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関わるだけ傷つけてくる人と生きるには【劇評】モダンスイマーズ『悲しみよ、消えないでくれ』

2018.06.13 モダンスイマーズ『悲しみよ、消えないでくれ』@東京芸術劇場シアターイースト、マチネ

蓬莱竜太の「句読点三部作」第2弾、再演。

死んだ妻の父親が経営する山小屋に、2年間居候を続ける男。命日の夜、かつての山岳部仲間や山屋が集まって、奇妙な罵りあいが始まる。

おまえ、本当にカズハのことを愛していたのか?
もう本当のことを言いなよ。なんで彼女が独りで山を降りたのかーー。

不器用ながら愛の自明をひたむきに支えようとする義父役を、でんでん。底を見せない不穏な男、忠男役を古山憲太郎。山岳部メンバーには不妊症カップル、物質主義を否定して嫁に逃げられた厭世主義者、山屋にはとあるドメスティックな悩みを抱える若夫婦、そしてまだ「下の世界」を知らない、亡き妻の妹。

閉ざされた小屋の一夜。当たり前だったそれぞれの「愛」が、連鎖的にほころび始める。

コの字シート、センター最前列という緊迫の席から観劇。

鼻から糸を引きながら、ある名曲をフルコーラス独唱するでんでん、弁明すればするほど、謝罪すればするほど誰もをイヤな気持ちにへし折っていく古山憲太郎がみごと。悲しみの裏手にくすぐりがあり、笑わされながら哀切と慟哭が畳みかける。

ストーリー進行につれ人でなし具合が露呈する主人公へのいらだちは、本人の「悪意も人を傷つける感触すらも理解しない、凝り固まった自己愛」の暴露によって、とほうもないやるせなさに変わっていく。

おまえは悪だ、と断罪しようにも、当の主人公にはまるで自覚も反省もない。責められることに慣れすぎているから、身についた土下座や謝辞こそ重ねるものの、実感も反省もそこには絶無と思わせてくる。

「なんで俺ばっか責められるんだ?」と被害者意識にかたくなな主人公を見つめるたびに、「他人を愛せない人間にどれだけ断罪を迫っても、まったく状況を変えられない徒労感と絶望感」「関わったり、支えようとするほど周りが傷付くだけの人って、いるんだ」という虚無感が、ぼろぼろ堆積してしまう。

イヤな気分。なのに、どうしても、目が離せない。それが「透き通った悪」の吸引力というものかもしれない。

アンサンブルからの憎悪と、客席の憎悪はやがてシンクロする。劇中会話についつい合いの手の声を掛けてしまう観客もちらほら出てきてしまったほどそれは、クローズドで、目の前の知り合いの出来事のようで、あなたのことのようで、沁みて、凍った。

関わるだけ傷つけてくる人は、いる。
それでも関わってしまう人もまた、たくさんいる。
なぜなら愛を信じたいからだ。

おおかたの場合はそれで、うまくいく。
うまくいく人とだけお付き合いできるから、なんとか生きていけている、ってことでもある。

結果論かもしれないけれど、わたしたちはそうやって、可能な愛を紡ぎあげて、生きている。

これは空想の誰かの話じゃない。
きっとわたしやあなたにとっての現実のひとつ、なんだと思う。

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