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日米修好通商条約と唐人おきち

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日米修好通商条約は、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日本とアメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約。安政五カ国条約の一つ。

江戸幕府が調印した条約で、批准書には「源家茂」として当時の14代征夷大将軍徳川家茂の署名と銀印「経文緯武」が押印され、安政7年4月3日(1860年5月22日)にワシントンで互いの国の批准書が交換された。アメリカ全権タウンゼント・ハリスの名を冠して、ハリス条約(Harris Treaty)とも通称される。

日米和親条約により初代日本総領事に赴任したタウンゼント・ハリスが通商条約の締結を計画。しかし、日本側は消極的態度に終始した。ハリスは安政4年10月21日(1857年12月7日)に江戸城に登城し、当時の13代将軍徳川家定(嫁3人のうち、一人怪しい)に謁見して国書を手渡した。ハリスの主張によりアメリカとの通商はやむを得ないという雰囲気が醸成され・・た。


タウンゼント・ハリス

タウンゼント・ハリス(英語: Townsend Harris, 1804年10月3日 - 1878年2月25日)は、アメリカ合衆国の外交官、初代駐日本アメリカ合衆国弁理公使、民主党員、聖公会信徒。「タウンゼンド・ハリス」とも表記される。

江戸時代後期に訪日し、日米修好通商条約を締結したことで知られる。

アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権が無く、日本だけがアメリカに最恵国待遇を約束するなど、日本側に不利な不平等条約で、後に調印させられた改税約書で関税自主権を喪失し、低関税率に固定され、より不平等条約となった。

アメリカ側の領事裁判権に関しては、外国人が日本で法を犯すことがあった場合には、日本の法律で罰せずに、外国の法律で罰する。

ハリスは1849年にはサンフランシスコで貨物船の権利を購入し、貿易業を開始する。清、ニュージーランド、インド、マニラなど太平洋を中心に各地を航行して、以前から興味を抱いていた東洋に腰を落ち着ける。1853年には日本への第1次遠征を行っていたマシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊が清に滞在しており、上海にいたハリスはペリーに対して日本への同乗を望むが、軍人でないために許可を得られなかった。

ハリスは国務長官など政界人の縁を頼って政府に運動し、1854年3月、台湾に関するレポート「台湾事情申言書」を提出。4月には寧波領事に任命される。アメリカへ帰国したハリスは、同年に日本とアメリカとの間で調印された日米和親条約の11条に記された駐在領事への就任を望み、政界人の推薦状を得るなどして、1855年に大統領フランクリン・ピアースから初代駐日領事に任命される。ハリスは日本を平和的に開国させ、諸外国の専制的介入を防いでアメリカの東洋における貿易権益を確保を目的に、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられる。また、シャム(タイ王国)との通商条約締結も命じられた。

1857年6月17日(安政4年5月26日)には下田協定が調印される。この頃からハリスは体調を崩し幕府に看護婦を要請した。幕府はハリスの籠絡を目的として芸者の斎藤きちを送り3ヶ月だけ看病に入っている(唐人お吉)。

タウンゼントという名はユダヤ人だと思うけど・・・


唐人お吉

19歳当時の「きち」(斎藤きち)を撮影したとされる写真・・・唐人ではなく日本人だが、当時は外国というと唐だったから。

斎藤 きち(さいとう きち、 1841年〈天保12年〉 - 1890年〈明治23年〉5月27日)は、幕末から明治期にかけての伊豆国下田の芸妓、酌婦、髪結、小料理屋店主。俗に唐人お吉の名で知られる。

看護人

玉泉寺に駐留していたアメリカ合衆国駐日領事タウンゼント・ハリスは、長期間の船旅や遅々として進まない日本側との条約締結交渉のストレスも相まって体重が40ポンド(約18kg)も落ち、吐血するほど体調を崩していた(ということにした)。満52歳と当時としては高齢でもあり、ハリスの秘書兼通訳であるヘンリー・ヒュースケンが下田奉行所に看護人の派遣を要求した。

日本側は男性の看護人を派遣することにしたが、ヒュースケンが自分とハリスにそれぞれ女性の看護人を派遣することを強硬に要求した。下田奉行所はハリス側がいわゆる「」を要求しているものと判断し、方々に交渉した結果、ハリスに「きち」を、ヒュースケンに「ふく」を派遣することになった。

「きち」は1857年(安政4年)5月22日ハリスが滞在する玉泉寺に籠で出向くが、3日後の5月25日に帰された。「町会所日記」には「きち」の体に腫物があるので帰されたとする記述があり、やがて正式に解雇された。


異人と交わったということで周囲から偏見を受け、不遇のうちに生涯を終える。「お吉」の話は様々に脚色化され、戯曲、映画にもなり、今でも広く知られている。

【1930年】映画(昭和5年)▷「唐人お吉」(溝口健二・監督)

「唐人お吉絵物語」

「泣いて昔が 返るなら、なんで愚痴など言うものか」

御存じ「お吉物語」出だしですが、先日「唐人お吉絵物語」が出てきました。父か祖父あたりが下田に観光して買ってきたものでしょう。
あまり詳しくなかったものですから、興味深く読みました。この絵葉書物語のあらすじを言いますと、

お吉には鶴松という”恋人が居ました”が、下田奉行所の伊佐信次郎に説得され、

ハリスのもとに駕籠で通います。安政四年五月二十二日のことでございます。

ハリスの寵愛をうけますが、心は晴れません。

ハリス帰国の後は、「安直楼」と言う、遊女屋など開いたりしますが、酒に溺れみを持ち崩します。

「 花のいのちは 一度だけ、よしておくれよ気休めは 」

お吉の生涯で、良くも悪くも、人生が最も輝いた日は 駕籠でハリスの下に上がった、安政四年五月二十二日

であったろう。
その日はどんな天気だったのだろうか。

なんて酷い話だ!(;´Д`A

この可哀想を美談にしているんだよね。この物語は舞台や映画となって悲劇のヒロインとして昭和初期に大ブーム起きた・・・。

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