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わが街の歴史的建造物[第1回] 迎賓館 赤坂離宮


              内閣府 迎賓館総務課 営繕専門職 代田 朋美

施設概要

所在地:東京都港区元赤坂2-1-1
本館構造:鉄骨補強煉瓦造 地下1階地上2階建
敷地面積: 約120,000㎡ 本館建面積:約5,153㎡ 本館延面積:約15,350㎡

迎賓館のあゆみ

 迎賓館赤坂離宮は、1909年(明治42年)に建設されたネオ・バロック様式の西洋風宮殿建築で、わが国に現存する西洋風宮殿建築としては唯一のものであり、文化財的にも極めて価値の高い由緒ある建造物です。
 建設において、わが国の建築、美術、工芸界を代表する専門家によって総力を傾注し、芸術の極致と技術の粋を結集したもので、明治期の近代洋風建築の頂点ともいえます。
 当初は東宮御所(皇太子明宮嘉仁(はるのみやよしひと)殿下(後の大正天皇)のお住まい)として建設されましたが、第二次世界大戦後、我が国が国際社会へ復帰し、諸外国との国際関係が緊密化するなか、国として国際儀礼を尽くして接遇を行うための施設を有していなかったことから、1967年(昭和42年)赤坂離宮を迎賓施設に充てることが閣議決定され、1968年(昭和43年)より行われた大規模改修(昭和の大改修)を経て1974年(昭和49年)迎賓館として完成、2006年(平成18年)には約3年かけて平成の改修を行い、創建から100年となる2009年(平成21年)に創建時からの建造物である本館、正門・鉄柵、東西衛舎、主庭噴水池及び主庭階段が明治以降の文化財として初の国宝に指定され、現在も、世界各国の国王や大統領などの賓客へのおもてなしを行う現役の接遇施設として活躍しています。

東宮御所建設と片山東熊

 東宮御所建設に際し、設計を担当し、総指揮を執ったのは、東宮御所造営局の技監に任命された内匠寮技師の片山東熊(かたやまとうくま)氏です。片山氏は、1877年(明治10年)に来日していた英国人建築家で、工部大学校(現東京大学)の造家学科教授であるジョサイヤ・コンドル博士の直弟子で、1879年(明治12年)に工部大学校造家学科の1期生として卒業、各地の離宮、宮廷、華族の私邸、博物館などの建設に携わっています。
 また、東宮御所建設においては、片山氏のほか、室内装飾、日本画家、七宝(しっぽう)焼き、装飾用タペストリー、セメント試験など、各分野から著名な学者や専門家、技能に優れた職人・職工が参加し、その建設はまさに当時の日本の建築技術の総力を結集した一大プロジェクトとなりました。

迎賓施設への大改修と村野藤吾

 国の迎賓施設へと再生させるため、日本芸術会会員の建築家である村野藤吾(むらのとうご)氏に設計協力を依頼し、1968年(昭和43年)から約5年の月日をかけた大改修が行われました。
 建設からの長い年月による劣化及び戦争で受けた損傷の復旧、用途変更に伴う改修を同時に行うものであり、村野氏は「文化財的な由緒ある建物なので、改装に慎重を期することは勿論だが、新しい用途のため昔のままというわけにもいかなかった」と、その苦労を記録に残しています。

構造と外観

 構造は、鉄骨補強煉瓦造、耐震性を満たすため、壁の中には縦横に鉄骨を入れ、床も同じく鉄材を用いた耐火構造、屋根組は鉄製にして銅板を葺いています。基礎の柱脚根固め用の補強材には、鉄道省から払い下げられたイギリスのダーリントン製鉄会社製の双頭レール(総延長約4km)、鉄骨はアメリカのカーネギー製鉄所に依頼(総重量は約2,800t)、また、当時我が国では同様の工事経験がなかったことから、同製鉄所の技師を招き、建設工事に従事させました。壁には煉瓦が約1,300万個使用されており、最も厚い壁の厚さは約1.8mとなっています。このような強固な構造体によって、1923年(大正12年)の関東大震災においても大きな被害を受けることはありませんでした。
 外観は、東西125m、南北89m、高さ23m、厳正なシンメトリーで構成されています。創建時、欧米諸国で流行し始めたネオ・バロック様式が採用され、正面から見ると両翼を大きく前方に湾曲させる外観となっています。バロックとは「歪んだ真珠」という意味で、荘重端正なルネサンス古典主義に対し、建築においてはより多くの変化と、より堂々とした効果をもとめ、古典建築の法則を無視し、凹凸の曲面、楕円、湾曲した輪郭線などを好んで用いました。
 屋根は緑青で覆われ、屋上中央には守護するよう阿吽の鎧武者(よろいむしゃ)、天球儀(てんきゅうぎ)、霊鳥などが配され、当時の欧米の最新技術を取り入れながらも和の意匠へのこだわりがみられます。
 外壁は小叩き仕上げの花崗岩(茨城県産真壁石)で全面が覆われ、中央部とその両翼はオーダー柱で支えられたペディメント(切妻屋根下の三角の壁)が強調されています。ペディメントや2階部分にはレリーフが施され、その模様は、菊花のご紋章や旭日章、楽器や絵具など芸術、農作物や工具など農業・工業に関するものなどがみられます。
 正面玄関の扉はフランスの装飾鉄製品会社から輸入されました。全体が唐草模様の飾り格子となっており、中央入り口の上部には菊花のご紋章が配されています。東西玄関には鉄骨製のガラス庇があり、アメリカン・アールヌーヴォー風の庇と屋上の天球儀は、片山氏がアメリカの建築家の助言を受けて設けたものではないかと言われています。

正面玄関の扉

主要室の紹介

《正面玄関、玄関ホール、中央階段》
 本館北面中央に位置する正面玄関を潜ると、中央には賓客を迎えるための深紅の絨毯、市松模様に配された白色大理石(イタリア産ビアンコ・カララ)と黒色玄昌石(げんしょうせき)(宮城県産)の床となっており、フランス・ベルサイユ宮殿の離宮のひとつ、グラン・トリアノンの床を参考にしたと言われています。壁は紅色大理石(フランス産ルージュ・ド・フランス)、天井は石膏レリーフが施されています。さらに歩を進め、小ホールの床は10種類余もの大理石(イタリア産ほか)でデザインされたモザイクとなっており、パリ・オペラ座内部のモザイクを手掛けたイタリア人モザイク作家の指導に基づき製作されました。壁と天井には石膏レリーフ、中央階段には、玄関から続く深紅の絨毯と両側の壁には玄関ホールと同じ紅色大理石が施されています。
 石膏などに用いられた白色の塗装は、大改修時、村野氏により提案されたもので、館内の塗装すべてがこの色に統一されています。工事中、現場における試験塗装を何度も繰り返し、生み出された琥珀がかった柔らかな白は、賓客を迎えることを意識し、明るく快適で温もりを感じられる色調を追求したものであり、現在においても「村野ホワイト」の名称で愛されています。

玄関ホール
小ホール床のモザイク

《朝日の間》
 中央階段を上がって大ホールをさらに進むと「朝日の間」があります。室内装飾は、18世紀末のフランス様式で、賓客のサロン、表敬訪問や首脳会談、また、賓客が天皇・皇后両陛下とお別れのご挨拶をするときに使用する最も格式の高い部屋です。

朝日の間

 部屋の名称の由来となった天井画はフランス人の画家が描いたもので「朝日を背にした女神が四頭立ての白馬の車に乗り天空を走らせている」姿が描かれています。天井画はキャンバスに描き天井に張り上げたものとなっており、大改修時、下地の隙間が原因で絵具の劣化・剥離が進んでいたため、その隙間を遮断する加工を行いました。

天井画

 壁は、淡い草色繻子(くさいろしゅす)地に濃い緑色のビロードで花や葉の模様を浮き出すように織り込んだ京都西陣の紋(もん)ビロード織(おり)となっており、すべて手織りで仕上げられています。

紋ビロード織

 床は、ケヤキ材の寄木床、その上には桜の花をモチーフにした美しい紫色の緞通(だんつう)が敷かれています。こちらの緞通は47種類もの紫色を基調とした糸を使い分け、色調の変化で模様を織り出しています。繊細なぼかしの表現は手織りで仕上げられたもので、日本で作りうる最高級品と言われています。創建時は寄木床のままで使用されておりましたが、大改修時、村野氏の提案により新たに緞通が製造され敷設されました。ちなみに、現在使用している緞通は、2019年(平成31年)に完全復元されたもので、膨大な時間と職人の手によって製造されました。

緞通

《彩鸞の間》
 
正面玄関の真上に位置する「彩鸞(さいらん)の間」は、鳳凰の一種である「鸞(らん)」と呼ばれる鳥をデザインした装飾が、東西に配置された鏡の上とマントルピースの両脇にあることから、この部屋の名称となりました。室内装飾は、19世紀初頭ナポレオン一世帝政時代を中心にフランスで流行したアンピール様式で、ナポレオンのエジプト遠征に着想を得たデザインとなっています。こちらでは、条約や協定の調印式、表敬訪問のために訪れた来客が最初に案内される控えの間として使用されます。
 天井は楕円形のアーチ状になっており、ナポレオン遠征時、戦場に天幕を張ったような意匠となっています。天井から下がる3基のシャンデリアは創建時フランスから輸入されたもので、吊具の鎖に添うように施された赤、黄、緑の三色のリボンは、フランスのグラン・トリアノン宮殿の饗宴の間を参考に、大改修時に新たに取り付けられたものです。壁には豪華な金箔張りのレリーフが施され、スフィンクスのほか、鎧武者、日本刀といった和の要素も施されています。また、壁には10枚の大鏡が貼られ、部屋を豪華にかつ広く感じられるような仕掛けとなっています。

彩鸞の間
鸞の装飾

《羽衣の間》
 建物の西側に位置する「羽衣の間」は、日本の謡曲「羽衣」の一節が描かれた約290㎡もの大きな天井画に由来しています。室内装飾はフランス18世紀末の様式で「鏡と金色と緋色」の豪華な大部屋となり、歓迎行事、レセプション、会議などが行われます。
 かつてこの部屋は舞踏室と呼ばれ、部屋の北側中二階にはオーケストラボックスが設置されています。壁のレリーフは楽器や楽譜、仮面などがかたどられており、楽器の中には琵琶や鼓など和の要素も見ることができます。創建時フランスに特注したシャンデリアは、迎賓館のなかで最も大きく7,000個のパーツと84個の電球からなる豪華なものとなっており、鈴が取り付けられているなど、部屋の用途に合わせたデザインが目を引きます。
 天井画は建物の中庭から空を見上げたかのような情景が広がっています。香炉からかぐわしい香りを放つ煙がたち、赤やピンクの花が舞うなど、まさに今天女が舞い降りたかのようでありながら、肝心の天女の姿が描かれていません。これは天井画の下、舞踏会で踊る淑女を天女に見立てたからと言われています。

羽衣の間

《花鳥の間》
 建物の東側に位置する大部屋が「花鳥の間」です。部屋の名称は、天井画と壁の七宝が「花と鳥」を題材としていることに由来します。室内装飾は16世紀後半のフランスのアンリーニ様式で、こちらでは、主に公式晩餐会の会場として使用され、最大130名ほどの席を設けることができます。
 天井は格天井となっており、フランス人画家の描いた、狩りで仕留めた動物などの天井画が24枚と金箔地の装飾画が12枚貼り込まれています。また、内装のほとんどを茶褐色のシオジ材(長野県産)による板張りと京都で織られた綴織(つづれお)りにて装飾されており、石膏と金箔が主である他の部屋とは違い、全体的に重厚感と落ち着いた雰囲気が漂います。壁の中段には30枚の七宝の額があり、季節折々の鳥と花などが配された絵となっています。七宝の制作には、明治時代の日本画家として有名であり鳥の描写では評があった渡辺省亭(わたなべせいてい)氏が下絵を描き、無線七宝を開発した名工・濤川惣助(なみかわそうすけ)氏が焼成を行いました。創建時、装飾品のほとんどが輸入されたもののなか、日本の技術を結集し作り上げたこの七宝には、なにか特別な思いがあったのかもしれません。

花鳥の間
七宝「山鴫に萩・月」

さいごに

 「東宮御所」として建設され、世界各国からの賓客を迎える国の迎賓施設「迎賓館赤坂離宮」として新たな歩みを始めてから、2024年(令和6年)4月で50年の節目を迎えることとなりました。国宝として、創建から100年以上を経た歴史的建築物として、なにより、日本を訪れる賓客へ接遇を行う外交活動の重要な舞台として、これからもあり続けられるよう、華麗で荘厳なその姿を守り、残していきたいと考えています。
 迎賓館赤坂離宮は、接遇等行事へ支障のない範囲で、本館の主要室、お庭など一年を通して一般の皆様にご参観いただくことができます。是非足を運んでいただき、明治時代から100年以上続く歴史、いつまでも変わることのない建築美、そして、携わった技術者たちの熱い想いを、実際にご覧いただければ幸甚に存じます。

本館2階ホール

迎賓館赤坂離宮HP:https://www.geihinkan.go.jp/akasaka/

                  [全建ジャーナル2024.6月号掲載]

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