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「いまの仕事の進め方、正しいですか? それとも間違っていますか?」(第8回)

土木技術者 宮内 保人

 よくあるランキングに「好きな歴史上の人物は?」というものがあります。その時々の傾向があって、アンケートを実施する年によりランクに違いがあらわれるようですが、過去何十年ものあいだ、必ずベスト3にランクインする人物がいます。坂本龍馬です。
 ことほど左様に龍馬の人気は持続的であり、しかも他を圧するものがあります。その理由には、さまざまなものが挙げられますが、そのなかの一つとして先見性や先取の気風があります。それをあらわすエピソードとして有名なのが、土佐勤皇党の同志である檜垣清治とのあいだのやり取りです。作り話だという説もあり、実話かどうかは不明ですが、いかにも龍馬チックな逸話です。それを紹介するところから拙稿をはじめたいと思います。
 当時、土佐藩士のあいだでは長い刀を差すことが流行していました。ある時、久々にあった檜垣が長い刀を差しているのを見た龍馬は、「そんなもんは実戦には使えん」と、自分の腰にある短めの刀を見せます。それに感心した檜垣は、それ以来短い刀を持つようにし、次に龍馬と再会したときに、どうだとばかりに見せます。それを見た龍馬は、「刀の時代は古い、これからは拳銃よ」と、懐から短銃を取り出して見せます。またまたそれに感化を受けた檜垣はすぐに拳銃を買い求め次の再会でそれを見せると、龍馬ニッコリ笑って「これからはコレよ」と懐から一冊の本を取り出します。万国公法、現在でいうと国際法について書かれた書物です。それまで懸命に龍馬のあとを追いかけていた檜垣ですが、残念ながらそこが限界、それ以上ついていくのをあきらめたという話です。

 この逸話での檜垣は、時代遅れの象徴で半ば嘲笑の対象として語られるのが常です。しかし、かねてより私は「そうだろうか?」と感じていました。その理由を具体的に述べます。  
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 まずエピソード1では長い刀を捨てます。
 当時「流行っていた」という事実から考えると「長い刀」にもそれなりのメリットがあったはずです。しかし、例えばそれが「皆が採用しているか」とか「見栄えがよろしいから」とかの、武器としての存在価値以外のものであったとしたら、太平の世が終わりを告げようとしているその時代に実戦用武器として通じるものではありません。それが理解できずに、ただ多くの人が差しているからという理由で「長い刀」という従来のツールにしがみつく人は多い。しかし彼は代えました。エピソード2も同様です。戦闘のスタイルが変化し、そこにおいて主要な位置を占める武器が刀から短銃に変わりつつあることを理解できずに、または、「オレは変化した」という成功体験意識から脱却できずに、「短い刀」という手法を捨てることができない人もま
た多いはずです。しかし彼は、たとえそれが人真似ではあっても時代の変化に適応していきました。
 とはいえ、そんな檜垣の限界が露呈してしまったのがエピソード3です。「長い刀」から「拳銃」までは純粋な意味における武器、つまりツールや
手法のカイゼンあるいは進化という文脈で同じ延長線上にあります。しかし、「拳銃」から「万国公法」への変化はちがいます。
 コペルニクス的転回といってよいでしょう。純粋武器を使った戦闘だけが戦いではなく、国際法を駆使するのもまたネゴシエーションという場における戦いなのだという、いわばフェーズの異なるステージに立たなければ理解できない変化がそこにはあります(史実として龍馬は、「いろは丸事件」において国際法を駆使し、紀州藩に多額の賠償金を支払わせています)。残念ながら檜垣には、その本質が理解できなかったのでしょう。ビジネスの世界に置き換えてみるとそれは、仕事に用いるツールや手法は変える(カイゼンする)ことができたが、仕事のスタイル(やり方)を変えることはできなかったということです。
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 私たちの仕事でも、そのような例が多くあります。一例をあげましょう。株式会社トプコンが開発したレイアウトナビゲーター(以下杭ナビ)は、ワンマン測量で位置出しや杭打ち作業を手軽にかんたんに行えるようにつくられた自動追尾トータルステーションです。杭ナビ標準アプリだけではなく、快測ナビ(建設システム)と連携させることで利用用途が一気に拡大し、今や土木現場における測量ではスタンダードと言ってもよいぐらいに普及しました。しかし、ほとんどの場合にそれを使用するのは従来のように現場技術者であり、その使い方からは、最低2名必要だった作業が1名で行えるようになったという成果しか上がっていないのが多くの建設現場における現状です。といっても、これまでの生産性が倍になったのですから、それは目ざましい成果にはちがいなく、このツールと手法の画期性を否定するものではありません。しかし、先の龍馬エピソードに即して考えると、その活用方法は「長い刀」→「短い刀」→「拳銃」という延長線上にとどまっているに過ぎ
ません。

(画像出典:KENTEMホームページ)

 徳島県に株式会社大竹組という地場ゼネコンがあります。第2回i-Construction大賞優秀賞を受賞したのでご存知の方も多いでしょう。大竹組
では測量=技術者がやるものという既成概念にとらわれることなく、その作業を若手の軽作業員に担当してもらっている間に技術者は他の業務(例えば書類作成などの内業)をこなすことで技術職員の残業を減らすことに成功しました。この例は広く紹介されており多くの方が承知しているとは思いますが、その本質を理解し、自分の仕事に適用している人がどれだけ存在しているでしょうか?
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 私が見聞きするかぎり、測量という自らの仕事を手放したくない技術者はあまりにも多く、それが「あらたな仕事のやり方」を生み出す障害となっていることに気づいていない人もまた多数存在します。「それしきのこと」、と思われるかもしれませんが、私はここに「万国公法」を感じます。
 「万国公法」というフェーズがそこにあるのに気づかないか、あるいは自分を守るために無視するか、いずれにしても、そこから「仕事のやり方を変える」ことはできませんし、「あたらしい仕事のやり方」を生み出すこともできません。
 BIM/ CIMもまた同様に考えることができます。かつて、手描きの図面から2次元CADへという革新的な変化がありました。私はこれを同じ延長線上にあると考えます。定規とシャープペンシルがパソコンに変わったことで飛躍的に効率が上がりはしましたが、それは所詮、スーパー文房具としてのPCが成し得た成果でしかありません。
 ではBIM/ CIMはどうでしょうか?そこに私は、龍馬が「拳銃」から「万国公法」へとコペルニクス的転回を果たしたと同じような本質があると思うのです。
 といっても、時が経てばそれは常識となっていき、その本質に気づかなかった者も、等しくそのツールや手法の恩恵を受けることができるようになる。そういう例もまた数多くあります。「だから待つのだ」という態度をとる人は少なくありません。ではそのとき、「あたらしい仕事のやり方」を模索した人たちの苦労は水の泡となるのでしょうか?私はそうではないと信じます。なぜならば、そこには「変える」を模索しつづけるという姿勢が一貫してあるからです。その繰り返しはやがて、「変える」を方法にします。  
 「変えるという方法」が仕事のスタイルとなります。それは、一つのことに留まらず、さまざまなことに適用できる本質を内包するという意味で「方法」です。「待つ」を選択する人たちには永遠にそれが訪れることはありません。ということは、自ら「変えるという方法」を身につけることができれば、自らを取り巻く環境がどのように変化しようと、今という時代の建設業を生き抜いていく上で大きなアドバンテージを得るということです。
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 「万国公法」を手にする機会は皆に等しくあります。それが「万国公法」なのかどうか。あるいはそれを、「万国公法」にするのかしないのか。いつ
もいつでもそれを模索しつづけること。それが今という時代の建設業を生き抜く秘訣(のようなもの)だと私は思うのです。

[全建ジャーナル2023.8月号掲載]

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