【キー6】信念
うんうん、それは資本主義が悪いね
老モテ
2022年、話題となった歌集の一つに『老人ホームで死ぬほどモテたい』(上坂あゆ美)がある。その一ヶ月後に、以前触れた『水上バス浅草行き』(岡本真帆)が刊行され、この2冊は昨今の短歌ブームを牽引する歌集となっている。
この2冊は何かとセットで評されることが多い。なぜかといえば上坂氏と岡本氏は同年代の(女性)歌人であり、この2冊がそれぞれにとっての第一歌集であるからだ。2冊が出版されてからおよそ1年後の2023年3月には、『「老人ホームで死ぬほどモテたい」と「水上バス浅草行き」を読む』(上坂あゆ美、岡本真帆)という「歌集副読本」なるものが出版された。
さて、ここまでの話をおそらく初めてきいてあなた、どう思っただろうか。一文目の「老人ホームで死ぬほどモテたい」に、「老人ホームで死ぬほどモテたい⁉︎」と一回足をとられなかっただろうか。僕はなった。
このユニークなタイトルについて上坂氏は「老モテ」で以下のように述べている。
また、同氏は副読本ではこうも述べている。
つまりは、「老モテ」のタイトルとその内容の根底には、上坂氏の信念がある。同氏の信念とそれに基づいた行動や言葉など(これらが「老モテ」で歌われている)が、いつの日か「老人ホームで自分自身に死ぬほどモテる私」になるための生き様へと繋がるのだろう。
信念と座右の銘
僕は「老モテ」のあとがきを読んだ時、「僕の信念は何だろう?」と初めて考えた。恥ずかしながらそれまで僕は、僕の信念について考えたことはなかったのである。
「信念」とは、己が正しいと信じる考えや心のことを言う。そう説明されると強烈なもののようで驚いてしまうような人は、生き様とか生き甲斐とか、或いはふわっと「大切だと思っていること」と読み替えても大きくは違わないだろう。または、「正義だと思うこと」とはっきりさせてもよい。
こうして考えた結果、僕の信念は「弱者の味方であれ」ということになった。なんだかすごく凡庸な着地だけれど、ここ数年の僕の考えや価値観の底には、「弱者の味方」であることがあった気がするし、すくなくとも当分はこの方針でいいんじゃないかと思っている。
例えば座右の銘。いい加減ウンザリしている人もいるだろうが、僕の大切にしている言葉は2つある。
1つ目「世界はまだ楽しみ放題」。この広い世界のある箇所で敗れ、辛さを感じ、追われる身となったあなたへ。まだ楽しみ放題だから、さ、次へ行こうという風に手を引く言葉。
2つ目「何とかなることは何とかなる 何とかならないことは何とかならない」。どうがんばっても何ともならなかったあなたへ。この言葉を胸に割り切って次へ行こう。
2つとも、自分自身にかけたい言葉でもあるし、弱くなったあなたへ掛けたい言葉でもある。「弱者の味方」という信念を決めて→座右の銘を選ぶ という順番ではなかったが、言葉選びから僕の無意識下にはこの信念が流れていたのだと思う。
信念と嫌いなもの
弱者の味方であり続けるためには、弱いものいじめをするものと闘い、勝たねばならない。
僕はMIYASHITA PARK(渋谷)や東急歌舞伎町タワー(新宿)といった建物が嫌いだ。
前者は宮下公園にいたホームレス、後者は周辺の東横キッズを締め出すような開発をしていて、その方針や手法に反対だからだ。
宮下公園にいたホームレスを追い出し開発されたMIYASHITA PARKは、「PARK」の名を冠しておきながらその公園機能を、1番アクセスの悪い屋上に配置した。そこには座りづらい「排除アート」たるベンチが配置されている。排除アートは、ホームレスがそのベンチで寝ることを防ぐことなどを目的に設計されたベンチやオブジェのことを指す。
また、かつてはホームレスが身を寄せて暮らしていた地上部には、ルイヴィトン・グッチ・プラダ・バレンシアガなど高級店が立ち並ぶ。
これらの露骨なまでのホームレス的存在へのアンチ・メッセージを無視してこの施設(決して公園とは呼ばない)を楽しむことは僕にできないし、してはならないと思っている。
他にも同施設のシンボル的存在だったアート作品を作家に無断で改変した行為などこの施設には反吐が出そうになるポイントは多々あるが、いずれにしろ僕はこの施設が嫌いだ。
東急歌舞伎町タワーについても同様な理由で好かない。DJスペースや派手な飲食店が並ぶエリアはエセ日本が好きな外国人観光客にはウケそうなものだが、それでいいのかよと思う。
家庭にさまざまな事情を抱え「トー横」にしか居場所がないような子ども・青年たちを追い出して摩天楼を建設し、その内部では下品なパーティー会場をつくり出しジェンダーフリートイレでしくじり、目も当てられないというのが正直な感情だ。
闘い
これらに対して「嫌い」という感情を抱くだけでは、追い出された弱者を守ることはできない。闘わねばならない。それが僕が不動産業界に身を投じた理由の一つであったりする。僕はこれらに闘い勝つような開発をしたいのです、というのは面接でも語ったことだ。
残念ながら現時点でそのような開発とは具体的にどのようなものなのか・或いは成立しうるのかを僕は見出せていない。この思いを単なる妄想・夢に終わらせないために、僕は勉強し懸命に働かねばならないのだ。
「ああはなりたくない」というような、他者を土台にするような感情はその相手が崩れたり変容したときに自分の目的が喪失してしまうというリスクがある。
子供を殺した犯人へ直接復讐するために会社もやめて犯人探しにあけくれていた父親が、あと一歩のところで犯人が事故で死んだことを知り、「俺の人生は何だったんだ。これから何を目的に生きていけばいいんだ」と呆然とする様はいろいろな映画や小説の題材となっている。
だが現状、僕の憎むべき相手は強敵であるから、そう簡単に崩れそうはない。また僕の働く動機や生きがいには、他者の存在に依存しない感情も当然に多く絡まっているから大丈夫だと自分では考えている。
覚悟
日本人差別発言をしたメンバーを抱えその謝罪を日本ツアーでも行わない英ロックバンド1975や、障害をもった子供とその産み親である前妻を揶揄するような投稿をした米俳優クリス・プラットなど、世間では大人気でも僕が怒る相手は無数に存在する。
ただ、その全てに真っ向から闘うのは限界がある。私は全ての国民や世界人類の平和のために闘うことはできない。それは体力・物理的な話でもそうだし、自身の気力・モチベーションの話でもある。これが、私が国連職員や公務員への志望を転換した理由だ。
ただ僕は、僕が真に相手にすべきと思ったものに対しては徹底してこれからも抗戦する。そして、闘うとか覚悟とか大層な話を抜きにしたとしても、国民の奉仕者になれない僕は、せめてこれを読んでくれている僕の大切な人々のことを守り、寄り添い、決して無下に追放しない人間であり続けるのだ。
おまけ①『老人ホームで死ぬほどモテたい』
『老人ホームで死ぬほどモテたい』より短歌4首紹介します。
おじいちゃんって兄弟姉妹や従兄弟同士で背比べをさせたがるものですよね。後半の「三番線〜」みたいによく耳にするフレーズを組み込んだ短歌は珍しくありません。「本日も東日本のご利用まことにありがとうございました」(伊舎堂仁『感電しかけた話』)とか。
「あ、この人垂直に割る人なんだ」という発見。これ僕しか気づいていないんだろうなという背徳感。僕が毎週月曜日は同じネクタイをしていることに気づいている人はいるのだろうか。
くらくらするような一言を吐かれた経験は誰でもあると思います。しかもその人はその一言を「くらくらさせてやるぞー」と思って言っていないのがにくい。僕はある女の子の後輩に、「静かにしてください」と初対面で言われたのは絶対に忘れないな。あれはくらった。付き合いはじめてからは言われていないけど。
会社の研修で「マッチ棒を一本動かして動物の名前にしてください」みたいなクイズを出されたときこの歌を思い出してウケちゃった。
僕の友人は以前、僕が「老モテ」を持っているのを見かけて「俺も本屋でタイトルに惹かれて書いました」と言っていた。タイトルで本を選ぶと言うのはレコードの「ジャケ買い」とみたいなものだろう。
こうして買った本やアルヴァムが良かったときの快感は何事にも変え難いですよね。自分の感覚だけで世界にすっと立っている感じ。僕はドナルド・フェイゲンの『The Nightfly』をジャケットに惚れて買ったことがある。しっかりくらった後に、実は名盤として超有名だと知ったときには、自分の直感を素直に誇りに思ったものです。
おまけ②『水上バス浅草行き』
『水上バス浅草行き』より短歌4首紹介します。
人間中心に組み立てられた世界から人間を排したときにだけ広がる世界の味がする。同じような発想の短歌に、「ヒトがもし海洋生物なら地球ではなく海球と名付けただろう」(音平まど-穂村弘『短歌ください 海の家でオセロ篇』)など。
おやつに「たべっ子どうぶつ」をたべている人がいて、この歌を思い出した。怖い歌はいい歌。
人の名前や誕生日など意味のある文字列はパスワードには不向きなんだけどね。でもいいじゃない。やさしさ。
まぶくて仕方ない上を向いた歌。僕も駐輪場から駅までにあるピザ屋の窓ガラスで毎朝ネクタイを直しています。今週も頑張ろう。