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会陰と梅干し

大人にとって一番高級でいて代え難いものは、時間だ。かける年月だ。懺悔するよ。わたしは昔、ある子の恋路に厳しくやめろと「助言」してたんだよね。それから実に、何年も経った。

今。誰についてもそんな気持ちがひとつぽっちもありゃしないのは、身体や気持ちが大人になったから、ってだけじゃない。誰かがこつこつ小さく積んだ、年月という強さが見せてくれていたんだね。そこには他に代わるものなんてなんも無かった。もう出来あがりかけていた、レンガの壁みたいなもんだったんだ。

片思い? 両思い? ストレート、不倫、異種愛、そんな属性なんかどうでもいい。大の大人が、てめーの大事な大事な時間というコストを賭けて、ずうっと暖め持続させる気持ちがどっかにあるんだとしたら、それはもう他人が感想するのは野暮でしかない。

いいね、とか小さくこうしたら上手くいくんでない、は言えたとしても、根本なんてまったく、はっきり、立ち入らない。

大人になるとある種の柔軟さは広がるよ。マッサージをした会陰のように。けれどもまたある種の頑固は強まっている。さらした梅干しの種のように。

たいていの場合は人あたりを柔らかく変化させながら、コアの部分。梅干しの種については、誰とも触れあわせずに過ごそうとする。絶望じゃない。逆だよ。それが「触んないし、触らせねーよ」という尊重だ。

柔らかな会陰と、頑固な梅干しの種をこすり合せるようにして、そうしたグロテスクについてもさっぱり織り込んだうえで、朗らかにわたしたちは街を行く。

誰ともすり合わせたりしない。ひけらかしも望まない。ただの恋や愛といったくだらないものを、お尻に引っ掛けたスマホみたいに叩きながら、わたしたちはときおり手を挙げ、言葉を交わし、街を行くんだと思う。

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