奈はぷんぷんしながらコートの外側を歩く。

「お嬢様。今の私はあなたの執事です。それ以前のことなど必要ありません」

「けど……」

「ほう、珍しい顔があるな」

「……」

二人の前。雷龍寺が現れた。先程までは主審の一人としてコートの上に立っていたが今は休憩時間のようだ。そんな雷龍寺の視線はライルへと注がれていた。

「……馬場雷龍寺」

「死神のところで雇われたそうだな」

「……甲斐廉は関係ない」

「そうなのか?で、どうしてまた日本へ?故郷のアメリカの中学に行ったんじゃなかったのか?」

「何年前の話だ」

「8年前」

「聞いていない。……仕事だ」

「そうか。……まだ体を鍛えてそうで何よりだ。少しスパーリングやっていくか?」

「殺す気か。元未成年最強空手戦士」

「元……ですか?」

初めて杏奈が割り込んできた。

「はい。20歳になったのでその枠からは外れています」

そこで急に雷龍寺が壊れたように笑い出した。

「……どうした」

「いや、お前がそんな子に対して敬語とはな。執事か?借金してどこかのお嬢様の脅迫でもしたのか?」

「人をハヤテにするな。……お嬢様、もう行きましょう。この空手馬鹿はあの死神よりも手に負えない」

「おい、それは心外だぞ。拳の死神みたいなトラブルメーカーと一緒にするな。今年に入ってどれだけあいつ絡みの問題が起きてると思ってる」

「正確に言えば赤羽美咲含めた三船機関の問題だろ。……今からその話もあるんだ。……行きましょう、お嬢様」

「……その話ね」

つぶやく雷龍寺を背に二人は歩き出す。そして、

「……来たか」

主催席。大倉、加藤、伏見提督の前に杏奈とライルがやってきた。

2回戦。久遠の相手は伏見道場所属の女子高校生だった。

「わお。現役JKと戦うことになるとは」

「赤・馬場!青・佐伯!」

「……じゃあいっちょやってみるかな」

「はじめっ!!」

号令と同時に両者が相手に向かって走り出す。体格の問題から佐伯の方が先に接近を果たして蹴りを繰り出す。

「折り込み済み!」

それを完璧なタイミングで防ぎ、相手の軸足に下段を打ち込む。

「んで、足孔雀!!」

そこから久遠はコサックダンスを踊るかのように佐伯の臑に連続低空飛び蹴りをたたき込む。

「し、私語っ!!」

「まじめちゃんだね!」

佐伯がバックステップで下がると久遠も追随してひたすら臑を蹴りまくる。ただでさえ久遠は背が低いのにさらに低姿勢になっているため佐伯はどう攻撃したらいいか分からない。長年西武で戦ってきた佐伯でもこんな戦い方をする相手見たことがない。

「くっ、」

足腰がダメージに歪み、後ろに下がることも出来なくなる。下段への攻撃を仕掛けようにもパンチが顔面に当たってしまうと反則になる。かといって足で攻撃するにはダメージを受けすぎている。

「……何なのこいつ!」

無理に距離を離れようとしたら全く同じ速度で久遠が追随して死ぬほど佐伯の足を蹴りまくる。

そして試合開始から1分が過ぎた頃。ついに佐伯は足から崩れ落ちてしまい、立つことさえままならなくなった。

「せっ!」

立ち上がった久遠が下段払い。そしてついに佐伯は立ち上がることが出来なかった。

「そこまで!勝者・赤!!」

「ぶい!」

「……ボディに一発も当てないまま勝ちやがった……」

流石に甲斐もドン引きしてた。当たり前だがどんなに基本に則ったところでどんなに足技に自信があったところでボディへのパンチなしで勝負が決まることはほとんどあり得ない。それをまだ空手始めて1年も経っていないような久遠が年上相手に成功させるのは正直異常としか言いようがない。

「……馬場家の血筋ハンパないな」

「た、確かに……」

「ん、龍雲寺か。木人くんはどうした?」

「里桜に全部任せてきました」

「そうか。ならよし。で、何でお前まで驚いてるんだ?」

「いや、パンチ一切なし下段だけで年上倒すなんて雷龍寺兄さんでもやれませんよあんなの。年下とか相手でも僕なら出来ません……」

「まあ、将来が怖いな。こりゃ3年もすれば全国デビューしてるかもしれない」

「拳の死神の弟子の天才少女って感じですか」

「……弟子ってわけではないと思うんだがな。ともかく龍雲寺。あれには嫉妬するだけ無駄だぞ」

「……流石の僕ももうそこまで烏滸がましくないですよ。自分にやれる範囲のことをやっていきます。……また空手をやるかどうかは分かりませんが」

「……そうだな」

こちらには気付いていないのか久遠はコートを離れると甲斐達とは逆の方向へと歩いていった。一方、すぐ隣のコートでは達真が2戦目を行っていた。

「くっ!」

相手は女子だが格上。そして中々に手強い。それもその筈対戦相手は都築麻衣だった。

いつもは伏見機関の軍人として行動し、雅劉の部下として振る舞っているが伏見道場のエースとしての務めも果たすためこうして大会に参加したのだ。

女子と言えど軍人。常日頃から鍛えた足腰は尋常ではなく、達真より先に前蹴りを炸裂させては怯ませて接近。下腹部の丹田へと的確に膝蹴りをたたき込む。

「ぐっ!!……はあ、はあ……」

試合開始して1分が経過した今、既に達真は息が切れていた。どうやら一回戦の相手と引き続き西武大会常連の猛者とぶつかってしまったらしい。

麻衣の方はそこまでダメージを負っていない。既にこの勝負は達真が圧倒的劣勢だった。周囲の目もそれを物語っている。

(……確かにここで俺は負けるかもしれない。けど、諦めていい理由にはならない。俺はそこまで不遜じゃない……!!)

麻衣の接近。タイミングを合わせてクワガタを差し込む。位置的には麻衣の脇に両手を挟んだことで若干乳房に触れてはいるが互いにそんなことを気にする余裕はない。見慣れぬ動きに逡巡する麻衣。しかしすぐに下段への攻撃を開始する。

(なら!)

クワガタへの一番簡単な対処法は足技で相手を突き放すことだ。それも下段への攻撃がベスト。しかしそれは達真も折り込み済みだ。麻衣の蹴りに合わせて膝の角度を変えることで麻衣の放った蹴りは出し切る前にその臑に達真の膝が当たることで防がれる。

「くっ、」

それも勢いよく当たったことで臑にダメージがいく。そうして怯んだ矢先に達真は麻衣の鳩尾に飛び膝蹴りをたたき込む。チェストガードがあったがその上から相手の急所を踏み抜く勢いで足を放つ。

「……ふう、」

クワガタから抜けて麻衣が2歩下がって呼吸を整える。対して達真も隙を見せない程度に呼吸を整えた。思考するという程ではないがどちらも闇雲にぶつかっていくタイプではない。冷静に試合を有利へと運んでいくタイプだ。思わぬ反撃こそあったがまだ勝負は麻衣に有利は変わらない。それは互いに共通している。問題なのはどうここから逆転するかとこのまま征するか。思考と言うほどではない。直感的に直観的に試合運びを頭の中で構築していく。そして手足が動き出す。

「……」

「……」

互いに既にコンピュータのようにただ手足を繰り出す機械になっていた。痛みももちろんあるがまるで囲碁や将棋のように矢継ぎ早に最善の行動を放っていく。直接急所はねらえない。しかし、それを守る部分を少しずつ攻略していく。胸を守る腕を、足腰を守る臑や太股を、少しずつしかし可能な限り削っていく。

「そこまで!」

120秒が経過してインターバルが入る。そして延長戦が開始された。その延長戦でもお互いに全く衰えないまま打撃を繰り返していく。一撃必殺の技などない。ただただお互いを削りあうだけの120秒が再び経過して勝負は再延長戦にもつれ込んだ。互いに肩で呼吸しあう程の疲弊。しかし脳はどんどんクリアになっていく。その中でわずかな焦燥もあった。

(このまま行けば前半不利だった俺は判定に持ち込まれると負ける)

(軍人として鍛えてるけど体力は向こうの方が上。押し切られる……!)

「再延長戦、はじめっ!!」

主審の号令。三度コート中央で接近を果たす両者。そんな矢先、達真は両手を十字に合わせた形の構えをとった。

「上段十字受け……?」

龍雲寺が疑問する。対して甲斐は口を開いた。

「……まるでスペシウム光線だな」

「は?」

「クワガタといい、あいつはブランクある関係でまあまあ古い、しかも指導者の個人的な戦術をとりたがる。……そうだ、思い出した。昔ほんのわずかな間だったがそんなに年の離れていない、しかし腕の立つ指導員がいたな。日本人じゃないから目立った。……そいつの名前はライル=ヴァルニッセ……!!」

甲斐が主賓席の方を見る。大倉達と何かの話をしているライルを視界に入れた。

「そう、あいつだ。あいつが当時矢尻の指導員だった奴だ……!」

試合は動く。突然妙な構えをとった達真に対して麻衣の脳内コンピュータは躊躇した。見た目的には上段十字受けに見える。しかしまだこちらは攻撃をしていない。なのにどうして……?

「……っ!」

迷っている暇はない。麻衣は仕掛けた。防御を構えている場所に堂々と正面から殴り込むのは非効率的だ。だから麻衣の狙いは下段だ。そして麻衣の意識が一瞬でも下に移った瞬間に達真の組んだ十字は弾かれたように解かれ、次の瞬間には左拳が麻衣の胸に打ち込まれていた。

「デコピンの要領だな」

「デコピン?」

「右手首に左手を押しつけ、デコピンみたいに溜めて放つ。脇を締めていない状態でのパンチは大して威力が乗らない。しかしそれを補う方法があのデコピンパンチだ。そして最初のあのスペシウム光線の構えは相手の注意を逸らす役割もあるわけだ。普通ああやって顔の正面に構えられたら下段を狙いに行くからな。麻衣ちゃんは正しかったからこそこうしてカウンターを受けた。……クワガタといい、相手がいないと成立しない技ばかり使うな、あいつは」

確かな感触があった。目の前で胸を押さえてうずくまる麻衣の姿もそうだが今の一撃、複数のものを一気に打ち砕いた感触が達真にはあった。つまり、最低でもチェストガードは砕いた。そして場合によっては肋骨すらもへし折った可能性がある。自分にそれだけのパワーがあるとは信じられなかったが結果は結果だ。

「……」

再び達真はコンピュータモードに入った。致命的なダメージを負った麻衣はまともに構えるだけで手一杯だ。しかし手抜かりはしない。腰への回し蹴り=ミドルを叩き込み、麻衣の軸を痛めつける。達真の足に硬い感触があった。恐らくチェストガードの破片だろう。

「待った!」

「!」

突然麻衣が制する。そして帯を解き、胴着の上を開いてシャツをめくる。シャツの中からは破壊されたチェストガードがボロボロと落ちていく。ついでに破れたブラジャーも麻衣の足下に落ちた。それらを全て足で払って麻衣は構える。

「……来なさい!!」

「……いいだろう」

再び達真は腕を十字に組む。と、麻衣はその腕に向かって飛び蹴りを放つ。

「!」

勢いよく両手に蹴りが加わり、大きな負荷が掛かった達真の両腕が折れかかる。技を正面から潰す最善の一手だ。しかし、まるで鏡合わせのように達真も蹴りを放っていて麻衣の胸に打ち込まれる。

チェストガードもブラジャーすらない生の感触が足の裏に広がる。しかしそれ故か先程までとは正逆の柔らかい乳房によって達真の蹴りは横にずれてしまった。

結果として防御を崩されただけの達真が後ろに下がり、麻衣が前進する。試合時間は残り40秒ほど。麻衣の作戦としてはこのまま蹴って蹴って蹴り進む事。達真がこの試合で見せた特異な技はいずれも蹴りで打開できる。駆け引きなんてない、ただ得意技で相手を潰すだけの作業。そして、それを潰す技法。

「!」

麻衣が放った蹴りに対して達真もまた蹴りを放った。それも麻衣の蹴りと激突させるように。

「……終わったな」

甲斐が静かにつぶやき、同時麻衣の右足から鈍い音が轟いた。

「な、何があったんですか?」

龍雲寺はブラジャーを拾おうとする甲斐を止めながら質問する。甲斐はそんな龍雲寺を力ずくで振り払い、ブラジャーを懐に入れながら続けた。

「蹴りが蹴りとして完成する前に足裏に対して蹴りを入れたんだ。ジャンプして着地する時に膝か足首の角度がずれていたせいで着地に失敗して転んで足を痛めるみたいにな。……恐らく矢尻は最初からこれを狙っていたんだ。クワガタとスペシウム光線と言う、足技が苦手な独特な技を2度も出して前蹴りを誘ったんだ。……その足を破壊することで確実な勝利を得るために」

その後、最首と火咲からブラジャーがひったくられた頃には試合の決着が付いていた。

「勝者・赤・矢尻!!」

判定が下ると達真は倒れたままの麻衣に近づき手をさしのべた。

「……あなた、強いのね」

「まだまだだ」

肩を貸して麻衣を起きあがらせるとそのままコートの外へ向かう。

「あ、来た」

「……何してるんですか?」

コートの外。甲斐が最首にキャメルクラッチを受けていた。

「麻衣ちゃん、これ」

火咲が甲斐を踏みつけている間に最首がこっそりとブラジャーを麻衣に渡す。

「……あ、ありがとうございます……」

「破れちゃってるから使えないと思うけど……」

「……今日はもう負けたので帰ります。ありがとうございます」

麻衣はブラジャーを懐に入れる。そこで伏見道場から何人かやってきて達真からバトンを受け取る形で会場を後にした。

「矢尻、悪くない戦いだったぞ」

「……ど、どうも」

いつの間にか久遠まで加わり、甲斐は3人に踏みつけられていた。達真に出来ることは言及しないまま次の試合に備えて控え室に戻ることだけだった。

2回戦を終えた赤羽は女子更衣室へと向かった。先程の麻衣の試合を少し見ていたことで下着とかチェストガードとかが問題ないかのチェックをしたかったからだ。

麻衣は試合直後のアドレナリンもあってそこまで慌ててなかったがしかしもし自分がああなったらと思うと集中が途切れそうで怖い。本当は最首辺りにでも相談したかったが胸のサイズを考えるとあまり意味がない質問かもしれない。

「……」

女子更衣室。男子からしたら一種の楽園かもしれないがしかし今そこは奈落の底のようだった。この大会、当たり前だが女子の方が数が少ない。そして男子と女子が戦えば高確率で男子が勝つ。と言うわけで現在そこには負けたことで暗く沈む女子ばかりだった。実際今女子の中で勝ち上がっているのはただでさえ少ない女子の中でもさらにごくわずかだった。

「……どうかしたの?」

「あ、」

後ろから声。振り向けば衣笠がいた。

「あ、いえ、」

「あなた……拳の死神のところの……」

「あ、赤羽美咲です」

「そう。遙は元気?」

「最首さんならお元気です」

「そう」

衣笠は目当てのロッカーまで来ると鍵を開けて中からタオルを出して汗を拭く。顔を拭いたら胴着を脱いで体を拭き始める。

「……あの、衣笠さんですよね?少しだけ話を聞きました」

「遙から?」

「えっと、甲斐さんからもです」

「へえ、同い年とは言えあの拳の死神に知ってもらえてるなんてね」

「あの、どうして18歳になってまで空手を続けているんですか?」

「好きだからに決まってるじゃない。いくつになっても空手が好きなのよ私は。あなたは違うの?」

「私は……」

「……かもしれないわね。あなたの師匠も何となく違うんじゃないかなって思ってるから」

「甲斐さんが?」

「そうは見えない?」

「はい」

「そう。でもあの人、私も一度だけ戦ったことあるけどとてもつまらなそうにしてたわ。私の実力が全然物足りないんでしょうね」

「……」

「つまらない話をしたわ。あなたも何か用があるんじゃないの?」

「あ、はい。その……」

赤羽はさっきの試合の話をした。

「……確かに男子と戦う以上はそう言うハプニングも覚悟すべきね。小学生時代だけど完全に胴着が脱げて胸丸出しで戦ったこともあったわ。帯が切れてズボン落ちてパンツ丸出しもある」

「……男子側はそう言うのないですよね」

「そもそも空手胴着って男性用だからね。女子じゃ激しい動きするとすぐにずれちゃうから。胸が大きいと特に。男子の攻撃だとチェストガードも壊れたりは滅多にないけどずれたりとかは結構あるわ。そのままブラずれたりとかね」

「そう言う時は?」

「試合中は仕方がないけどブラジャーはしないで試合前とかにしっかりさらしとかで胸を固定しておくといいわよ。ズボンに関しては下着が見えないように短パン下に履いておくとか」

「なるほど……」

いつの間にか赤羽はすごい勢いでメモをしていた。

「……死神はもちろんだけど遙も幼児体型だからあまりこう言うこと教えてくれそうにないのかもね。まあ何かあったら聞いて。連絡先は遙にでも聞いて」

「ありがとうございます」

それから他愛のない話をしてから二人は更衣室を後にした。

3回戦、4回戦を経て既に時刻は17時を回る。流石に一日中戦い通しな事もあって選手達は表情から消耗を隠せない。そして今5回戦を終えて一日目のスケジュールが終わった。

「お疲れさまだ」

明日のトーナメントが発表されるまでの間、甲斐はポカリとタオルを赤羽、久遠に配った。達真の分はなかったが火咲が用意していた。

「すまない」

「いいのよ。けどまさか全員一日目を勝ち残るとは思わなかったわ」

「ああ。それは俺も驚いている」

火咲、甲斐、最首はいずれも意外そうな表情だった。

「久遠ちゃん達いっぱいお稽古頑張ったもん」

胸を張る久遠。とは言え彼女も疲弊は隠し切れていない。だが無理もないだろう。例年では最速ベスト8までと言ったが今日はなんとベスト4まで進んだのだ。そのベスト4進出したのは赤羽、久遠、達真、そして衣笠の4人だ。

「……正直複雑かも」

最首がため息。

「はるちゃんからしたら全員知り合いだもんね」

「そうなんだよね。みんな応援したいけど」

「それは私のことも?」

「!」

声。見れば衣笠が歩いてきた。

「愛ちゃん……」

「久しぶりね、遙」

視線を交わす二人。

「衣笠さん……」

「赤羽さん。まさか同じベスト4まで進むとは思わなかったわ。正々堂々ベストを尽くしましょう」

「……押忍」

「美咲ちゃん、この人のこと知ってるの?」

「さっき更衣室で」

「へえ、」

久遠がじーっと衣笠のことを見ていると衣笠は溜め息してからその頭をなでてやった。

「えへへ」

「今日は手で優しくなでたけど」

「へ?」

「明日もし当たることになったら足で全力でなでることになるから」

「久遠ちゃんの頭を?お姉さんに出来るかな?」

「あら、自信満々ね。流石はあの拳の死神の弟子ってところかしら?」

衣笠の視線が今度は甲斐に。

「はじめましてって言っていいものか?」

「こうして話すのは初めてね。同い年でお互い存在自体は何年も前から知っていたけど」

「昔西武でもやったよな」

「ええ。あの頃から私は前に進めていない。でも明日こそは進む。一度勝てばそれだけでカルビにも行けるけど2回勝ってカルビに進んでやるんだから」

「……すごい自信だな」

と、今度は達真と火咲が来た。

「あなたは確か、ベスト4唯一の男子……」

「矢尻達真だ。本来敬語を使う相手だけど明日まではタメ口で行かせてもらう」

「ええ、いいわよ」

赤羽、久遠、達真、衣笠がそれぞれ視線を交わす。

「……にしても矢尻以外の男子全員脱落とは少し稽古が優しすぎるんじゃないのか?」

後かたづけをしている雷龍寺向けて甲斐が言う。

「確かにな。上から言っていい言葉じゃないが正直不作が過ぎる」

割と忌々しそうに雷龍寺は吐き捨てる。達真は無所属からのエントリーだ。そのため実際大倉、伏見、三船の男子出場者は全員ベスト4まで勝ち残れなかったという事だ。指導員である雷龍寺が嘆くのも無理はないだろう。実際はベスト4どころか優勝候補の男子が全員達真と当たることになって達真が全員破ったのだが。

「……まあいい、そろそろベスト4のトーナメントが発表される」

「……思うがどうやって組み合わせ決めてるんだ?」

「一回戦とベスト4に関しては三道場の代表が話し合って決める」

「……つまり大倉会長と伏見提督と……後は?」

「今回三船の所長はいない。だが、お前のところのが加わってるぞ」

「は?」

「……杏奈さんですよ」

赤羽が静かにつぶやく。

「……次女が!?って珍しく来てると思ったら三船所長の代理かよ」

身内の参入に頭を抱える。すると、その次女の声がマイクで会場中に響いた。

「みなさん、甲斐機関の甲斐杏奈です。明日のベスト4トーナメント表を発表しま~す」

「……身内の恥だ」

ため息を付きながら甲斐が視線を電光掲示板へと向ける。甲斐だけじゃない。片付けの手を止めて雷龍寺や他のスタッフ達が、この会場にいる誰もが視線を集中させた。該当の4名は緊張と、それを和らげる現実逃避故かやや他人事のようにして電光掲示板をにらみつける。

そして表示されたのは、

赤羽美咲VS衣笠愛、馬場久遠寺VS矢尻達真の文字だった。

「……邪推だな」

甲斐は誰にも聞こえないよう口に中でつぶやいた。甲斐にはこの組み合わせが女子3人掛かりで達真を倒そうとしているように見えた。もちろんただの直感だ。該当四名を見ると、静かに互いに視線を交わしていた。

「衣笠さん……」

「何も言う必要はないわ。でも、負けるつもりはないから」

「あらら。達真君が相手か。まあいいや、美咲ちゃん決勝で会おうね!」

「余裕だなちびっ子。俺だって負けるつもりはない」

4人がそれぞれ会話を交わし、衣笠だけがその場から去っていった。

「……まあ、身内同士で勝ち進めばこうなるわな」

甲斐がため息着いて頭をかく。本来ならもっと早い段階でこうなるはずだったが、つくづく運命には嫌われているようだと甲斐は再びため息をついた。

「……ん、」

そこで火咲のスマホが着信音を鳴らした。

「着信だね」

最首が火咲の指を掴んで指紋認証してあげる。

「ありがと。……へえ、」

「どうしたんだ?」

「りっちゃんが戻ってくるそうよ。赤羽美咲、まさか明日の大会辞退しないわよね?」

「どうして私が黒のために大会を辞退しないと行けないんですか?」

「別に」

「はいはい。二人とも畳の上で喧嘩しない」

珍しく甲斐が宥める。

「……それで、0号機も来るみたいだけど、達真どうする?」

「……0号機、シフル=クローチェか」

正直まだまだ全然得意な相手ではない。陽翼が生きていて間に入ってくれているからまだしも一対一ならどう相手したらいいか分からない。

「もちろん私も行くわ。それなら緊張とかしなくていいでしょ?」

「……緊張なんてしていない。だがまあいいか。いつだ?」

「今夜よ」

「……急だな」

「矢尻、行くのか?」

「押忍」

「そうか。先にシャワー浴びておくといいぞ。龍雲寺、案内してやれ」

「あ、はい」

「?」

龍雲寺に連れられて男子更衣室のシャワーまで行く達真。ついでにその間に女子達もシャワーを浴びて私服に着替える。1時間ほど経過して再びその場に全員が集まる。

「それで甲斐先輩、何を……」

「きぜつぱーんち!」

「!?」

直後甲斐の拳が真っ正面から達真の後頭部に叩き込まれ、達真は倒れて気絶した。

「い、いきなり何を……!?」

当然ドン引きになる周囲。

「だってこいつ乗り物酔いすごからな。どうせ移動ったら電車だろ?権現堂後輩がいるならともかくいないならエチケット袋要員用意したくないし。先に気絶させたわけだ。じゃあ行くとしよう」

「ちょっと待って。変態師匠、あんた達も来るの?」

「そうだ。リッツちゃんが気になるしな。……三船関係だから上の連中も動くかもしれない」

「……達真と私だけじゃ心配なんだ」

「そう言う訳じゃないが三船関係と縁を作っておくのも悪くない」

「そう言うことなら俺も行こう」

と、そこで姿を見せたのは雷龍寺だった。

「に、兄さん……!」

倒れたままの達真に隠れようとする龍雲寺。

「……そこまで警戒するか普通」

「雷龍寺、どういうつもりだ?」

「お前と同意見だ。それに、三船と言えばあの男がいるかもしれない」

「……赤羽剛人か」

その名を口にすると赤羽と火咲が少しだけ表情を変える。

「なら俺も一緒に行くぜ」

今度は雅劉が姿を見せた。それも麻衣も一緒だった。

「あれ、矢尻さんどうしたんですか?」

「これから移動するから気絶させたんだ」

「……はい?」

「そんなことより伏見のあんた達までどうして……?」

「親父の目を潜って三船の情報収集って行ったところか」

「伏見提督は?」

「甲斐機関とやらと会議だ。大倉会長も一緒だ。だからその間に俺達だけで集められる情報を集めておこうと思う。どうだ?車なら出すぜ」

「……この人数いけるか?」

甲斐、赤羽、久遠、最首、達真、火咲、龍雲寺、雷龍寺、麻衣、雅劉。10人である。

「……少し厳しいかもな」

「廉君。私は赤羽ちゃん、久遠ちゃんと一緒に帰るよ」

「え、どうして久遠ちゃんまで!?」

「難しい話かもしれないからね。正直まだ三船はちょっと……」

「いや、赤羽は一緒に来てもらう」

「え、」

甲斐からの言葉に赤羽が驚く。

「ちょっといいの?そいつ甲斐機関よ?」

火咲から否定の言葉。

「赤羽を信じない訳じゃないからこそ一緒に連れて行くんだ。確かに今回俺達がやろうとしていることは大人達、甲斐機関への反逆だ。だからこそ赤羽も連れていく。……赤羽も俺達のこと信じてくれるよな?」

「…………はい」

「目が泳いでるわよ」

「龍雲寺。お前も帰っておけ。邪魔になる」

「あーうんうん。そうだと思ったよ」

「……で、これで何人よ?」

「7人だな。いけるか?」

「2台に分ければいけるか。誰か伏見の奴呼ぶわ」

雅劉が軍用スマホを取り出した。

2時間後。陽翼が入院している病院。待ち合わせの場所に甲斐達が到着した。同時に達真は甲斐にたたき起こされる。

「……ずいぶん大所帯になってる」

陽翼の病室。出迎えたリッツが早速火咲に抱きしめられながら人数に驚く。

「……」

達真がベッドの上の陽翼とその隣にいるシフルに視線を向けた。

「やっほ。達真。ほら、シフルも」

「やっほ」

「いやいや、意味分かって日本語使ってないだろ」

ため息をついて達真が二人に歩み寄る。

「達真。大会今日じゃなかったっけ?どう?」

「ああ。明日ベスト4だよ。勝ち進んでる」

「そうなんだ。すごいね、流石僕の達真」

「Johanes is mine」

「シフル、英語で独占欲発揮したって意味ないよ」

火咲にだっこされながらリッツも寄ってくる。

「で、どうして死神や伏見の人間まで?」

リッツの視線は甲斐や雅劉に。

「単刀直入に聞くぜ。シフルちゃん。甲斐機関について何か知っていることはあるか?」

「chain kikan?Is your family?」

「違う。いやまあ、恥ずかしながら身内がやっているのは合ってるんだが」

「最近大人どもの動きがきな臭いんでね。同盟でも組んでみないか?」

雅劉が続けた。シフルはいまいちしっくりきていないようだ。

「シフル、私が修理される羽目になったのも甲斐機関の仕業だよ」

「If they are committing a criminal act,why not defeat them?」

シフルが何かを言った。

「えっと?」

甲斐はリッツや雅劉を見る。

「……三船と同じように打ち倒せばいいんじゃないかって言ってる」

「恨み節かな?」

甲斐が目を細める。と、シフルはスマホを取り出して和訳アプリを起動した。そして何か早口で英語を喋ると、

「三船の戦力は今ほとんど甲斐機関に取り込まれてて身動きとれないから私達には何も出来ないの!」

日本語で再生された。

「こんなアプリがあるのか……」

「と言うか、」

達真がシフルを見る。

「お前、日本語喋れない癖に俺達の言葉は理解できるんだな」

「陽翼のおかげで日本語の理解は出来る。ただ日本語を話せないだけ」

再びアプリから声。正直達真もシフルもこうして互いに会話をしていることに違和感しかなかった。それを鑑みた陽翼が二人の手を取って握らせる。

「達真もシフルもこれで仲良しだね」

「陽翼……」

陽翼を中心に達真、火咲、リッツ、陽翼、シフルに笑みが零れる。

その光景から目を逸らしながら甲斐は続ける。

「そろそろいいか?とりあえず俺達が聞きたいことは以上だ。矢尻だけ置いて今日のところはもう帰るぞ」

「甲斐さん?」

様子がおかしい甲斐。逸らした目線がちょうど赤羽と合った。

「どうかしたんですか?」

「……何でもない」

「…………」

火咲は何も言わなかった。

それから達真、火咲を置いて病室を後にする甲斐達。

「無駄足だったな」

「そうでもない。あそこの連中は特に今回の件には関係してないってことは分かったからな」

雅劉がスマホを操作しながら廊下を歩く。

「……」

甲斐は少しだけ進路を変えた。

「甲斐さん?」

「おいそっちは出入り口じゃないぞ?」

「少しだけ寄り道。先に駐車場に行ってていい」

ポケットに手を突っ込んだまま甲斐は関係者以外立ち入り禁止のエリアに入っていく。その先にあるのは例の病室だけ。

「…………」

ベッドで眠り続ける少女。以前来た時はゆっくりその顔を見れなかった。甲斐は念のためにスマホで写真を撮る。

「……奇跡って来る奴とそうじゃない奴っているんだな」

頬に伸ばす手。しかしその手は届かなかった。

「…………」

甲斐は手を引っ込めた。そして病室を後にした。

・8月30日。8月最後の日曜日。西武大会の準決勝。

「……」

朝起きた赤羽は窓を開けて朝焼けの空を見やる。冷房で冷やされた部屋に生ぬるい風が加わる。

「……ん、どうかした?」

わずかな空気の変化を感じたのかリッツが目を覚ます。

「いえ、私はそろそろ起きようと思います」

「……まだ6時じゃない。10時からでしょ?移動含めても後1時間は寝ていていいんじゃないの?」

「……いいんです」

「……そ」

リッツはそのまま火咲に抱かれたまま目を閉じた。

「…………今日ですか」

赤羽は小さくつぶやいた。

「ん、」

同じ頃。達真もまた目を覚ました。見慣れない天井が目に飛び込んできた。

「……すー……すー……」

「陽翼……」

隣を見れば陽翼が眠っていた。そこで思い出す。昨日は甲斐が自分を置いて帰って行ってしまったことで気絶も出来ずかといって無理に車で帰れば準決勝以降に響くからと病院に泊まっていったのだ。

「……陽翼」

隣で眠る陽翼を見ればかつての頃の思い出が蘇ってくる。

「昨夜はお楽しみだったようね」

そこへシフルが姿を見せた。手慣れた様子でスマホの和訳アプリを操る。

「……お前もここに残ってたのか」

「そんなことよりあなた、浮気してたの?」

「は?」

「昨日、妙に手慣れてた。陽翼と一緒に夜を過ごすのは4年以上前の話なのに。当時のあなたはまだ小学生だったはずよ」

「…………ここでその話をするのか」

バツが悪い。流石に陽翼の隣で語るには勇気が必要だ。と言うか陽翼も気付いていそうなものだったが。

「と言うかどうしてお前が知ってる?」

「盗撮してたからに決まってるじゃない。イギリスに帰ってからも使うのよ」

「……お前、俺でもいいのか?」

「冗談でしょ?陽翼の艶姿に決まってるじゃない」

「…………あー、」

考えをまとめる達真。脳裏を焼いたのは常日頃から奇声を上げてリッツを抱きしめる火咲の姿。

「……そう言えばお前最上のクローンだったな」

「不遜だわ。あの女とは何も関係ないわよ。それより服くらい着たら?私、男には興味ないけど見せびらかされるのは目に毒」

「……はいはい」

適当に脱ぎ散らかしたままの服を手に取り着替える。

「……陽翼の家のこと、知ってるわよね?」

「…………まあな」

「あなた、責任とれるの?」

「俺の両親も、この子の世話をしていた人も消されたのにか?」

「…………陣崎さんなら生きているわよ」

「何だって……!?」

「イギリスにいるわ。三船から離れた私の世話をしてくれているの」

「……生きていたのか」

「でも陽翼にはまだ伝えないでって」

「……そうか」

達真は陽翼の方を向き、優しく頭を撫でてやった。

「…………ちなみに私戦闘タイプじゃないから生殖能力があるわ」

「………………だから?」

「陽翼と芋姉妹になってもいいかなって」

朝9時30分。西武大会会場に再び集まる出場選手達。既に胴着を着込んでいつでも戦えるよう準備を整えた4人の選手。赤羽、衣笠、久遠、達真。

昨日までは複数の試合を同時に行っていたが今日は1試合ずつ行う。昨日に関しては参加者が多く観戦者も参加者の親御さんなどが多かった。しかし今日は敗退した200人以上の選手やその親御さんなどは来ないだろう。その代わりに狭き門であるこの西武大会の覇者を見たいという根っからの空手ファンや関係者が1試合ずつじっくり見る事が出来るというのがポイントだ。

実際、昨日までは主婦や小中学生などが多かった客席も明らか同業者ばかりで埋まっている。

「……と言うか客席がほぼ道場関係者だけで埋まってないか?」

甲斐が後ろを見上げる。セコンドとしてコートの近くにいるのも大半が胴着姿かスーツを着たスタッフだけだ。

「まあ、今回はベスト4の選手が選手だからね」

最首は答える。今日は胴着姿であり、まるでこれから自分がコートの上で死闘を演じるかのような格好だ。

「……まあそうだな。赤羽と矢尻は家族がいないし、久遠の場合は家族が空手関係者か。……衣笠愛は?」

「健在だと思うよ。ただ、この試合には来てないみたい」

「どうしてだ?家族の晴れ舞台だろ?」

「廉君。私達には分からない問題だけど家族がいるからって必ず支えてくれるわけじゃないんだよ。愛ちゃんの場合、中学まではご両親も見に来てたみたいなんだけど、もうこの大会で5年以上足を止めている。そうしていくにいつしか来なくなったみたい」

「……本当に分からない問題だな。家族なら見に来てやればいいものを」

「来たら来たらでプレッシャーだと思いますけどね」

そこへ龍雲寺が来た。こちらは流石に私服だった。

「どうして?」

「うちの場合試合内容次第じゃその日の夕食は家族会議になりますから。……今日も両親来てるみたいですし、久遠も昨日よりプレッシャーなんじゃないでしょうか?」

「……ふん、贅沢な」

「廉君……?」

最首が疑問の声を上げると、

「では、これより準決勝戦第一試合を開始する!!」

加藤の声が響いた。マイクなど使っていない地声なのに決して狭くはない会場全体に声がしっかりと通る。

「では、両者前へ!!」

加藤の声に合わせて赤羽と衣笠が一歩前に出て、逆に久遠と達真がコートの外に出る。

「赤……赤羽美咲!青……衣笠愛!!正面に礼!!お互いに礼!構えて……始めっ!!!」

加藤の号令、その直後に赤羽と衣笠が前に出る。歩行と全身と飛び前蹴りをほぼ同時に繰り出し、互いの視線の宙空にて蹴りと蹴りが激突を果たす。

「……どうしたんだ」

直後、甲斐は疑問の声を出した。

「どうしたの?」

「……赤羽、全力を出せていないぞ……!?」

甲斐の言うとおりだった。試合が続くほどに最首の目にも分かるほどに赤羽は昨日までのような動きが出せていなかった。制空圏も練りが甘く、ただでさえ格上の衣笠の動きには全くと言っていいほどついて行けていない。

「赤羽ちゃん、どこかけがでもしているのかな?それとも緊張?」

「……緊張かどうかは分からない。ただ、肉体的な問題ではなさそうだ」

「……じゃあ……?」

「……分からない。……そう言えば昨日衣笠愛と仲良しそうにしていたな。まさか遠慮しているのか?」

「そんなまさか……」

二人は否定していた。だが、赤羽は否定できずにいた。

(……こんなんじゃいけない)

そう思っているのだが赤羽は試合に集中できていない。無意識に攻撃と防御を繰り出さなきゃいけない制空圏や他の技も体が反応してから頭で考えそれから行動に移している。だからテンポが遅れる。

対して衣笠は赤羽の動きの微妙な鈍さに気付きながらも攻撃の最善手を止めない。相手が自分に遠慮しているなんて1ミリも思っちゃいない。そんなものに期待などしているようではそれこそ1ミリも前に進めやしない。それを他の誰よりも衣笠本人が一番よく知っている。

人間が最も得意とするのは躊躇することだ。どんな行動でも何かしらの理由を付けて躊躇したがる。それでは駄目だと考えれば考えるほど人間の手足は止まし、思考は否定的に単純化していく。

「くっ!」

衣笠の前蹴りを受けて赤羽は後ずさる。まだ試合が始まって30秒ほどでありながら既に息が上がっている状態だ。単純なダメージもそうだが迷いが赤羽の体力を奪ってしまっているのだ。

「……ここまでだな」

「え……」

甲斐の断念の声を最首や久遠、そして赤羽が聞いた。

「もう赤羽は戦える状況じゃない。たとえ無心になって巻き返せても相手は格上だ。絶好調のさらに絶好調でもない限りは元々勝てる相手じゃない」

(……どうしてそんなことを言うの……?)

「空手だけやっていれば空手が強くなる訳じゃない。空手だけしかさせなかったのが敗因だな」

(……どうしてそんなもう負けてしまったようなことを言うの……?)

「2回目の試合で西武大会準決勝まで言っただけでも既に十分すぎる」

(……私はまだ始まってもいない……!!)

甲斐が目を伏せそして再び上げた時だ。

「……これは、」

甲斐の目から見て衣笠の前に立つ赤羽の動きが明らかに変わっていた。先程までとはまるで別人。

「……?」

衣笠が一瞬の思考の後、赤羽に向けて前蹴りを繰り出す。スピードもパワーもタイミングもばっちりだった。しかし赤羽はそれを片手で受け流した。

「!?」

「……」

しかもそのまま前に出て衣笠の下腹部に膝蹴りを打ち込み、彼女を後ずらせた。ここまでの動きが1秒且つ一拍子。

一拍子。あらゆる動作は段階ごとに分けられる。相手の下腹部への膝蹴りなら1に相手への接近、2に膝を上げる。3に相手の下腹部へと上げた膝を叩き込む。この3つの動作があり、慣れていないものならこれらをスムーズに行えず動きが3段階に分かれてしまう。しかし、慣れているものが行えば3つの動作を滞りなくまるで1つの動作のように行える。

今の膝蹴りのような単体技ならある程度経験を積んだ選手なら出来て当然の動きであり、何ら感嘆には当たらない。しかし問題なのは1つ前の防御と合わせた一連の流れだ。

先程まで赤羽は躊躇が原因で衣笠の攻撃を対処できなかった。

1に衣笠の蹴りを見て、2に対処法を思考し、3で考えたとおりの対処行う。そして赤羽の判断速度ではこれに間に合わずに防御すら出来ずに直撃を受けて後ずさる。

しかし今赤羽は片手を前に出すと言うだけで完璧な対処を施した。力を抜いた片手を前につきだし、手首の動きだけで相手のつま先を横に逸らす。ただそれだけの動き。言葉で言うのは簡単だがあらかじめ申し合わせていたとしても実際に行うのは難しい。これを赤羽は一発で格上相手に成功させたのだ。そして膝蹴りまで行う。この2つの攻防の動きをまとめて1拍子で成功させた。

当たり前だが多くの動作を1拍子に収めるのは難しい。動作が多ければ多いほど至難の業となる。赤羽のような経験年数1年未満の初心者なら先程の膝蹴りだけでも1拍子に収めるのは難しいだろう。

「……」

赤羽は無心。対して衣笠は恐怖ともいえる理不尽さに一瞬心を奪われた。だがすぐにそれを振り払って攻撃を続ける。

女子は筋力の都合あまりパンチを攻撃の主力に使わない。しかし相手も女子、それも自分より体格に劣る相手なら話は別だ。よって衣笠は赤羽に対してパンチの応酬を仕掛けることにした。

「……勝負に出たの……?愛ちゃんが?」

最首が疑問を投げるのも無理はない。本来格上である衣笠はたった一度の失敗を恐れずにこれまで通り攻めて攻めて攻めまくれば問題なく赤羽を制することが出来たはずだ。だが衣笠は臆した。それまで通りの経験値と実力差から単純な体格差で攻める戦術に切り替えたのだ。

実際一発一発が強力な反面体重を支える2本の足の片方を使用する蹴りと比べてパンチは隙が少ない。一発一発の威力は劣るものの連発で補える。殴り合いをあまりしない女子同士の試合でしかし、殴り合いを仕掛けた衣笠は間違いなく勝負に出たと言っていいだろう。

対して赤羽は拳を握り、脇を締めたまま両手を前に出して振り回すという一見すると間抜けに見えるような動きをとった。だが、振り回された拳が相手の拳や手首に側面から命中することで直線が崩されパンチはパンチじゃなくなる。これは主にボクサーが相手のパンチを防ぐためによくやる手段に似ている。かつて赤羽は里桜が甲斐にしばかれている時に似たような対処法をしていることをとっさに思い出したのだ。

「……何だ、覚醒でもしたってのか?」

甲斐は先程までの諦念など微塵もない視線で赤羽を見た。衣笠のパンチに反応してその手首を正確に殴り打つ。殴ってるのは衣笠の方なのにどんどん衣笠の方が傷ついていく。

(……何なの?動き変わりすぎでしょ……!?)

衣笠は手を止めて一歩後ろに下がった。それまで間違いなく通用していた蹴りは一拍子でカウンターされ、パンチによる力押しに出たら攻撃的防御の謎な技で届かない。

自分はこの西武大会だけでも3年以上参加し続けている。対して拳の死神の弟子の噂はここ最近、およそ年内でやっと聞いた程度だ。帯を見ても相手の空手歴は自分がこの大会で躓いている期間にすら遠く及ばないだろう。そんな初心者が圧倒的とも言える対処をどうやって出来るのか。

「のっ!!」

パンチと蹴りとフェイントを混ぜて繰り出す衣笠。長く戦っていると時折複数の攻撃がデタラメに混ざる時がある。対処のしづらい攻撃であり、そして衣笠はそれを半ば意図的に繰り出した。

対して赤羽は守りの制空圏を正面に展開、集中してその雑多でしかし正確な攻撃を回避あるいは防御してみせる。

「……玄武か」

甲斐はつぶやく。自身が教えた四神闘技の1つ。守りに徹した玄武。しかし決して守るためだけの技ではない。

高度な技ほど試合が長引くほどに劣化して行くものだ。衣笠の攻撃も見る見る内に見慣れたものへと変わっていく。そして赤羽は少しずつだが衣笠の呼吸と自分のそれをシンクロさせていく。

守りを固めながら相手の攻め手から相手の呼吸を完コピするその技の名前は

「玄武共振……!そんな技はまだ教えてないぞ……!?」

甲斐は戦慄した。どんな業界でも基本技さえ教えれば才能のある人物ならその先の応用に自ら足を踏み入れてものにする事は決して不可能ではない。だが、やはりそれは空手を始めてそんなに歴が長くない赤羽が出来ていい領域ではなかった。

「この勝負……もしも玄武共振を使いこなせたなら前言撤回だ。衣笠愛の方が詰むぞ……!」

「え……?」

驚く最首の前で試合は途端に終焉へと迫る。衣笠が戸惑いか休息か攻撃の手を止めた瞬間から赤羽の反撃は始まった。

衣笠から目を離さないまま赤羽はパンチをフェイントに正確に蹴りを衣笠の急所へと連続で当てていく。蹴りというのは威力が多い分隙が多い。よって必ず当てなければならない。それも可能なら急所にだ。それに対して防ぐ側は自身の腕を使って可能な限り防がなければならない。しかし対戦相手である衣笠の呼吸を完全に把握した赤羽はどうすれば衣笠が一瞬でも無防備をさらすかを理解しているためパンチをフェイントに衣笠の反応を確実に誘い、一瞬出来た間隙に素早く力強い蹴りを確実に叩き込む。

「ぐっ!」

一切防御も回避も出来ない攻撃の連続が衣笠を下がらせる。その荒れた呼吸さえも既に赤羽の掌の上だ。衣笠が下がるほどに赤羽は前に出て対応できない攻撃を続けていく。

ここまで連続で急所への攻撃を成功させていながらしかし勝利できない事には理由がある。それが経験の差だ。技術とか知識ではない。積み重ねてきた稽古による筋力の差である。空手を始めて1年経たず通常の女子中学生と大差ない筋力の赤羽だからこそそこそこ鍛え上げている衣笠を倒すのに時間が掛かってしまっているのだ。

「……」

コートの外から達真が観察していた。

(こいつ……どこまで強く……!)

衣笠はついにコートの端まで追いつめられた。遅巻きながら自身の呼吸が既に赤羽に完全に読まれ、支配すらされていることを理解する。にわかには信じがたいが自身の経験がそれは確実だと教えてくれている。そしてその対処法でさえも。

「……」

衣笠は先程の赤羽同様に左手のみを前に出した。まるで握手を求めるような変哲のない動きだ。それを握手だ赤羽の真似だなどと思うものはこの場にはほとんどいない。

綺龍最破。衣笠が最も信頼する攻撃のための上級技術。その極意は絶対なるただ一打の正拳突きに過ぎない。

「……切り札を切ってきたか」

甲斐が唾を飲む。この技は仮に甲斐が使用して成功した場合、雷龍寺や剛人だって重傷は免れないだろう。だが、当たる保証はない。逆に雷龍寺や剛人と言った格上から仕掛けられた場合、甲斐が受けきれる保証はない。

つまりは知識、経験、技術と言った全てを一撃に込めて仕掛ける最強最速最適の技。制空圏よりも先の領域と言っていい。だから綺龍最破は黒帯を締めた先の昇段試験で対象となっている奥義となっているのだ。

黒帯を越えたその先で修得しなくてはならない綺龍最破。

全国級の猛者である拳の死神が会得した攻防一体の玄武共振。

基礎を極めたものが勝つ世界に於いて勝利するのはどちらか。

(もう何も迷わない。怯まない。これまでと同じように私は私の前に立ちふさがる壁を全て壊してみせる)

視線を合わせ、呼吸を合わせ、気を拳に練り上げる。次の瞬間に勝利を勝ち取るために。

「「せっ!!」」

そして両者同時に動き出す。衣笠の全身全霊を込めた最強最速最適の正拳突き。そのタイミングに合わせて赤羽は最速の膝蹴りを放つ。相手の拳に最適のタイミングで膝蹴りを合わせれば相手の拳が砕けるだろう。しかし、逆に拳の方が速ければ……。

(……!だからあの時……!!)

刹那。衣笠の拳は赤羽の膝と腿のラインをすり抜け、まるで居合い術の際に鞘を走らせてその摩擦を威力に加えるように赤羽の左足の生地を切り裂き、頑丈な胴回りの生地をきっちり拳の形にぶち抜く。

「!!」

「綺龍最破!!!」

技が完成した時、最初に周囲の感情を動かしたのはその銃声のような轟く、しかしけたたましくない鋭い音だった。

「…………かはっ!!」

乾いた音が赤羽の口から漏れる。衣笠の拳が正確に赤羽の胸を穿った証だ。

衣笠が拳を収めると同時、赤羽は体を揺らし、そしてうつ伏せに倒れた。

「せっ!」

赤羽の背に向けて下段払いの衣笠。これでポイント上は衣笠の圧倒的有利となったがたとえなかったとしても結果は変わらないだろう。誰もがそう思っていた。

「…………」

赤羽が立ち上がったのだ。

「……まずい。この試合、止めるぞ!!」

甲斐がコートへと向かう。同じ事を思ったのか別の場所から雷龍寺をはじめとしたスタッフが何人かコートに向かう。

「…………」

それに気付く素振りも見せず赤羽は衣笠へと歩み寄り、倒れる……ように見せて次の瞬間には飛び後ろ回し蹴りを衣笠の右肩に命中させていた。

「くっ!!」

当然衣笠も無防備じゃなかった。だが今の一撃は威力を逃そうとした時に最もダメージが行くようになっていた。衣笠の右肩が一瞬外れかける。

「朱雀と白虎を混ぜた……!?無我の境地ならぬ混濁の境地に陥ったのか……!!」

それは先程衣笠が行った意図的な乱打とは正逆の境地。自分で何をやっているのか分からない混迷の意識の中で起きてしまった化学反応。疲れ果てて意識が朦朧としている時に自分でも何をしているか分からない事があるがそれと同じ状態だ。衣笠の技で打ち砕かれた戦意と肉体を誰にも分からない何かが無理矢理動かし、戦わせているのだ。

それは叫びこそないがキレている時と変わらない。

ヘッドギア越でも赤羽の目がまともな視点を映しているようには見えなかった。

「……っ、」

衣笠は視界の全てを銃のスコープに変えた。今まで自分が培ってきた全てが一瞬で打つべき場所へと自然に照準を合わせる。その瞬間だ。

「!?」

今度こそ赤羽美咲は倒れた。演技でも何でもない。その体はぴくりとも動かなかった。

急な展開に下段払いも忘れて衣笠が呆けているところで本戦終了のゴングが鳴った。

コートの外。赤羽が目を覚ました時、ひんやりした感触と熱気が感じ取れた。

「……私は……」

「あんたは負けたのよ。赤羽美咲」

すぐ近く。火咲がいた。赤羽の方を見ないまま続ける。

「今はもう次の準決勝が始まるわ。あなたの久遠が最上火咲の矢尻達真と戦う」

「…………そうですか」

「勝負を急ぎすぎたようね。赤羽美咲、あんたは空手を楽しいと思ったことがあるのかしら?」

「……空手が楽しい……?」

「あんたの世界に興味はない。でも、この世界の最低条件はそこにあるわよ」

「…………」

赤羽が身を起こすと、火咲はコートの方へと歩いていった。

コート。

「赤・馬場!青・矢尻!!」

主審に呼ばれ、久遠と達真がコート中央に来る。

「それじゃ、やろうか達真君」

「俺は年上だぞ?と言うか試合前のこのタイミングで私語するな」

「久遠ちゃんは自由でおしゃべりが大好きな女の子だもん」

「……そこ!私語をしないように!!」

「ちぇっ、」

主審に起こられた久遠が表情を一転させる。

「正面に礼!お互いに礼!!構えて……始めっ!!」

号令が下された。両者同時に前に繰り出す。体格の都合か、達真の方が先に間合いを完成させて久遠に前蹴りを放つ。身長の差もあって苦労せず達真の足は久遠の額に届く。が、

「そんなの当たらないよ?」

久遠はそれをたやすく弾いた。しかもただ弾くだけでなく手首のスナップを利かせることで達真の足首の間接を外しにかかる。

「くっ!」

ギリギリで踏みとどまった達真はワンツーを繰り出すがそれもまた久遠には片手で弾かれてしまう。

(制空圏……戦いの中でどんどん進化して行っている。厄介極まりない)

高校に進学してから何度か久遠とも手合わせをしているが日に日にその制空圏の制度は増しているように思えた。そして今日この場に於いて言えば最後に戦ったその時よりかも比べものにならないほど精度が上がっている。

達真が膝蹴りを放てば手首のスナップだけで流されて思い切り横へと体ごとずらされてしまう。その瞬間、久遠の右足が達真の帯を捕まえた。

「!」

「せ~のっ!!」

直後、達真の体が地上から大きく真上に飛ばされる。久遠の尋常ではない脚力と足の握力だからこそ可能とする乱暴な一手。そこから続く技は、

「膝天秤!!」

「知ってた!!」

落下するだけの達真の鳩尾に膝を打ち込もうとする久遠だが、達真はそれを受け止め、自分自身の体を独楽のように回すことで両足を久遠の顔面にたたきつける。

「!」

空中での攻防を経て久遠が背中から地面に落下する。その後達真が着地して下段払いをす……

「させない!」

勢いよく立ち上がった久遠が達真の下段払いをする腕に前蹴りを打ち込み、技ありをキャンセルさせるばかりか達真を後方へと吹っ飛ばす。

「……馬鹿力め……!!」

数秒ほど達真は自分の腕の感覚を失った。

「もう、こんなかわいい久遠ちゃん相手に馬鹿力なんてひどいんだ、達真君てば」

「だから試合中に私語をするなと」

「これが久遠ちゃんスタイ……」

そこで久遠は見た。達真の後ろ。そこに鬼のような形相をしている雷龍寺の姿があった。

馬場の恥をさらすな

と眼光が告げていた。

「……はいはい。真面目にやりますよーだ。ぷんすか」

ため息。それから久遠は徒歩と表現できるような動きで達真へと接近を果たすと、

「時間落とし!!」

「!?」

一瞬の下段回し蹴りで達真の体を時計回りに回転させる。

「このまま……6時間落とし!!」

「まさか……!」

達真が一回転する寸前に久遠は下段を放ち、さらに達真を回転させる。自分より体格で勝る年上の男子を足一本だけで手玉に取っている。達真は抵抗しようと手を伸ばすのだが回転速度で肘の間接が大きな負担に襲われる。

(これは……無理に逆立ちで止まろうとしたら両腕が折れるな……!!)

やがて6回転を終えた達真が体の側面から床にたたきつけられる。

「ふぃにっしゅ」

「いや、まだだ」

下段払いをしようとする久遠。その前で達真が立ち上がり、前蹴りを放つ。

「へえ、受け身をとったんだ」

「それしか対策が出来なかった」

達真の連続蹴り。それを久遠は全て手首のスナップだけで受け流し、再び接近を果たす。体格で劣る久遠はこうして相手の懐に潜り込むと相手としては対処に困る。槍や銃のように強力な威力を遠くまで届かせられる武器ほど接近されたら弱い。それと同じで達真より頭一つ分よりも小さい久遠が構えた両腕よりも内側に接近してくると達真としては対策は膝蹴りだけとなってしまう。

(バックステップは最悪手だ……!)

一瞬だけ出現した選択肢を振り切って達真はその正逆のフロントステップを繰り出す。

「え、」

足でも手でもない。腰そのものを久遠に衝突させ、久遠の小柄を突き飛ばしたのだ。

「この距離ならバリアは張れないな!」

もはや空手でも何でもない体術を受けた久遠は受け身もとれずに突き飛ばされて畳の上を側面で滑る。

「せっ!!」

距離はあったものの達真は下段払い。それを見た主審は達真と久遠の距離と様子を見てから、

「有効!!」

技ありの1ランク下の判定を下した。

「……」

雷龍寺は珍しさを感じていた。パンチやキックが無防備に敵に命中すると得られる判定が"有効"だ。しかし試合をしていれば攻撃が相手に命中することなど珍しいわけがない。そのため普段有効と言う判定が下されることはない。強いて言うなら事故で反則行為をとってしまった場合に相手に有効が与えられる事がごくまれにあるかどうかと言ったところだ。

今回有効が判定されたのはパンチでもキックでもないただの当て身と言う形で久遠を床に伏せさせたのが大きいだろう。本来空手で当て身は反則ではないが有効範囲外の攻撃だからだ。

有効は二回で技ありとなり、技ありは二回で一本となる。そして一本が二回とられればその時点で試合は終了となる。その最初の一歩となるのだが有効という名前ながら試合ではそんなに有効ではない。再延長戦での判定勝負ならともかくそこまでに行く勝負では影響はほとんどないだろう。

(つまるところ、試合には大して影響ないってところか)

実際仮にこのまま再延長戦まで行けばわずかなポイント差で達真が勝つだろうが相手がそんなことを許すとは思えない。

「……やるね、達真君。小さな一歩でもやり返さない道理はないよね?」

久遠は立ち上がり、右足を半歩後ろに下げた。それは久遠の切り札である虎徹絶刀征の構えだ。しかし達真からは5メートル以上も距離が離れている。超スピード且つ超威力の下段回し蹴りである虎徹絶刀征をこの距離で当てられるとは思えない。しかし、相手は天才少女。常識では計り知れない何かを使う可能性はいつも捨てない方がいい。

「……」

達真は身構えた。相手が基本から正反対なほどに離れた相手だからかなりやりづらいがしかし気を抜くわけには行かない。

「さあ、行くよ。虎徹絶刀征!!」

その瞬間、達真だけでなく周囲のギャラリーも皆一様に感じたことがある。

「あ、これ駄目な奴だ」

久遠は左足だけの縮地を使い一瞬で達真の眼前まで迫り、必殺の一撃を達真の腰に向けて叩き込む。その速度は雷龍寺で何とか反応できるほど。その雷龍寺が危険を感じて制止の手をさしのべた瞬間に達真の体が真横に吹っ飛んでいった。

「………………へえ、」

久遠が足をおろすと同時、20メートル以上も離れた隣のコートで達真は立ち上がった。

「達真君、やるじゃん」

(……危なかった。来ると分かった瞬間に無気力でジャンプ、自ら吹っ飛ばされることで威力を軽減できていなかったら腰も背骨も一気にへし折れていたかもしれない……!)

戦慄しながら達真は冷や汗を感じる。ヘッドギアがあるため拭うことは出来ないがその汗の冷たさは感じてとれた。

(ともあれ、あいつの脚力は漫画だ。真っ向からやり合って勝てると思う方がおかしい。もしかしたら一撃の重さだけなら拳の死神が放つパンチよりも上かもしれない)

達真は頭の中でパズルを組み立てる。この試合に勝つための計算だ。

「美咲ちゃん負けちゃってリベンジの相手がいなくなっちゃって退屈だと思ったんだけど達真君と愛ちゃんとで我慢して上げるから楽しませてよね」

そして久遠が再び走り出す。達真がコートに戻ってくるのを待たずに自ら隣のコートへ向かった。徒歩、ダッシュ。そして縮地。

「!」

20メートルの距離を2秒で詰めた久遠は素早い前蹴りを放った。達真はそれを前に出ることで打点をずらし、両手同時にパンチを繰り出した。

「!」

咄嗟に久遠もまた両手を振るうことで達真の両手を払うが、払われた直後にまた達真は両手を同時に突き出す。

「……クワガタか」

ライルがつぶやいた。

パンチと同じ速度で何度も達真は両手を前に突き出す。それを久遠は毎回弾くのだが通常のパンチと違って両手同時というのが厄介だ。単純に手数が2倍と言う意味もあるがそれ以上に通常のパンチは一発ずつ最大の威力をぶつけるために半身を切る必要がある。故にタイミングが合えば手首をスナップさせる程度でずらすことも不可能ではない。しかし両手同時のパンチはどうかと言えば半身を切らすことが出来ないためパワーもスピードも通常より落ちているだろう。しかし手首のスナップだけで横にずらすことは出来なくなっている。

そしてついに達真の両拳が久遠の両肩に到達した。

「っ!」

(やはりそうか。天才的な制空圏の技術。そして理不尽なまでの脚力。これらをこの小柄が使うのは驚きを通り越して呆れるレベルだ。だが、その小柄がどこまでも弱点になる。つまりは力押しこそがこいつの弱点!)

一歩退いた久遠に続けて達真が再び両手同時の攻撃を繰り出す。対して久遠はまた同じように防御でこれに対処しなくてはならない。

(……美咲ちゃんとの戦いと一緒だ……!正面から力ずくで押し切られるのがまだまだ弱いんだ……!あの試合を達真君は見てないはずなのに……すごいな)

「でも!!」

「!」

達真は驚きのあまりつい手を止めてしまった。何故なら久遠が防御を捨てて達真の両手をそのまま両肩で受け止めたからだ。

これまで下手すれば一切ノータッチで勝負を決めたことすらあった防御重視の久遠が防御を捨てたのだ。そしてそこから来るとすれば……

「くっ!!」

「のっ!!」

久遠の右足が達真の帯を掴んでそのまま真上に投げ飛ばす。

「膝天秤か!」

「違うよ!!今ここで作る新技!その名も……」

落下してくる達真にあわせて久遠も跳躍し、サマーソルトキックの要領で達真の腹這いに蹴りを重ねていく。

「ぐっ……!!」

「燃焼系鳳凰ザキ!!」

久遠の体が一回転し、着地した頃には達真は久遠の背後遠くへと蹴り飛ばされていた。

「…………ぐっ!!」

首からコートに叩きつけられたことで達真は一瞬首が折れたものだと錯覚した。

(落下の勢いを真上へのドロップキック連打で倍増、そのままサマーソルトキックというかは巴投げの要領で投げるように蹴り飛ばす。……こんなプロレスでもない漫画技、対応できるわけがない……!!)

立ち上がる達真。しかし首と両膝へのダメージが予想以上だ。

「さあ、そろそろフィニッシュかな?」

久遠が構える。それは再びあの技がくる合図でもあった。

「虎徹絶刀征……!」

最初から縮地全開で一気に達真との距離を詰む久遠。そこから必殺の技を放った瞬間に。

「来るのが分かっていれば!」

「!?」

クロスカウンターのように達真が回し蹴りを放ち、久遠の顔面をひっぱたいた。久遠の右足は届かず、その小柄は宙を舞う。

「せっ!!」

久遠の小柄が床にたたきつけられると同時に達真は下段払いをとった。

「技あり!!」

主審からの宣言。沸く観客。それを一身に浴びながら久遠は立ち上がり、そして

「あれ……?」

そのまま仰向けに倒れた。

「縮地のスピードをそのまま逆利用された回し蹴りをカウンターで顔面に食らったんだ。その小さな体で立てる訳ないだろ」

「……そ、そんな……」

「そのまま寝とけ。もうお前は立てない」

「……美咲ちゃんだけじゃなくなっちゃったじゃんか……」

久遠は脱力。10秒後のゴングを待たずに勝負は終わった。

「勝者……青・矢尻!!」

再び観客全員がわき上がり、熱気が達真に注がれる。

「……久遠ちゃん、大丈夫?」

最首が歩み寄り、久遠を抱き上げる。

「うう、絶対勝てると思ったのに……」

「そんなの勝負の世界にあるか……くっ、」

久遠に毒突きながら歩み寄った達真が膝を折った。

「あんたもかなり限界じゃないの」

火咲が歩み寄る。

「……そりゃあんな漫画技いくつも食らって無事な訳ないだろうが」

「はいはい。決勝まで休んでなさい」

「……決勝……そうだな」

達真は一気に意識を朦朧とさせて倒れる……寸前で甲斐に受け止められた。

「廉君……」

「……悪い。頭冷やしてきた」

甲斐は達真を担ぎ上げ、久遠も小脇に抱える。

「わお、力持ちだね」

「拳の死神が腕力貧弱な訳ないだろ?」

そのままコートの外。先程まで赤羽が眠っていたところへと移動する。

と、赤羽は起きていた。

「ん、起きたか」

「あ、はい。お二人の試合も見てました」

「……赤羽も久遠もよくやった。準決勝で負けたがお前達は誇りだ。ありがとう」

「……甲斐さん……」

「もう、死神さんてば久遠ちゃん達にめろめろだね?」

「……そこまでは言ってない」

二人を赤羽の近くにおろすと、甲斐はモニターを見た。

決勝戦。衣笠愛VS矢尻達真は今から2時間後。昼食後に行われるようだった。

・正午。女子更衣室。ベスト4に選ばれた選手の内3人が女子という西武大会としては異例を極めた今回。しかしベスト4の内二人が準決勝で脱落し、午後にここを使うのはただ一人だけとなった。

「……」

衣笠は胴着姿で椅子に座っていた。食事は10秒チャージのみ。水分も確かに熱気はすごいが必要最低限の摂取に限る。

「……」

耳を澄ませば会場の外からは蝉の鳴き声が響いてくる。

既に決勝進出を決めた以上自分は来年の夏……早ければ今年の12月からはカルビ大会へと出場が可能となった。念願は既に叶っている。目的だけを考えれば決勝戦で全力を尽くす必要はない。しかし、そんなものはただの理屈だ。歴代で女子の優勝者は一人もいない。あの最首遙でさえも準決勝止まりだった。それを目指したい気持ちもあるがそれが第一でもない。

自分は準決勝で赤羽美咲という格下の相手に臆した部分があった。綺龍最破で粉砕できたはずの彼女は、しかしそれでも自分に襲いかかってきた。

理屈でも感覚でも彼女の復活はあり得ないと確信していたのにそれが覆された。もしも彼女が必殺の一撃を有していたのなら?あそこでただの回し蹴りではなく、綺龍最破クラスの切り札を使われていたら?

自分より遙か格下だからそれはあり得ない。しかし、格下相手にすらとっておきの切り札が通用しなかった事実は変わらない。

「……」

決勝の相手は矢尻達真。数々の優勝候補を撃破して決勝までやってきた男。その中にはこれまで自分が戦って勝てなかった相手もいる。今日のように息巻いて、しかし一回戦で負けた相手だっている。決して油断は出来ない相手だ。そして、今日打ち破らなければならない相手だ。

「……」

目を開けて時計を見る。いつしか決勝開始15分前まで時は経ていた。

「……行こう」

荷物をロッカーにしまってから衣笠は決勝の舞台へと臨んだ。

旧い夢を見ていた。愛した人と一緒にいてしかし自分が生きるために危うくその人を死なせてしまいかねない状況に陥った。

とても悲しかった。とても悔しかった。

空しさがくすぶり続ける中、自分一人だけで己を戒め続けそして鍛えてきた。

やがて彼女は帰ってきた。もう空虚を戦う理由にしてはいけない。彼女に勝利の笑顔を届けるために、もっと彼女にふさわしい己を見せるために自分はただ生き続ける理由を燃やすだけ。

「矢尻、そろそろだぞ」

「押忍」

軽い昼食を終えて一休みしていた達真を甲斐が起こす。

そこは男子更衣室だ。女子更衣室と違って今日ここを使うのは達真だけ。例年ではあり得ないが、今日に限って言えば最も集中できる静かな場所はこの男子更衣室ということになる。

「……先輩」

「何だ?トイレならすぐそこだぞ」

「違います。俺は勝てるでしょうか?」

「さあな。こっちゃお前の師匠じゃない。そりゃ何回か交流稽古しているがそれでもお前の底力がどこまでのものかを知っているのはお前だけだ。だからただ誰も知らないお前の限界をぶつけてくればいい。可能ならそれすら越えてくればいい。だが、何も今日あの舞台が全てじゃない。無理はしても無茶なことはするな。無茶しでかしても無理はするな。いいな?」

「……最後の方よく分からない理屈でしたが、何となく分かりました」

「……それと、過去に囚われるな。誇れるように前を向け。いいな?」

「押忍」

「じゃ、行くぞ」

荷物をしまい、達真と甲斐が男子更衣室を後にする。と、

「あ、」

ちょうど女子更衣室から衣笠が出てくるところに鉢合った。

「……」

「……」

達真と衣笠は視線を交差し、そしてそのまま会場へと向かっていく。

甲斐はそれを声の出ないように小さく笑ってから少し遅れて追いかけようとしたが、

「ん?」

ポケットの中のスマホがバイブした。

「では、これより決勝戦を開始する!」

中央コート。これまでと違って大倉道場師範である加藤が直接主審を、そして大倉と伏見、そして岩村の3人が判定を務める。

「……」

達真は主賓席を見る。先程まで大倉達各機関の長が座っていたそこにはライルと杏奈のみが残っていた。そしてライルと視線を交差させる。

一方、衣笠は客席の中から一瞬で赤羽、久遠、最首の顔を見つけた。

涼しい表情の赤羽、楽観的な表情の久遠、より一層真剣な表情の最首。

衣笠と最首の視線が交差したのはわずか一瞬。直後には正面の達真と向き合う。

ヘッドギアを装着し、帯とサポーターの具合をしっかりと確かめてからコート中央に立つ。

「赤・衣笠!青・矢尻!!」

「「押忍!!」」

己を呼ぶ声に応対する。

「正面に礼!お互いに礼!!構えて……始めっ!!」

最後のゴングが響いた。同時に距離を詰める両者。

速度はわずかに達真が上。その勢いを捨てぬまま衣笠向けて飛び蹴りを放つ。対する衣笠もコンマミリ秒遅れてから飛び蹴りを放ち、両者の右足が空中で激突を果たす。体重と脚力の大きい方が打ち勝つ最初の勝負。結果としては衣笠がやや後ろに押し戻された。直後に衣笠は最強技の構えに出た。

(もう綺龍最破を!?)

着地した達真。その瞬間に衣笠の最速の一撃が迫る。

警戒した達真は打点を予測して制空圏を固め、最大限の防御を構える。

一方で衣笠もまた制空圏を見ることで可能な限り達真の動きを予測し、最も防御の薄い場所を相手の反応できない速度で貫く。

「せっ!!」

「っ!!」

衣笠の右拳は達真の左わき腹に命中した。拳の多くは達真に当たっていなかった。しかし、曲げた親指の関節が確かに威力を伝えていた。

(これが最適……)

衣笠は確信する。が、

「うぁっ!!」

「!」

達真は怯まずその場で飛び蹴りを繰り出し、衣笠の胸を抉る。

チェストガードにより威力は大きく減衰したがそれでも十分な痛みが衣笠の胸部を貫いた。

(……油断した。相手はカウンターファイターだ。準決勝も相手は敵の攻撃に自分の攻撃を合わせる事が得意なんだ……!)

一歩退いた衣笠。それにやや遅れて達真が前進して次の技を繰り出した。それは左の手刀だ。手刀とは確かに空手の技だが使用頻度はかなり低い。よく言われる瓦割りも含めて手刀を使った多くの技はパフォーマンスに過ぎない。しかし断じて使えない技ではない。パンチと違って直線的ではないためあまり威力は乗らないがその分防御も回避も難しい。

「……クイックスタッフか」

「?ライル、今何か言いました?」

「いえ、何でも」

杏奈は疑問のまま。ライルは達真の動きを追っていた。

その視線の先で達真の手刀は確かに衣笠の右上腕に命中し、しかし大きく吹っ飛んだのは達真の方だった。

「!?」

一番驚いたのは衣笠だ。攻撃的な防御を仕掛けたわけでもないのに攻撃した方が大きく移動すると言うのは本来あり得ない。だが、実際に達真は大きく側面側に吹っ飛び、

「っ!!」

衣笠が正面に達真を捉えるように体の向きを変えると同時、その右足に素早く重い一撃が迫った。

(嫌な相手だ……。決してメジャーとは言えない。しかし空手としては正道に当たる効果的な動きばかりをする。それに、受けてみて初めてわかったけど相手は、右利きの構えしてるのに左利きだ……!)

衣笠は痛みに耐えながら呼吸と構えを整える。対して達真は左手を手刀にしたまま軽快なステップをとった。これまでカウンタースタイルが多かった達真にしては珍しい切り替え(スイッチ)だった。

(……奇襲なら畳みかけるべきだ)

達真は動く。放つのは相手の右肩を狙った左の手刀。

その動きを視覚の埒外で捉えながら衣笠は右手でパンチを繰り出す。

(確かに手刀は防ぎにくいしかわしにくい。でも、狙っている場所はわかりやすい)

(だから腕を伸ばして打点をずらす算段か……!)

達真の手刀は衣笠の右肘辺りに命中し、衣笠の右拳が命中する寸前に達真の体が弾かれたように高速で離れていく。そして空振りに終わった衣笠の右腕……その手首辺りに逆手刀を打ち込む。

「くっ、」

通常の手刀が小指側を使うため掌を上に向けるのに対して、逆手刀はその逆。親指側……と言うより人差し指の側面を当てるため掌は下に向ける。

そこに違いがあるのかと言われればもちろん違いはある。

通常の手刀が肘関節に負担が掛かるように繰り出してしまう代わりに威力が乗る。対して逆手刀は肘に負担が掛からないように使われる。威力はそんなに乗らず人体構造上、通常の手刀に比べて射程は狭いが安定した威力で連射が可能だ。そして通常の手刀で直接打った相手の右肩を、今度はパンチを横にずらす事で間接的にダメージを与えている。その上で相手の右腕を無意味な内側へと曲げたのだ。つまり、

「せっ!!」

相手の右腰に素早い回し蹴りを打ち込む。逆手刀で無理矢理ずらされた右腕ではこれに対応できない。

衣笠としては正直カウンターを得意としているという達真の戦い方は不安定なギャンブラーのようだと感じていた。だが結果は正逆。一秒一秒相手の一挙手一投足を見て最善を判断して動くとても現実的な人物だった。

対する達真の方もこれまでの優勝候補との戦いと比べれば楽に済むだろうと思っていたが過小評価していたと反省せざるを得ない。クワガタ程度でも多少の攻撃になった久遠とは比べものにならないほど相手はタフだ。何せ本来ならこのスイッチヒットは最後まで出すつもりがなかった。これまで通り正面からの勝負で通用すると予想していたのだが綺龍最破の威力に素早くスイッチする事を決意した。

(このまま相手の右手足を潰さないといけない)

(私の綺龍最破はなるだけ正面から……。でも出し惜しみは出来ない……!)

先に動いたのは衣笠だ。まるで右腕をかばうように左腕だけでの攻撃を開始する。普通なら右腕を庇っているのだろうと見るだろう。実際赤羽や久遠はそう見ていた。だが、達真はフェイントだと思った。衣笠の右腕に注意しながら左腕からの攻撃を防御。再び右腕に向かって逆手刀を繰り出す。

「っ!」

威力はそこまで高くはない。だが、高速で連続で繰り出される攻撃に庇った振りに過ぎなかった右腕を本気で庇いたくなる。

(けど、目的は果たしている)

「!」

達真の左逆手刀が衣笠の右上腕をひっぱたいた瞬間に衣笠の右下段が達真の左足にねじ込まれた。

手刀は射程が短いため前足を軸足とする。その軸足を大きく揺るがす一撃は衣笠が経験から用意した一撃だ。言ってみればこれもまた綺龍最破の一種と言っていいだろう。

(……必殺の威力はないから認めたくはないけど)

とは言え、軸足を大きく打たれた達真はバランスを大きく崩し、体勢を立て直すのに時間が掛かる。そしてつい転倒してしまいかけた瞬間、

「時間です!」

本戦終了のゴングが響いた。

「……ふう、」

ギリギリで持ちこたえた達真。緊張のまま判定を見れば引き分けだった。つまり、延長戦が開始される。

呼吸を整えて次のゴングを待っていると、

「達真!」

「!?」

思わぬ声に振り返った。客席を見れば赤羽と火咲に支えられながら陽翼が自分を応援していた。

「陽翼……!?」

驚く達真。その視線の中で甲斐が親指を上げた。

先程甲斐に誰かから連絡があったようだがどうやら陽翼の来客だったらしい。

「……」

インターバルとは言え戦意を全く途絶えさせた達真を衣笠は見た。そしてその視線の先の病衣姿の少女の姿も。

(……彼女?決勝の舞台なのにそんな……ううん。これは嫉妬だ。友達も家族もみんないらない、私には空手だけあればいいとそんな言い訳を立てた私の下らない嫉妬。帰りを待っている誰かの存在が人を強くするなんて遠い昔に私にも感じていたじゃない。それに私にだって……)

衣笠は再び視線を最首の方へとやった。最首は最初から衣笠だけを見ていた。小学校時代から一緒だった幼なじみ。しかし実力では大きく差が付いてしまったライバル。また隣でそして正面から戦い合うために。

「……」

衣笠と達真は呼吸を整えて再び戦意の引き金を引く。

「これより延長戦を開始する!」

加藤の声に両者が拳を握る。

「構えて……始めっ!!」

ゴングが鳴る。両者が前に出る。最初に攻めたのは衣笠だ。達真の顔面めがけての飛び蹴り。対して達真は斜め前へのステップでこれを回避しつつ距離を縮める。手刀はないがやっていることは同じ素早く相手の側面に回り込むこと。だからその動きは衣笠にも読めた。

(右足で蹴ればそれを利用して右側に回り込んでくるんでしょ?)

(……これは……!!)

空中で衣笠が体勢を変えた。左側に体を倒し、カウンターで達真が放った回し蹴りが右肩の上数ミリをすり抜けていく。そして空中で両足裏を達真に向ける形となった衣笠は膝を曲げて溜めた状態だった左足を解き放つ。

「っ!!」

完全に無防備だった達真の腹部に衣笠の左足が突き刺さり、その体を後方へと押し倒す。

「せっ!!」

着地と同時に180度回転しながら衣笠は下段払いをとった。

目に入ってきた景色では少し離れたところで達真が腹部を押さえて倒れていた。

「技あり!!」

加藤の宣言に会場全体が熱く揺れる。

「変化球……しかしアドリブじゃないな」

甲斐が冷静につぶやく。

「うん。完全に前もって予想してたと思う」

最首が答える。

「あれもまた綺龍最破と言っていいのかもしれないな」

「綺龍最破って私を倒したあの技ですか?」

赤羽が問う。

「そうだ。黒帯の先の段位に上がるために必要な型の1つだ。一切の予想外なく自分が戦ってきた経験すべてを完璧に自分のものにした奴だけが身につける奥義と言っていい。制空圏の先にある概念であり奥義」

「制空圏の先……」

久遠が表情を変える。

「ある程度極まった奴には、たとえ初めて戦う相手との試合だろうとある程度戦いの道筋というのは戦う前か戦っている最中にはもう頭の中で組み上がっている。その時点で頭の中で決着が付くんだ。それで自分が負けるとわかった場合、当然逆転の一手を考える。野球じゃないんだ。さよなら満塁ホームランなんてロマンは考えない。なら逆転の一手とは自分が劣勢になるより前に打たなければならない。自分自身の戦い方はもちろんこれまで戦ってきた相手の中から最も今自分と戦ってる相手に近い相手を思いだし、それを使って脳内シミュレーションし、何が最善の一手かを判断。相手の意表を突き、確実に一撃で相手の地盤を打ち砕く。

まぐれで逆転をすることもあるだろうがこいつは違う。綺龍最破は戦いの中で己を知り尽くした奴だけが使える必然の一撃だ。万に一つも抜かりはない」

「……じゃあ矢尻さんは……」

「ああ。奴自身の限界を超えない限り立ってくることはないだろう。これが矢尻の越えるべき壁だ」

甲斐は厳しい表情で倒れたままの達真を見た。先程赤羽に解説したように衣笠愛が綺龍最破と認めた技ならば起きあがってくる可能性は万に一つもないだろう。

(……これはまずいな)

達真はまるで銃に撃たれたように仰向けに倒れまま動けずにいる。

(……痛みを通り越して意識が遠ざかっている。まるで毒キノコを食べた時みたいだ)

手足の感覚が鈍り、打点にだけ意識が逃げていく。耳にはたくさんの声が聞こえているが、脳内で反響しているのは己の逃げの声だけ。

(……陽翼、やっとまた試合を見せられるというのに……)

視界には虚ろで逆さまの陽翼の姿がある。

(……こんなんじゃ蒼穹さんにも怒られる。俺のすべてを受け止めてくれた人……。陽翼を失ったと思っていた俺に生きる希望をくれた人……)

「……!?」

衣笠が表情を変えた。続くカウントダウンの中、達真がゆっくりと立ち上がった。

(蒼穹さんを失い、また俺のところに戻ってくれた陽翼が俺を見ている。あの頃とは違う俺を、あの頃よりかも強くなった俺を……陽翼も蒼穹さんも俺自身もまだ知らない俺を……ここで見せなくてどうするんだ!!)

「た、立ちやがった……!!」

驚く甲斐。同時に沸き上がる歓声。

「やっちゃえ!!達真!!」

混じる陽翼の声を聞いた達真はまっすぐに衣笠を見た。

「蒼穹さんが許してくれた、陽翼が支えてくれた、最上に憧れた、俺が俺を越えなきゃいけないんだ……!!」

構えた達真。血の気の引いた顔、しかし既に闘志は満ち足りている。

「……それでこそ……!!」

衣笠が構える。

「続行!!」

加藤の宣言により、走る達真。先程まで倒れていたにも関わらずその速度は今まで以上。衣笠の埒外の速度だった。

「!?」

「せっ!!」

衣笠が反応した瞬間にその胸に飛び蹴りを打ち込み、彼女を大きく吹っ飛ばす。

「くっ、」

倒れるのを寸前でとどまった衣笠に達真が迫る。先程のダメージ故かやや低い姿勢であるが故に衣笠の膝を踏みつけるように蹴り込み、その威力で達真が飛び上がる。

「せっ!!」

2段階の跳び蹴りが衣笠の右肩を強く貫き、肩関節も鎖骨も一気に引きちぎる。

「うううっ!!」

「せっ!!」

着地と同時に右足に全体重をかけた下段を叩き込む。バランスを崩していた衣笠が転がるように宙を舞い、達真の背後に倒れる。

「う、ううう……!」

右半身を庇いながら立ち上がった衣笠の腹を踏みつけるばかりの達真の左足。腹に穴が開いたんじゃないかという衝撃。それは先程と鏡写しのよう。

「…………」

仰向けに倒れた衣笠はやはり視線の先に逆さまの最首と赤羽の姿を見た。

(……わたしだって)

「私だって負けない!!」

カウントダウンを待たずに立ち上がった衣笠が迫り来る達真を正面から打って出る。互いに最適化された蹴りがボクシングのパンチがごとく高速で応酬を開始する。一撃でもまともに受ければ致命傷。二度と立ち上がっては来れないだろう攻撃を互いにギリギリで受けては最速で蹴り返す。

胴着は腹周りを中心に破け、帯は解け互いの足下にほどけ落ちる。しかし両者一歩も退かず一秒たりとも止まらない。

互いに限界を超え、綺龍最破どころか技ですらない力と力、意地と意地のぶつかり合い。いつ果てるともしれない両者の死闘はしかし永遠とは続かなかった。

「これで!!」

衣笠が最後の最後、情熱よりも理性を取り戻し限界まで集中して放つ前蹴り。綺龍最破とまでは行かないものの理性の一撃だ。しかしそれは届かなかった。

「!?」

見れば足下に落ちた帯が足に絡んでいた。

「そ……」

「せぇぇぇぇいやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!!」」

直後、達真の蹴りが衣笠の鳩尾にぶち込まれた。

チェストガードを粉砕し、胴着の上を吹っ飛ばし、衣笠の全力を打ち砕いた威力が衣笠を吹っ飛ばす。

「…………う、」

「せっ!!」

達真が下段払い。同時に延長戦終了のゴングが鳴り響いた。

「……これは難しいな」

甲斐がつぶやく。

「どう言うこと?」

「判定だよ。どっちが勝ってもおかしくない。故に引き分けになると思うんだが、もう二人とも体力が限界をとっくに超えてる。再延長戦はどのみちないんじゃないか?」

「……でも、愛ちゃん楽しそうだよ」

「……そうだな」

二人の視線の先。衣笠は立ち上がった。熾烈を極めた戦いの果てとは思えない満ち足りた、しかし貪欲な猛獣のような笑顔。それに返す達真の顔もまた同じような表情だった。そして加藤が再び判定を下す。

「判定は……引き分け!!よって再延長戦を開始する!!構えて……はじめっ!!」

最後のゴングが轟く。既に上半身はインター姿の両者がコート中央で最後の激突を果たす。既に足は限界を超えて感覚がほとんどない。ならば残るは両腕での殴り合いのみ。もうここに至っては駆け引きなど何もない。ただただ自分のすべてを出し尽くし相手のすべてを押しつぶすだけの真っ向勝負。

「このっ!!このっ!!!!ごのおおおおぉぉぉぉぉっ!!!!!」

「うおおおおおおおおおおおああああああああああああ!!!!!」

熱気と魂のすべてを拳に乗せた殴り合いは二人だけの永遠を終え、ついにその時を迎えた。

「…………よくやった」

甲斐がつぶやいた。その視線の先。立ち尽くす達真の前で衣笠が膝を折った。そして、達真は仰向けに倒れた。

「これは……」

緊張に静まる熱気の中、衣笠が握った拳を地に打ち付けその衝撃で立ち上がる。直立できずに揺れ動く中、足に絡んだ帯が今度は彼女の動きを止めた。そして、

「せっ!!!」

衣笠愛の下段払いが決まった時、再び会場は熱気の渦を巻き起こした。

「そこまで!!勝者・赤!!よって今大会優勝は衣笠愛!!!!!」

加藤の叫びが会場全体に響く。今、長い歴史の中初めて女子の優勝者がここに誕生したのだ。

「…………負けたか」

熱気の中、達真が目を開けた。視界の中に入ってきたのは誰かの手。

「……ありがとう」

衣笠愛だった。

「……こちらこそ」

その手を取って達真が立ち上がる。二人とも全身激痛に襲われ、しかしアドレナリンのおかげか笑顔のまま大倉からトロフィーを戴くのだった。

「……達真」

表彰を終えて戻ってきた達真を迎えたのは陽翼だった。

「悪い、陽翼。負けた」

「でも満足でしょ?」

「いや、もっともっと強くなりたい。そう思ったよ」

「……うん。それでこそ僕の達真だよ?」

陽翼は病衣のまま達真を優しく抱きしめた。

「……優しい子ね」

少し離れたところ。衣笠と最首が並んでいた。

「うん。矢尻君が選んで、そして選んだ子だから」

「……遙、」

「何?」

「ごめんね。ずっと待たせちゃって」

「……私、すごくうれしいんだ。で、ちょっと悔しい」

「どうして?」

「矢尻君じゃなくて私だったらよかったって」

「……いいじゃん。遙との思い出はカルビで!ううん、その先で!」

「全国だね」

「そう。だから遙、私以外の誰かに負けないでよ!」

「愛ちゃんこそ、愛ちゃんを倒すのはこの私なんだから……!」

衣笠と最首。拳と拳を合わせ、そしてかつてのように無邪気に笑いあうのだった。

「以上が今回の試合結果となります」

甲斐機関・本社会議室。和佐がモニターの電源を切る。同時に杏奈がフロア内の照明をつけた。

「……いいものだな。若い子達が全力でぶつかり合い、そして認め合う。これぞ青春だ」

甲斐機関社長・甲斐修治は笑みを浮かべながら小さく手をたたく。

合わせて手をたたいたのは杏奈だけ。和佐とライルは冷ややかなままだ。

「さて、ライル。今回の試合、もし廉があの足のまま行った場合の負傷予想はどうなっている?」

「はい。相手をご子息と互角の相手……たとえば今年1月に行われた全国大会における準決勝で戦った馬場早龍寺と想定した場合、次は確実に右足を失うでしょう」

「ふむ。そもそも大倉の技術がなければ1月の時点で息子は右足を失っていた。……そして対戦相手である馬場君も意識不明の植物人間となってしまっていた」

修治は腕を組み、目を閉じる。そして、

「では、君の言うとおりにしよう。息子には元気でいてほしいからな」

修治が和佐でも杏奈でもライルでもない者に視線を向けた。

「では……?」

「ああ。君の願い通り、来年1月……廉の右足を完治する前に3つの機関から空手道場を廃止しよう。赤羽さん」

修治の視線の先、赤羽美咲が小さく頭を下げた。