42.『旧唐書』と『新唐書』の謎
ウィキペディアに情報がありますが、それを整理&問題を抽出した物です。役立つなと思った人は投げ銭よろしく。3914文字
上の図は唐の全盛期。
これは現代。見比べると凄い大帝国だ!
なんか日本の歴史を調べている人たちで、喧々諤々のようなのだけど、意味がわからない。元々詳しい人達だから、前提で分かっている話があるんだろ。それと、個人の謎解きの文が混ざっていて、最初の問いの前提が分からないんだ・・・それで、自身で整理したのだ。
⭕️『旧唐書』と『新唐書』の日本についての記述の違いの謎というのがあるんだ。
『旧唐書』(完成と奏上は945年)
唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。
完成と奏上は945年6月だが、その翌年には後晋が滅びてしまうため、編纂責任者が途中で交代するなど1人の人物に2つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった。
そのため後世の評判は悪く、北宋時代に『新唐書』が再編纂されることになった。
⭕️『旧唐書』=907年に唐は滅びて、完成したのが945年6月。
しかし、逆に(旧唐書)は、生の資料をそのまま書き写したりしているため、資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。
『旧唐書』東夷伝の中では、日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。
そして、宋代初頭の『太平御覧』(977年から983年頃に成立)にもそのまま二つの国である旨が引き継がれている。
⭕️「倭国が国号を日本に改めた」
⭕️「もともと小国であった日本が倭国の地を併合した」
『旧唐書』のこれ、
『どっちゃんねん、という大問題があるんだね、(-_-;)』
⭕️日本列島について「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並んでいる
まるで、『日本列島に2つの国がある、』
「倭国」と「日本国」は同じ列島の中の違う国としか思えない記載がある・・・。
これは、編纂過程の影響であると考えるのが日本における”通説”であるが、異論も存在していて、
●例えば、森公章は「日本」の国号成立後の最初の遣唐使であった702年の派遣の際には「国号変更の理由について日本側でも不明になっており、遣唐使が唐側に理由を説明することが出来なかった」という可能性を指摘する。
そう、ワシもここが大事だと思う。
●大庭脩は、これを単なる編纂過程のミスではなく「倭国伝」と「日本国伝」の間の倭国(日本)関連記事の中絶期間には、白村江の戦い及び壬申の乱が含まれており、当時の中国側には、壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したという見解が存在しており、結論が出されないままに記述された可能性があると指摘している。
こっちの説は「?」マークが出るんだけど・・・いや、天智と天武の中の人は意外な人物!などと、どんでん返しがあるかもで保留〜。
次は、新唐書の話。
『新唐書』
『新唐書』は、中国の唐代(618年 - 907年)の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』と呼ぶこともある。北宋(960年 - 1127年)の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰、225巻、1060年の成立である。
編纂の経緯・後世の評価
『旧唐書』は、唐末五代の戦乱の影響で、武宗以後の皇帝は実録に欠落があるなど史料不足による不備が大きかった。宋(の)代になって、新出の豊富な史料によって、その欠を補ったのが、本書である。(といわれる)
宋代に盛んとなった中華思想を背景に、本書には(日本が)復古的で儒教的な道義を重視する態度が貫かれている。
『新唐書』巻二二〇、東夷日本伝に「咸亨元年、遣使賀平高麗、後稍習夏音、悪倭名、更号日本」とあり、咸亨元年、すなわち【670年に「倭」をあらためて「日本」と号したとの記述がある】。【『旧唐書』では倭と日本が並立した状態で書かれている】が、『新唐書』では「日本伝」としてまとめられている。
混乱する・・・まとめるよ(;´Д`)
『旧唐書』945年
●「倭国が国号を日本に改めた」
●「もともと小国であった日本が倭国の地を併合した」
⭕️「倭国」と「日本国」2つが並立している状態で書かれている。
●702年の遣唐使は、『国号変更の理由について、唐側に理由を説明することが出来なかった』。
『新唐書』1060年・北宋
●咸亨元年すなわち、670年に「倭」をあらためて「日本」と号したと書いてある。
●「新唐書」では『日本伝』として、私たちの住む国の過去のことが、”まとめ”られている。
●(日本が)復古的で儒教的な道義を重視する態度が貫かれている。
旧の唐書の中でも相反することが書かれているようであるし、『旧唐書』と『新唐書』でこの列島の最も重要な部分の記述が違う。
ややっこしくなるので、日本でなく列島と言い換えて話します。
⭕️『旧唐書』は、ワシら日本の現代人が「聞いたことがない」話が書かれている。
⭕️『新唐書』は、ワシら日本の現代人が「何度も聞かされた話」が書いてある。。
もういちど、、
>宋の代(960年 - 1279)になって、『”新出”の豊富な史料』(笑)によって、その欠を補ったのが、本書、『新唐書』である。
『新唐書』の【天皇家の「多利思北孤」問題】
隋(581年 - 618)の開皇(581年 - 600年)末に、天皇家の目多利思比孤が初めて中国と通じたと書かれている。そして、日本の王の姓は阿毎氏であること、筑紫城にいた神武が大和を統治し天皇となったことなどが記載されている。出典は示されていないが、宋史日本伝の記事から、東大寺の僧侶奝然が宋の太宗に献上した『王年代紀』を参照したと考えられている。
多利思北孤(たりしひこ)は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で記述される倭国王である。『隋書』では他の中国史書が「倭」としている文字を「俀」と記述している。『北史』にも記されている。
●・・noteにフォントがないので出ない・・下はスクショ切り抜き(;´Д`)
倭は「よわい。よわよわしい。」という国名になったんだね。
天皇家の「多利思北孤」って誰なんだよ問題!(;´Д`)
実は誰も分かっていないみたいで議論されているようです。
多利思北孤(たりしひこ)は、『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で記述される倭国王である。『隋書』では他の中国史書が「倭」としている文字を「俀」と記述している。『北史』にも記されている。
俀はこれね。
概要
開皇20年(600年)と大業3年(607年)に隋に使者(遣隋使)を送ったという。
名
「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という。
俀はこれね。
妻子
「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」とあり、妻は雞彌、後宮に600-700人の女がおり、太子の名は利歌彌多弗利という。
領地
「夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 其地勢東高西下都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」とあり、里数を知らず日で距離を測る。国境は東西を旅するのに五ヶ月、南北を旅するのに三ヶ月かかり、それぞれ海に行き着く。
・・・なんか、どこかで聞いたことあるな(;´Д`)
「有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭」とあり、阿蘇山があり理由なく火を噴き天に接し、祷祭する。
隋使の裴世清らの道程は「經都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」とあり、大海の都斯麻国(対馬)、東に一支国、竹斯国(筑紫)、東に秦王国他10余国をへて海岸についたという。竹斯国から東はすべて俀であるという。
俀はこれね。
日出處天子
大業3年(607年)の国書に「聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日沒處天子無恙云云」とあり、仏教を学ぶための使者の国書が有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」であり、開皇11年(591年)菩薩戒により総持菩薩となった煬帝を怒らせた(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)。「日出處」「日沒處」は当時の仏典(『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』など)に「日出処是東方 日没処是西方」とあり東西の方角を表す表現でもある。
『新唐書』の表記「多利思北孤」は=日本の聖徳太子のことだね。(;´Д`)
日本、天皇家と聖徳太子捏造の口裏でも合わせたか?
話はもとに戻るよ。
なお、唐書を読んだフビライ・ハンは、「日本には金銀を豊富に産出するとある」と書かれていたことから日本に興味をもち、親交を結ぼうとしたが、当時の執権である北条時宗にすげなく断られたことがフビライの逆鱗にふれて、元寇につながったとされる。
最後の、フビライ・ハンの話・・そんな単純な話あるかい?(;´Д`)
⭕️『新唐書』は、『唐・宋と日本の朝廷』が口裏合わせた歴史捏造書だと思います!ヽ(`Д´)ノプ
歴史捏造書は、古事記・日本書紀、だけではない・・・。
謎解きにつづく(ゼーゼーだよ・・)
NWO調べるより難しい・・・(;´Д`)
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