わたしスケッチ

 汚い空、汚い街、そして汚い部屋。いつもママはいないし、帰ってきても遊んでくれたことはない。私は学校から帰ってくると宿題を済ませてからテレビを見たり、ママや知らない男の人が持ってくる漫画を読んだりしていた。ママや男の人の前で宿題をやると「将来勉強して偉くなってどうするつもりだ」と冷やかされるのでなるべくみつからないように済ませていた。


 そのうち私は絵を描くことを覚えた。最初は漫画の真似だったり好きな芸能人の似顔絵だったりしたが、そのうちだんだんいろいろなことを紙の上に表現することが好きになってきた。汚いものばかり見てきたせいか、きれいなものを表現したかった。私はママの洋服の色や男の人と家でしていることが好きではなかった。むしろ汚いといつも思っていた。だから私も汚い子で、学校ではあんまり目立ってはいけない子だとずっと思っていた。

「何描いてるんだ、え?」
 ある日私が絵を描いていると、男の人が上から覗き込んできた。
「絵に決まってるでしょーよ、アンタ」
 ママは煙草に火を付けながら答えていた。
「おい見せろよ、ほら」
 私は男の人が覗いてきたときから咄嗟に身体で絵を隠していた。
「アンタに見せてくれるわけないでしょ、アタシにだって見せてくれないんだから」
「んだよ、勿体ぶりやがって」
 男の人は私を殴った。ママはケラケラ笑っていた。私はいつものことなので頭と絵をかばいながら殴られるのが終わるのを待っていた。
「少しはハンノーしろよ、かわいくねぇな」
 男の人はママのいる隣の部屋に言って、扉を閉めた。
 やっぱりこの部屋は汚い。早くきれいにしないと、息が出来なくなってしまう。

 それから何日か経って私が家に帰ると、違う男の人が来ていた。ママは「見せしめ」がどうのこうのでもう来ないらしいということを言っていた。違う男の人は今までの男の人と違って優しかった。私にはお菓子を買ってくれるし、ママを泣かせることもない。

「何を描いているんだ?」
 ある日私が絵を描いていると、新しい男の人が上から覗き込んできた。
「その子、あんまり構わないほうがいいよ」
 少しきれいになった部屋でママが笑った。
「いいから見せてごらんよ……あ」
 隠したけれども、間に合わなかった。私の絵は取り上げられて、ママにも見られてしまった。
「パパと、ママと、わたし……だって」
「パパ、ねぇ」
 私は恥ずかしくて真っ赤になっていた。この男の人が新しいパパだったらいいな、と思っていただけなのに。
「やっぱり俺、真面目に働くからさ」
「だからアタシはそういうの苦手だからさ」
「でも……」
 またママと男の人は隣の部屋へ行って扉を閉めてしまった。
 大変なものを見られてしまった。また嫌われてしまったらどうしよう。

 だけどそれから、ママとその男の人は「セキ」を入れて、私の名前も変わることになった。新しいパパが本当にできた。新しいパパは優しいし、ママも前みたいにお酒ばっかり飲んだりしないし、周りの友達の家みたいな家族になった。私のことを「汚い」というクラスメイトもいなくなった。一緒に遊ぶ友達も増えて、私はとてもうれしかった。少しずつ、きれいな世界が増えてきた。

 新しい絵の具を買ってもらって、私はたくさん絵を描いた。絵を描けば描くほど幸せになった。ママの絵を描けばママは喜んでどんどん美人になるし、パパも新しく始めた仕事でうまくいっているようだ。私は図工の時間に描いた絵で賞をもらって、みんなに褒められた。汚いアパートからきれいな家に引っ越しもできた。その頃から、あまり昔のことは思い出さないようになってきた。

 中学に入って、初めて好きな男の子ができた。席で隣になったのがきっかけで、顔を見て話すのがとても恥ずかしかった。クラスが替わるとき、思い切って手紙を書いた。その下にいつも一緒にいられるといいなと思って、私と男の子の絵を描いた。こんなことをすると重いと思われるかなと思ったけれども、男の子はいいよと言ってくれた。はじめて「彼氏」という存在が出来た。

 それからの毎日は、本当に楽しかった。勉強や運動はそれほどできたほうではなかったが、私は絵が上手というポジションでたくさんの友達ができた。放課後は友達と一緒に遊んだり、休日は彼氏と一緒に出掛けたりした。受験もめでたく彼氏と同じ高校に行くことが決まり。中学を卒業する時も寄せ書きに「みんな大好き」とそれぞれの似顔絵を描いて渡した。本当に最高のクラスだった。

 高校に入ってから、私は勉強が忙しくなりあまり絵を描かなくなっていった。さらに充実した学校生活ではあったけれども、絵を描かなくなるにつれて私と彼氏の間は遠ざかって行った。大学受験を控えたときに、「絵を描くお前が好きだったのかも」と言われ、友達の関係に戻ることにした。家は家で私の進学先で両親は喧嘩をしていた。最高の生活に、少しヒビが入ったようだった。

 志望校へ行く気合を入れるために、私は机の前に必勝祈願と、キャンパスライフを送っている自分のイメージイラストを描いた。これで張り切って勉強しようと心に誓い、勉強して勉強した。もともと頭はよくないけれども、努力をすればなんとかなる。翌年の春、見事に私は志望校に合格した。喜ぶ両親と一緒に、私は一人暮らしをするために部屋を片づけ始めた。

 中学校の寄せ書き、小学校の賞をもらった絵、そして初めてパパに渡した絵が出てきた。
「そういえばあの時、絵を見せたからパパになってくれたんだっけ」
 懐かしく思いながら私は昔の私の絵を整理していった。
「あれ、これなんだっけ?」
 それは昔、ママがパパと結婚する前の暗いころの私の落書き帳だった。ぱらぱらめくっているうちに、おぼろげな記憶をたどった。

 「見せしめ」がどうたらこうたら、という意味も今ならわかる。

 私の落書き帳には、あの男の人がひどい目に合っている絵ばかりが描いてあった。どこかから血が出ていたり、腕や足がなかったり、ひどいものは首を切断されていたりしていた。あの汚い部屋にいた頃の記憶が次第に鮮明に蘇ってきた。

「だからあの人は……」

 私はパパに渡した絵、寄せ書き、そして「必勝祈願」の張り紙を見た。
「私の人生は、私の人生は……」

 それから、私には描くことしかできなくなった。
 私の人生を、私がずっと描きつづけるより他にないのだから。


≪この話は過去に「小説家になろう」に投稿したものです≫

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