クトゥルー神話『オレンジの雨』

 昔々、Hyperboreaの一角にオレンジの産地で有名な町が在った。そこそこ賑やかな町で、それもオレンジが齎してくれたものだった。その町のオレンジは、今日、我々の口に入るオレンジ類の中には含まれておらぬ種類のものだったが、生物学の分類に於いては同じ科に属する筈のもので、味や香りなども大差なく、倂し、今日、我々の口に入るものより遙かに美味であったらしい。
 町は麤(ほぼ)円形で、その周囲をぐるりとオレンジ畑が取り巻いていた。遠くから見ると町は見えずオレンジ畑だけが確認されて、その中に入って行くと漸く町が顯(あらわ)れて来るのだ。
 町は《オレンジの町》と呼ばれ、いつしか他の地域では町の本当の名が忘れ去られ、《オレンジの町》と云う名だけが人々の記憶に残されて行った。
 Hyperboreaの各地では《オレンジの町》のオレンジは人気で、特に北の果てなどでは高価な果物とされた。
 《オレンジの町》のオレンジを他の地へ持って行って栽培しようとする者も居た。だが、それは成功しなかった。何故かは判らぬが他の地では育たぬのだ。果実から採った種を撒いても接木をしても成功せぬのだ。如何なる肥沃な土地でも気候が最もオレンジの栽培に向いていると云う土地でも全てが失敗に終わっていた。いや、それを云ったら《オレンジの町》にしてからが気候も土地もオレンジの栽培に適さぬ場所であるにも関わらずオレンジだけが豊富に実るのだった。
 《オレンジの町》のオレンジには何か秘密が有る、それが他の地域に住む人々の大方の見方だった。だが、《オレンジの町》の住人がその事を耳にすれば怪訝な顔をして終わる。住人たちは、働いている者四人の内、三人はオレンジの生産に関わっていると云う町の中で、己の関わっている産業によもや何らかの秘密が隠されているなどと想う者は大しておらぬからだ。勿論、如何なる時代、如何なる場所でも詮索好きな者は存在している。《オレンジの町》に於いても同じだった。倂しそれは全体からすればごく少数で、一方、どの町でも町中で事故死する者や野垂れ死ぬ者が幾許か存在しており、毎日が忙しい生者は死者の死因などに一々注意を払わぬものだった。
 町は議会が運営していた。議会には諸々のギルドの長や神々の司祭たちも加わっていた。町中に目立って多いのは豊饒神Yhoundehの社だったが、議会の中でも発言権が強いのはOrbld-Darrange(オルブルド=ダランジェ)と云うオレンジの神の司祭で、この神は豊饒神Shub-Niggurathの子供の両性神と伝えられていた。次に発言権が強いのは暗殺ギルドの長だった。
 町の特産であるオレンジについては一部の者しか知らぬ云い伝えが有る。未だ町が小さく貧しかった頃、この繼(まま)ではいずれ町が滅亡すると云われ始めていた時、独りの旅人が通り掛かったのだ。道中、盗賊に襲われて供の者どもを殺されてしまったと云うその旅人が立派で整然(きちん)とした身形(みなり)だった事から、人々はその旅人を殺して持ち物を奪った。処が、その旅人は金目の物などは所持しておらず、様々な書物と祭儀に用いられると思しき種々の品々、それに大きなオレンジが一つだけだった。町の人々は、自分たちが殺した旅人を葬り、その上にオレンジの種を撒いた。真逆(まさか)本当にオレンジを栽培出来ると想った訳でもなく、破れかぶれの想い半分、奇跡を望む想い半分だった。倂し少しして芽が出ると急速に成長し樹へと姿を変えて行ったのだ。それと同時に旅人殺しに加担した人々の間にだけ、何物かの声が響く様に成った。声の主はオレンジの生育を司るOrbld-Darrangeと名乗った。そして生贄を受け取った故、オレンジの実りを齎そうと語り、だが、本来、祭儀を執り行う司祭自身が生贄と成った為、生贄を実践した者たちが後継の司祭と成って、彼(か)の神を禩(まつ)るのだとも告げていた。否が応もなかった。それにこの神を禩りオレンジを育てていれば実りは保証されるのだ。人々は旅人の残した本を調べ手探りながら神に対する義務を果たす事にした。但し、これは後で判った事だが、この神は人を生贄として要求する存在だった。最初の内こそ人々は盗賊狩りと称して外へ行き、囮役を狙って盗賊どもが攻めて来ると待ち伏せしていた者たちが出て行って返り討ちにし生贄として捧げていたが、町が大きく成るに連れ罪人も増え、詮索好きな者どもも増え、潤沢豊富に生贄を捧げられる様に成り、一気に町を取り巻く程にオレンジも増えたのだった。
 オレンジの神の司祭は平生(いつも)オレンジの豊作を神に願っていた。だが、遂に或る時、出荷出来ぬ程の量が収穫され、元々、干しオレンジや酒にする事は行われていたのだが、様々な菓子などへの利用も考え出され、その内、誰かが果実酒として醗酵させぬ前の果汁も美味いと云う事を云い出し、壷に入れ蜜とスパイスを落として掻き混ぜた果汁の販売が開始され、これが果物以上の人気で作ったそばから売れて行き、生産地である《オレンジの町》ですら品薄で中々手に入らぬ状態と成っていた。その状態は毎年続いていた。
 さて、或る年、司祭の一人に何処を如何間違ったか、素っ頓狂かつ彦徳(スットコ)ドッコイな男が就任した。町の手に負えぬ暴れ者二人を生贄に捧げ例年通り豊作を祈願する段に成って、司祭は浮(うっ)かり甥が云っていた事を想い出してしまった。蜜とスパイス入りのオレンジの果汁を只の一度も飲めておらぬ甥は、いっそ雨の代わりにオレンジの果汁が降ってくれたら、と云っていたのだ。倂し己の役割を想い出し、その司祭が豊作を祈願しようとした時、既に祭儀は完了していた。まあ、平生、豊作なのだから一年くらい祈願し損ねても構わぬだろうと司祭は高を括っていたのだが、翌日、朝から晩迄オレンジの果汁が、それも蜜とスパイスの入り混じった果汁が降り注いだ時には蒼く成った。その翌日、町中の至る所で清掃に精を出す人々の姿が見られたが、大それた問題には発展しなかった。但し、司祭の責任問題には発展した。吊るし上げを喰った司祭は正直に話し、果汁を被って損害の生じた人々に賠償金を支払った。
 その次の祭儀の時、議会の議長が見張り役に立ち会った。議長が読み上げる事だけを聞いて祈願しろと司祭は云われていた。議長は素っ頓狂でも彦徳ドッコイでもなかった。只、文章を忠実に読み上げるのが苦手で、少なからず軽躁行為(おっちょこちょい)なだけだった。そして当然至極、議長の作った文章には間違いが有った。「天の力の助けを得て地の恵み大量のオレンジを齎したまえ」とするべき文章を「地の恵み大いなるオレンジを齎したまえ」と書いてしまったのだ。而も当日、読み間違えた。「地の恵み」を「天からの恵み」と読んでしまい、それを耳にした司祭は肝心の「大量」と云う言葉が抜けていると想って勝手に付け加えた。「天からの恵み大量の大いなるオレンジを齎したまえ」と祈願してしまったのだ。
 翌日、家々を上回る程の大いなるオレンジが雨の如く大量に空から降って来て、町は建物も人も全て押し潰されて滅び去った。�