巨人と玩具

モーレツという言葉があった。それは高度経済成長期の日本で働く、主にサラリーマンたちの標語のようなものであったが、そのサラリーマンたちは、よく言えば企業戦士、悪く言えば社畜とも呼ばれていた。

では、その企業戦士はモーレツに何と戦っていたのか。戦っている本人には案外分からなかったのかもしれない。とにかく資本主義という世間様の中に放り出され、その一つの駒、一つの歯車として働くことによって、自身の所属する会社が成長することこそ、すなわち己に幸せをもたらす。そんな神話を彼らは共有していたのかもしれない。

1958年。大映映画『巨人と玩具』は公開された。もはや戦後ではない。そう言われ始めた時代だったのだろうか。

『巨人と玩具』は開高健の小説を原作にしながら、モーレツな時代の菓子製造メーカーの熾烈な企業間競争を描いた作品だ。監督は増村保造。

増村保造と言えば、若尾文子とのコンビで名作、傑作をものしてきた監督である。例えば『青空娘』、『刺青』、『卍』、『赤い天使』、『濡れた二人』(若尾文子がずぶ濡れになる)など。

そこには絶えず女性の「性」がテーマとしてあった。だが、その「性」というものは、男にとって都合のいい安手の「性」とは違う。もっと女性の中に内在する「性」であり、増村作品の中の若尾文子は、常にそれに基づいて行動していた。

大映が末期状態に陥り、被写体が安田道代に変わろうが、ダッチワイフが喋り出したような渥美マリになろうが、増村のテーマは一貫していた。

だが『巨人と玩具』を見たことによって、俺は増村保造という人の違う側面を知ったような気がする。ここでテーマとされているのは、企業間の熾烈な競争であり、もっとマスな日本社会全体なのだ。

女性の中に内在する「性」が個であるなら、その対極にあるテーマのような気もする。

ワールド、アポロン、ジャイアント。この三社の菓子メーカーは、消費者である子供にとっては目玉であるといえる懸賞の決定に頭をしぼっていた。

ワールドの広告部新人である川口浩と、ジャイアントのやはり広告部員は大学の同期で、ラグビー部に所属していたということもあり、卒業してからも付き合っていた。

二人が最初に向かったのが歌声喫茶。現代では完全に姿を消したと言える喫茶の形態なのであるが、カラオケなんてものがなかった時代。多くの若者が歌声喫茶に集まり、肩を組んで流行歌や労働歌を口ずさんでいた。

「俺たち学生の頃、なんでこんなところにきていたんだろうな」
「社会人には社会人のいくところがあるんだよ」

そう言って二人がやってきたのはバーであった。

「ハイボール、もう一杯」

そう注文したのは女だった。その女こそアポロンの広告部員で、以降この女は川口浩と時にはビジネスライクに割り切ったり、時には腹を探り合ったりしながらも男女の仲を続けることになる。

モーレツ時代の企業戦士。そう書くと男社会の男の存在に思えるかもしれない。しかし、この作品で面白いのは、このアポロンの広告部員が女であったり、のちに川口浩が出入りするテレビ局のディレクターも女であることである。

話は脱線するかもしれないが、1962年の東宝の作品に『その場所に女ありて』という、やはりサラリーマン社会を描いたものがあるのだが、そこでは司葉子をはじめとする女たちが男たちと伍して生きていくという姿が描かれている。

モーレツ時代の女たちも忘れてはならない存在であるようだ。

川口浩の上司にあたる高松英郎は野心家であった。広告部課長である彼だが、他社との広告戦に勝ち抜いた上に、ワールド社内で専務ぐらいまでは上り詰めてやろうと決めていた。

川口浩と高松英郎が喫茶店でコーヒーを飲んでいる時、その娘はガラス窓の向こうに突然現れた。高松英郎は彼女を店内に連れてきて、キャラメルの景品を上げるからとかなんとか言って、彼女の住所を聞き出した。

その彼女こそ、この作品のヒロイン、野添ひとみであり、ここではあえて歯を黒く塗って虫歯メイクをして、不細工に見せているのがいい。

彼女のキャラを今風に言えば「天然」と言うことができるだろう。ボロタクシー会社に勤めていても全然仕事はせず、ペンキ缶の中にオタマジャクシを飼っている。しかも、このオタマジャクシがウシガエルのそれで(俺が子供の時もバケダマという名前でペットショップで売っていた)、物凄く大きいのだ。そして、その中の一匹が死ぬと大騒ぎを始める。

増村保造の何が邦画史において、特筆すべきに値する監督なのであろうか。

例えば野添ひとみのキャラクター造形に関しても、ドラマでシーンを尽くして、台詞を用いて説明するという方法もある。しかし、増村はそうはしないで、野添ひとみが貧乏長屋で幼い兄弟たちと野球をやったり、風呂場で体を洗ってやったりという短いカットをいくつも繋げることでそれをやっている。

また作品全体で言えば不思議なカットが何回か出てきて、高松英郎がタバコを吸おうとして、ジッポーライターに火をつけようとする。だが、何回やっても火はつかない。そこに菓子製造工場の模様がオーバーラップする。

規則的に動く機械。そこで菓子が次々と機械の上を流れては製造されていく。

増村保造はアクション監督ではない。だが、この作品の彼の演出やカット割、カメラアングルの構成はアクション的だ。つまり短いカットを連続して繋ぐことによって、作品にテンポをもたらしている。作品に勢いをもたらしている。

58年の段階で、このような映画を撮ることができたのは、おそらく増村保造だけだっただろう。そういった意味において、彼が邦画に新風を吹き込んだのは間違いないだろう。

それともう一つは先にも書いたように、キャラクター造形、中でも女のキャラクター造形が素晴らしかったということが言えると思う。当然、この作品で言えばそれは野添ひとみのキャラクター造形になる。

野添ひとみが勤めているタクシー会社にやってきた高松英郎と川口浩は、嫌がる彼女を車に乗せて写真スタジオに連れていく。そこで待っていたのは酔いどれカメラマン、伊藤雄之助。

「なんだあ!こんなジャリ撮れって言うのか!」

と吠えたかと思ったが、あの手この手で野添ひとみの素の表情を引き出して、それをフィルムに活写していく。

高松英郎はその写真をグラビア雑誌に掲載することを企図し、実際それが発売されてみると物珍しいということもあって、世間で話題になるまでそう時間は掛からなかった。

グラビア雑誌に載った野添ひとみの姿は、彼女の「天然」、「自然児」的なものを引き出したものであり、舌をぺろっと伸ばしたものや、人を食ったような表情で溢れていた。

話を野添ひとみ、その人のものに移してみたい。

大映という映画会社は、女優の層が厚い会社だった。看板女優にしても、京マチ子、山本富士子、若尾文子がいたし、さらに中村玉緒、ダークホース的な存在として江波杏子。その下の世代的な感じで安田道代がいて、また時代劇にては藤村志保がいた。

そんな女優ひしめく大映にあって、野添ひとみの魅力とはなんだったのだろう。セクシーとは言い難い。男を虜にするタイプとも違う。あえて言えば可愛い、キュートな魅力を持っている。

ある意味で言うと、みんなの妹的可愛さを持っている野添ひとみが、「天然」に暴れ出した。そのギャップが本作を魅力的なものにしているのではないだろうか。

メディアミックスなんていう言葉がなかった時代に、高松英郎はそれを仕掛けた。野添ひとみをグラビア誌に掲載し、ラジオなどに出演させ脚光が当たってきたところで、自社のキャラメルのキャンペーンガールに起用するという戦略に出た。

重役たちを前にして、彼は持論をぶった。

「なぜ。有名な芸能人やスポーツ選手をキャンペーンに起用しないのかね」
「有名な芸能人やスポーツ選手は、すでに顔が世間に知られていることによって、逆に宣伝効果は低いのです。大衆は彼らの顔は見ても、商品までは見てくれないのです。ですから、なんの手垢もついていないような、全くの新人が我が社の商品を強烈に宣伝してくれれば、これは衝撃的であり宣伝効果も見込めるのです」

そして宇宙というコンセプトのもと、宇宙服を模したコスチュームを着て、野添ひとみは再び酔いどれカメラマンのカメラの前に立った。

「お前さん。相撲は好きかい」
「別に」
「ある力士がよ。土俵の上でふんどしがほどけて、せがれがあらわになっちまったのよ」
「キャハハハハ」

その屈託のない笑顔を活写する伊藤雄之助。彼の撮った写真はポスターに引き伸ばされ、街の至る所に張り出された。

そして、コスチュームを着て宣伝カーに乗り、ワールドキャラメルの名前を連呼する野添ひとみ。さらにテレビCMの撮影もこなし、彼女の顔がテレビで映し出される。

すぐさま人気に火がつき野添ひとみのもとには、子供ばかりでなく、大人までもがサインを求めて集まるようになっていた。

これらの仕事によって野添ひとみのもとには、多額の収入が入ってくるようになり、彼女はタクシー会社をすぐさま辞めたのだが、その実家である貧乏長屋に川口浩が訪れた時、兄弟たちが子供用のスーツを着て、ジュースを飲んだり、タバコをふかしていたのには笑った。

メディアミックスによって、どこにでもいるような女の子が、たちまちにしてスターになる。この高松英郎の狙いは、角川春樹よりも秋元康よりも、はるかに早かった。

だが当然それを成功させるためには、資本の力とマスコミの力は必須なのである。逆を返せば、その力さえ利用すればどのような人間も注目を集める存在になり得る、そのことを本作は描いている。

高松英郎の先を読んだ視点、大衆、マスに対する視点は彼というキャラクターを産んだ開高健の視点でもあると言えよう。さらに物語が進んでくると、高松英郎はこのように言い出す。

それはライバル会社のアポロの工場が火事になり、商品が製造できなくなったという情報が入った時の重役会議においてだった。高松の上司にあたる部長は、このような時は派手な宣伝は自重すべきだと言ったが、高松は、

「あなたは現代という時代を理解していない。このような時こそ攻勢を強めるべきなのです。大衆の頭というのは空っぽなのです。会社に行って仕事をして、家に帰ってきて飯を食べ、テレビを見たらあとは寝て、また仕事に行くの繰り返しだけ。その空っぽな頭に我が社の商品を叩き込めば自ずと売上は伸びるのです」

彼のこの発言は偏っているようにも思えるが、あながち笑うこともできない。2020年代の今はテレビという媒体に加えて、インターネット、SNSという媒体も加わったが、それを人間が利用しているように見えて、いつの間にか利用させられているという傾向もある。

「空っぽな頭」にいつの間にか情報だけが擦りこまれていくのである。

半世紀以上前の映画であるが、その主題としているところが、現代とも通底しているがゆえにあながち笑えないし、完全に古い作品と見ることもできない。

だが高松は激務に加えての激務により体調を崩していった。一度、川口浩と一緒にタクシーに乗っている時に、高松が錠剤の薬を飲んだのだが、それを見た川口浩が、

「安定剤ですか。覚醒剤とちゃんぽんで飲むなんて、体に悪いですよ」

と軽く言った時には、さすがに違和感を覚えた。

さて一躍時の人となった野添ひとみであったが、高松と川口浩が近いうちに宇宙博覧会があり、うちとしてはここの宣伝に社運をかけているので、またキャンペーンガールをお願いしたいと依頼したが、それを断った。
それに近いうちにジャズのレコードを出すと言う。これは二人にとっては寝耳に水であった。それに彼女は宣伝カーに乗っての仕事は、契約違反だと言って変に知恵がついているのであった。

その帰りに高松は部長になった辞令書に血反吐を吐きながら、川口浩に野添ひとみと肉体関係を持てと今で言ったら完全にパワハラなことを強要したが、川口浩は当然それを拒否した。

しかし、博覧会のキャンペーンガールの仕事だけは、引き受けてほしかった川口浩は、野添ひとみが出演する舞台の楽屋を訪ねた。

そこはロカビリーなヤツも出演していたから、日劇ウエスタンカーニバルをモデルにしたのだろうか。そこで野添ひとみは、アフリカなのかニューギニアなのか、とにかく部族の人チックなメイクをして衣装を着て、さらに同様の男のダンサーを従えて、ステージ所狭しと歌い踊っていた。

この歌のシーンがフルコーラスあるのだが、それを秀逸に撮っている増村保造の才能をやはり感じる。

その楽屋で川口浩は言った。

「君はただのおもちゃなんだよ。今はみんなにチヤホヤされていい気になっているけど、そのうち飽きられて捨てられちまうのが関の山なんだぜ」
「いいじゃないの。捨てられるなら捨てられるで。わたし、あんたのところの仕事なんかしなくても、もうやっていけるんだから。帰ってよ」

とか言っていたら、そこに現れたのは、あのジャイアントの広告部員であり、川口浩の大学の同期生である男だった。男は野添ひとみのマネージャーになっていたのだ。そして男が野添ひとみに知恵をつけていた。

頭にきちゃった川口浩は、男に友情論とかを熱く語りかけたが、男はそんなものは屁とも思っていなかった。

「俺はジャイアントも辞めたよ。もう誰かの命令で動いたり、馬車馬のようになって働くのはこりごりなんだ」

この当時、「コツコツやるヤツぁご苦労さん」(by 植木等)という言葉もあったが、男の生き方はドロップアウトすることもまた道なりということを示していて、高松の生き方の対極にあった。

その高松であったが、野添ひとみに断られたにもかかわらず、なおも宇宙博覧会のキャンペーンを強行しようとして、遂には、

「俺、一人になってもやり遂げてみせる」

と完全についていけないことを口走り、川口浩から殴られ倒れた。その高松が着ていた宇宙服のキャンペーンコスチュームを自らが着る川口浩。

「ククク。やっぱりお前も日本人だったんだな。日本にいたら、どんな職業に就こうと、この生き方から抜け出すことはできないんだよ」

と高松。

川口浩は一人、宇宙服を着て会社の旗を降り群衆の中を歩いていく。そして、その中に消えていく。この作品のファーストシーンが、通勤の群衆の中から現れる川口浩の姿だったことを考えると、このラストは象徴的だったと言えるだろう。

全体としては現代社会に対する風刺劇と言ったところだろうか。

その中でも増村保造のテンポのいい作調。そして、型破りな野添ひとみのキャラクター造形が楽しめた秀作だった。

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