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南方特別留学生サイド・オマールさんを知っていますか?ーー京都に眠るマレーシアの少年の被爆体験

なぜサイド・オマールさんは日本へ?

みなさん、南方特別留学生という存在を知っていますか?
日本が世界を相手に太平洋戦争をしていた1943年から1944年に、マレーシアやフィリピンなどの国の王族や実力者の子どもたちを人質として連れてきて、日本の言うことを聞く国にするための制度です。
その中に、マレーシアの王族の子どもであるサイド・オマールさんがいました。
オマールさんは、日本語の勉強をした後、広島大学に入りました。日本語がとても良く出来たという話も残っているそうです。

オマールさんが書いた自筆の手紙が残っています。

日本語の先生に宛てたサイド・オマールさんの手紙
「その後お姉様にはお変りはありませんか。私は相変ず元気で愉快に勉強して居りますから御安心下さい。(中略)此の間日本の学生達と一っしょに廣島の郊外にある「ひのやま」の登山を致しました。空は晴れて暖い春の太陽が明るく輝いて居て、大変素晴らしい天気でした。(中略)マライの故郷の事を思ひ出して非常に懐しく感じました。山の頂上で日本の学生達と自分の故郷の歌を歌ったり話をしたりして随分愉快に遊びました。」

昭和19年3月30日 サイド・オマールさん自筆

1945年8月6日、広島に原爆投下されたその時に

1945年8月6日、広島大学の興南寮という所で、オマールさんもまた原爆の被害を受けることになります。
偶然ですが顔には原爆の熱線を受けず、胸から下に熱線を受けたようです。そのため、原爆投下の後しばらく、オマールさんは仲間とともに日本人の救助に当たっています。
1945年8月、広島と長崎への原爆投下のあと太平洋戦争が終わり、GHQから帰国命令が出て東京に集合させられますが、その途中の京都で原爆症の症状がひどくなり、祖国へ出発する直前に京大病院に緊急入院しました。
当時の日本では原爆症自体が明らかになっていない状況でした。
治療方法も薬もないため、担当の濱島義博医師は自分の血を抜いて輸血を試みるなど懸命に彼の命を助けようとしました。
残念なことにその懸命な治療の甲斐もなく、9月3日にオマールさんは亡くなりました。
戦後の1957年、妹さんが兄であるオマールさんを探しに日本に来ます。
その時、オマールさんは無縁仏として京都の将軍塚の近くに葬られていたのを、京都の園部さんという人が気の毒に思い左京区の圓光寺というお寺にイスラム教のお墓を作り、埋葬することになりました。
オマールさんは太平洋戦争の中で日本政府によって人質にとられるようにして来日し、そんな中でも懸命に生きようとしていた矢先、原爆によって命を落としました。

罪もない人々を犠牲にする戦争と核兵器に反対の声をあげよう

戦争がなければ、原爆がなければ、オマールさんは19歳という若さで亡くなることはなかったはずです。
みなさん、戦争と核兵器は、罪もない人々を犠牲にします。
絶対に起こしてはいけないものです。
核兵器禁止を一人一人が叫びましょう。いつまでも。

記事担当:Y・Kさん

中国新聞でも2023年に記事を掲載されました。

2023年、サイド・オマールさんと、同じく原爆で被爆した留学生たちも一緒に広島の原爆死没者名簿へ名前が載ることになったということです。原爆被爆国の日本は戦後78年の月日が経っても原爆の被害は”とっくの昔の終わったこと”ではないのです。

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