正解のない世界にも、不正解はある

『私たちの仕事は、正解のない世界で答えを出すこと』

在宅の現場でぶち当たる様々な問題でこの言葉に出会ったとき、「正解がない」という部分に私はとてつもなく救われた。

「いいじゃない、ちょっとくらいお酒飲んでも。それで転んでも、自分で起き上がれたならいいじゃない。」

とか

「家から一歩も出ないでずっと居間のテレビを見てるのは、外出できないんじゃないの。昔嫌な思いをさせられた近所の人にいまの自分の姿を見せたくないからなの。」

とか、クライアントが“健やかに生きること”を求められ、また自らも求め続けなければいけない私たちの前にはいつも、星の数ほど点在する“止むに止まれぬ事情”が立ちはだかる。

当然のことながら、そんな場面にほんの数年の専門教育を受けた若造の私が持ってる“理学療法”だとか“医療”だとかのルールを持ち込んだところで、うまく対処できるはずがない。

でも仕事である以上、その人に専門職としてお金を貰いながら関わった立場である以上、私には何らかの決断が迫られる。もちろん私ひとりが決めて全責任を負うような謂れはないし、そういう構造が出来上がっているのならそれはそれで問題だ。

問題なのに、だ。回復期でバリバリごりごりやってきた(やらかしてきた)私には、在宅の現場で他者と協働して答えを導き出すようなお作法が身につくのになかなか時間がかかった。

問題が起きたとき、「クライアントが転んだのは私のせい」「お家から一歩も出ないで廃用で筋力低下でなんちゃらしてるのは私のせい」「家族と上手くいってないのも、ひょっとしたら私のせい」といった感じで、頼まれてもいないのに人知れず日々、心を痛めていた。我ながら、阿呆だと思う。

油断すると、「あーあ、せっかく頑張ってきたのにかわいそう。あ、でもあなた自身は“みんなで決めたんだから仕方ない”って思ってるんでしょ?」
そんな酷いことを平気で囁くもう一人の自分がいる。私という人間は、私を中心に世界が回っていると思っている節があり、すごく自己中心的な生き物なのだ。

そして、冒頭の言葉に出会った。出会い、そして救われた。

そうか、最初から答えなんてなかったのか。大切なのは、何を選ぶのかではなくて、クライアントが納得して決めたかどうかだったのか。そう思ったら、随分と重たかった肩のあたりがほんの少しだけ楽になったように感じられた。

ただ、楽になったのと同時に、「え、でもそうなったら“本人”がいいって言ったら何でもOKなの?」という疑問が湧き上がった。

みんなが転ぶって言ったから、みんなはそのままじゃ廃用して動きづらくなるよって言ったから、みんなでお水飲んでって言ったから。

相手に全てが伝わっていたかどうかには敢えて言及はしない。しないけれども、周囲が意図した方針を選ばずして、思わぬ困難を抱えてしまったクライアントに対して、私は何を思えばいいのだろう。楽になったというのは単に責任を放棄しただけで、今度は「結局のところ救われたのは自分自身だけなのではないか?」という疑念が私に纏わりついた。

そんなとき、タイトルの言葉が降ってきた。

『正解のない世界にも、不正解はある』

この言葉は私を救うのではなく、胸元をぐいっと掴んで現実を突きつける、そんな秀逸なワンフレーズだった。それは自由な世界に放り出された私に、“専門職”という肩書きが背負うべき十字架を改めて自覚させた。

誤解することなかれ、この言葉は他者に強制すべきではなく、単なる自戒にしか成り得ない。苗字も肩書きも当てにならない、あの世で貰う批評こそが本当だと、椎名林檎とトータス松本も歌っている。本当のところ、正解なんてないし、誰かの人生の選択に対して偉そうに不正解を突きつけることなんて、誰にもできやしないのだ。

でも、この感覚があるのとないのとでは、私自身の生業には大きな異なりができてしまう。『正解のない世界の不正解』は、自由な世界で用心深く素早く歩くお守りのような存在に思えた。

そんなことを思って不意にTwitterで呟いたら、思いの外たくさんの方からLikeをいただけたので、もう少し自分の中で掘り下げて考えてみました。

駄文ですが、読んでいただける方がいらしたら幸いです。


読んでいただきありがとうございます。まだまだ修行中ですが、感想など教えていただけると嬉しいです。