「蟹味噌を焼かないと死ぬ」病
あれからどれだけの夜を越しただろうか。村を焼かれ、森へと追われ、なぜを問う暇も許されぬまま、子どもの頃からそこだけには立ち入るなと厳命されてきた密林の奥に飛び込んだ。
悲鳴を背に走り抜いたモリタは、ぽかりと空いた巨木のウロに身をひそめ、ただひたすらに数日を過ごした。飢えはもう大した問題ではなかった。つらいのは、乾きだった。このまま喉を張り付かせておれは死ぬ。光はもうさほどモリタの目に刺激をくれなかった。ただ、湿り、乾きを繰り返す、肌の温度だけが昼と夜の区別をおぼろに与えるだけだった。そのような昼夜を繰り返して幾日か。それは夜明けのことだった。
発作が起きた。
「蟹味噌を焼かないと死ぬ」病が、衰弱しきったモリタの肉体に発現した。救援を待ちのぞむ一縷の望みなど、自らとうに潰していた。家族も友も、目の前で千切れるさまを目撃した。叫びも懇願も届かない。蟹味噌などは、ここにはない。
そう、かつての「あの店」以外には。
薄れゆく意識のなかモリタは、とある焼きもの屋を思い出した。それはまだこの地が「地上の楽園」と呼ばれていた時代のこと。威勢のよいバラック仕込みのその店だけは、24時間いつであれ、島に寄り添い地道に生き抜いてきた村人たちに、生命のめぐみを感謝させあう、笑顔を与えてくれていた。店にかかる看板が波を模していたのも頼もしかった。文字の読めぬモリタにとって、その看板の波の形はビーチの守り神であり誇りだった。
ーーけれど。
モリタの顔はそこで曇る。
楽園と呼ばれたそのビーチにはある日、黒づくめの軍隊が押し寄せた。ばたばたと踏み荒らされ、猛烈な勢いで組まれていくベースのむこうの海と空だけは、あの頃と何も変わらないのが胸にこたえた。
変わり果てていくビーチ。何も変わらない空と海。「なぜ」と問いながら消されていった住民たち。モリタは思わず、小さな拳を震わせた。
しかしあのバラック。あの焼きもの屋だけは今日も変わらず24時間の明かりを灯らせているのではないだろうか。……いや、そうなのである。おれの中ではそうである。そうであって、欲しいのだ……。
「蟹味噌を焼く」。
たったひとつのその望みが、衰弱しきったモリタの身体に光を与えた。きしむ身体をひねりながら、数日ぶりに巨木のウロを這いだした。道ばたでは両手で掬った汚泥をすすり、猛獣と激戦の罠残る密林の奥から、のたうつようにただただ進んだ。
かつての仲間であろう無惨なむくろの脇をかすめたときなどは、むくろの腰袋から豆を奪い、むさぼるように口を汚して、進んだ。女だろうか。子どもだったろうか。もうその顔を見たいという思いなどは残らなかった。……蟹味噌。蟹味噌だけが救うのだ。
モリタを突き動かすものは、もはや病の見せた幻という言葉だけでは説明がつかなかった。ただそれだけの純粋な、熱。言いかえるのならばその熱は、原初の信仰そのものだった。
モリタの顔はもう何に怯えることも、笑うこともなかった。ひたすら藪をかき分ける時間を重ねていった。
突然、波の音がモリタの耳に飛び込んできた。
休むと死ぬ、と一度も立ち止まることなく進んだ藪漕ぎの果てだった。身体はとっくに限界を超えていた。それでもモリタは波の音をしっかりと聴いた。
ビーチ。楽園のビーチはすぐそこだ。
モリタは駆け出す気持ちをなんとか抑えた。遮る樹木も藪も尽きていた。ベースにとどまる軍隊からは、造作もなく見つけられ標的となるだろうことも明らかだった。
それでもモリタはビーチに進んだ。
ドロドロだった。汚濁と隣人の血液にまみれた、それでも骨格だけはつましい村人らしき肉体をさらけだし、砂を踏み、陽射しに照らされ、数年ぶりに見つけた焼きもの屋へと、とぼとぼと、しかし迷いのない足取りをもち、光はなく、ただ一点と、進むだけだった。
◆
ベースの砦の見張り番が双眼鏡のなか動くものを捉えた。ビーチの奥、密林のどんつくに、汚れた原住民の姿がある。2秒もかけずに撃てば終わる。それでも見張り番は目で追った。
不思議な表情をする原住民だと思った。微笑していた。撃たれることをいとわず進む、彼の視線はひとつところに結ばれていた。
廃油とガラにまみれるMのマーク。
うす汚れたそのMは、海に囲まれたこの地では、優しい波頭のようにも見てとれた。
微笑の男は歩み寄る。
かつてこの地のシンボルだった、マクドナルドと呼ばれる店の、残骸に向かって。
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