言葉の文化がくれるもの。


「もどかしき 想いを露に 組み替えて」散里

 俳諧は江戸時代に庶民にまで浸透した芸術のひとつです。
 それは和歌から派生して行ったものです。和歌は、いわば平安の頃から高貴な人々が記した、美しい日本語と愛と自然と儚さに寄せた、想いの「組み替え」ですね。つまり、感情を非直接的に伝達し、共感を得る技術といえます。
 この和歌は理解をするに一定の知識が必要です。ですから当時の庶民が楽しめたわけではありませんが、その価値は出版文化が旺盛になる中で、広く知られて行きます。
 一方で教養のある武士層を作者として「狂歌」が生まれ、発展します。
 狂歌は、乱暴に言うと「駄洒落和歌」です。古典をもじったり、駄洒落を込めて詠まれたりするもので、知識がある程面白いのですが、知識が無くても駄洒落の部分は笑えるため、庶民にも広く愛されて行きます。
 十返舎一九の『東海道茶膝栗毛』もそんな楽しみと旅物語、そしてお笑いを融合させた作品として愛されたものです。
 そして、この和歌を上の句(575)と下の句(77)に分けて、別々に詠んで行くのが連歌(連句)です。ひとりだけでなく、複数の人で詠み繋げて、最初の人が詠んだ世界観を伝言ゲームのように繋げて広げて、時には元に戻って来たりして、言葉によるイメージ世界を楽しむものです。
 そして、この上の句だけが短歌(俳句)ですね。その存在価値は端唄に似て居ます。長い歌の一部を唄うだけで、イメージを広げるには十分な物があり、それは未完成だからこそ共鳴した人それぞれのイメージの世界が自由になれる、と言う機能なのだろうと思います。
 上に記した句「もどかしき 想いを露に 組み替えて」は言葉の文化が人々に与えるものを詠みました(出来不出来は置いといてくださいね)。
 言葉にならない想いを、人は心に悶々とさせたり、悩んだりしたあげく「クソ!」とか「ふざけんじゃねえ××野郎!」などと汚い言葉で吐露してしまいがちですよね。それを、詠む事で想いを昇華させる事ができるわけです。「美しく訴える技術」があれば、汚い言葉で伝え、吐露する必要性は少なくなります。
 その技術に風流でなくシニカルを加えた、又は許したのが「川柳」と言えます。これも江戸時代に生まれ発展したものです。
 現代でもサラリーマン川柳など、シニカルに詠むことで、モヤモヤした想いが笑いへと昇華されるわけですね。よりストレート観が増す事で、江戸時代の川柳は、当時の人々の想いや生活を知る重要な史料になっています。
 そしてこの技術を300年以上育み、想いを生の感情以外で伝える方法を得た日本語は、それだけナマ観が無くなったのでは無いかと、僕は考えています。一生懸命言葉で説明し、説明しなければ伝わらない、説明だけが唯一の方法、という社会ではありませんよね。
 言葉は受け手の中でイメージを膨らませるものだからこそ、この芸術は、いや、人々日常を昇華させると言う点では工芸とも言えるこの技術は、現代の私たちにも重要なのだと思うのです。
 もどかしい想いがあるなら、是非、詠むことにトライしてみて下さい。上手い下手なんて置いておいて

 

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