「抗体詩護符賽」映画について(2)

1ヶ月のヨーロッパ旅行の最初の一週間はオーストリアはリンツで開催されるアルスエレクトロニカへ行き、その後はパリに住んでいる姉のアパートを拠点に色々と小旅行を繰り返した。アルスエレクトロニカは勿論のこと楽しかった。何よりリンツの美しい街並と会場であるタバコ工場の雰囲気、街全体に散りばめられたメディアアート作品、リンツという街自体が「質感」として非常に魅力的であった。hofと呼ばれる中庭でプロジェクションマッピングというものを初めて体験して感激したのを覚えている。阪大のロボットで有名な石黒先生や真鍋大度さんなどたくさんの日本人と出会い楽しい話が聞けて私は完全にテクノロジーとアートセクシーな関係にチューンインしていた。日本へ帰ったらメディアアートが学べる大学に入りなおそう。真鍋さんに教えてもらったIAMASに行こうか。VRや実験映画にも興味があるので、もう少し広く学べる立命館の映像学部でもいいな。と早くも想像が膨らんでいた。だが、その後の私の映像体験探求の方向性に決定的な影響を与えたのはアルスエレクトロニカではなく旅のお供として持ってきていたフィリップKディックの『ヴァリス』だった。

アルスエレクトロニカが終わり私達はパリへと移動した。ポンピドゥー・センターでは日本には来ていなかった『Destricted』という映画のDVDを手に入れ歓喜した。ラリー・クラークやギャスパー・ノエ、マリーナ・アブラモヴィッチやマシュー・バーニーが参加しているエロスについてのオムニバスだ。他にも日本では手に入らなくて絶対に手に入れたいと思っていた映画のDVDを購入した。スタジオアッズーロやビル・ヴィオラの作品集やなんといってもフィリップグランドリューの『La vie nouvelle』を手に入れることができて大満足であった。数年後ヨクナ監督と私の実家でこの映画を観て盛り上がったのを覚えている。パリでは生活というものを楽しんだ。朝は近くのパン屋へでかけ朝食をとり、教会やモスクを訪ね、セーヌ川のほとりを散歩する。歩き疲れてきたらサロン・ド・テと呼ばれる喫茶店に入り何時間もお話や読書で時間をつぶした。夜は姉の友人の家へでかけ、ディナーを共にした。一週間ほどそんな生活を続けた後、私達は南仏のカルカソンヌへ小旅行へ出かけることにした。

カルカソンヌはヨーロッパ最大級の城塞都市で中世の歴史を感じられる田舎の街だ。美しい街並みと南仏の気候が相まって、私はいつの間にか絵本の中の世界へ来ているように感じていた。姉のホストファミリーの別荘地を独占した我々は貴族になった気分で毎日サンドイッチ片手に城へ続く橋の下でピクニックをした。川辺に用意されたベンチに座り私は『ヴァリス』を読みすすめた。そのベンチを拠点に私はよく周囲を散策した。ある時、大きな墓場にたどり着いた。人っ子一人おらず、南仏の強い日差しが道路を熱し陽炎が揺らめく真夏の昼下りだった。どこか夢の中のようその空間に一人の男が現れた。軍服を纏ったその男は沈鬱な表情で私の横を通り過ぎ坂の向こうへ消えていった。真夏の日差しで朦朧とし、『ヴァリス』に脳内を汚染されていた私は、今見た光景が現実だったのか、それとも幻覚だったのかわからなくなっていた。こうした存在論的不安は私を「宇宙は情報でできている」というアイデアのもとへと連れて行った。いやそもそも『ザ・ネットーユナボマー・LSD・インターネット』以降、サイバネティックスや情報論に興味をいだいていた私は、室井尚の『情報宇宙論』や苫米地英人の超情報場仮説、西垣通の一連の著作を通してそうした世界観を採用し始めていた。『ヴァリス』を読んでいたのもそれが理由だったのだ。私は映像というものが持つ意味をその世界観の中で位置づけようともがいていた。情報の操作つまり編集によって我々のリアリティは大きく左右されているという感覚。何を映し何を映さないか。何の後に何を映し出すか。同じものを映していてもBGM一つでその世界は180度変わってしまう。音、カメラ、キャスト、照明、プロットすべて適切に配置され、ある一つの現実を作り出している。私はそういった諸々の陰謀=デザインによって作者の世界と同調する。うまく誘導されていく中で私はより大きな全体性を持った現実を体験し始める。そうした空間で日常は相対化され、その幻性が浮きだってくる。それはまさに旅の機能であり、芸術全般の機能でもある。すべては情報だというアイデアは私に大きな世界観の変更を要請した。墓地から姉たちのもとへ帰ると、私はさっそく自分の考えを彼女たちにぶつけた。カルカソンヌに滞在している間、映画や哲学の話で姉と大いに盛り上がった。そうすることで段々と頭が整理されていくのだった。

その後バルセロナでガウディやダリの作り出した空間を体験する内に建築と意識の変容についても興味を持った。空間について考えるようになったのもこの頃だ。

日本に帰った私は取り敢えず立命館の映像学部へ入ることにした。しかしもうすでに興味は映像から意識の変容全般へと移りつつあった。そんな中、311が起き、私のリアリティは大きく揺らいでしまった。テレビから送られてくる映像が映画のワンシーンのように思えてきて、到底真面目に受け取ることができなくなった。私は混乱に巻き込まれ、興奮した精神を抑えるためヴィパッサナー瞑想合宿へ行ったりアイソレーションタンクへ入りにいったりした。その頃はジョンCリリーの『サイエンティスト』やティモシー・リアリー『死をデザインする』、トランスパーソナル心理学の文献などニューエイジ的なものを読み漁っていた。内的世界へ興味をいだいていた私は「映像はどこまでいっても外部世界の刺激ではないか。ドラッグやボディワークによって引き起こされる神経化学的変化に比べるとどこか物足りない」と感じていた。私はショーウィンドウ越しに商品を眺めているようなやるせない気分になっていた。

そんなわけで大学生活ははじめから失敗を約束されていた。まだ実験映画やVR、メディア・アートには関心があったので一応通っていたのだが、エクスパンデッドシネマ的な映像メディアの可能性を拡張する方向を志向する仲間もおらず、そもそも集団が苦手な私は映像制作が集団作業であるという現実に打ちのめされていた。更にインターネットの時代になり、映画は段々とゲームに取って代わられるようになってきたという感覚があった。私はなぜタルコフスキーやデレク・ジャーマンやデヴィッド・リンチのような作家が最近は現れないのだろうと不満に思っていたが、時代がそうさせているのだという考えに落ち着いた。インターネットの登場により人々はよりインタラクティブなものを好むようになった。時間を切り刻まれ注意力失った我々は2時間の映画を観るのも苦痛だ。そうした事情も重なって映画を制作するという意欲はさらに削がれていった。私は図書館に閉じこもり、哲学や宗教、神秘思想の本を読むようになっていた。そんなある日、ホコリを被った書庫の奥地で私は武邑光裕の『サイバーメディアの銀河系』という本を見つけた。その本には私の好きな映像世界達が羅列されておりさらにはサイバネティックスやメディア・アートについても書かれてあった。様々な点と点が繋がる体験だった。彼は一体何者なのだろう?と思った私はすぐさま彼の著作を買い漁った。とりわけ彼が監訳している『コスミックトリガー』は私の方向性を全く変化させてしまった。

サイケデリックス、魔術、陰謀。私はすぐさまウィキペディアで「魔術」と検索した。そこには「〈意志〉に応じて変化を生ぜしめる科学にして技芸である」と書かれていた。カルカソンヌで私に降りてきた「情報宇宙の編集」というアイデアそのものではないか!私がやりたかったのはコレだったのか!急に視界がひらけた私は当時ツイッターで気になっていた、武邑光裕とも知り合いだという現代魔術実践家のバンギ氏の家を訪ねた。顔を合わせたが最後、膨大な情報の洪水が襲ってきた。夜中まで何時間も話し、魔術の世界を知った。武邑光裕の話、明晰夢の話、現代魔術の話、ドローンミュージックや吉備の中山の話まで色々な話をした。

結果として西洋キリスト教の世界観への臨場感がわかないことと、象徴や儀式などが苦手だった私は具体的なワークや儀式にどうしても入り込めずその実践に手を染めることはなかったが、ケオスマジック周辺の文化やノリには大きな影響を受けることになった。怠慢な私はお手軽な幻覚剤を用いながらそうした魔術的実験を繰り返すことにした。あらゆるところに23という数字が現れ、銭湯の番台さんから深遠なメッセージを受け取った。猫町世界にできるだけ長くとどまるというワークをやってみたり、凝視で雲を消す遊びや、スーツを来たサラリーマン達を野生動物として視る遊びなんかをした。特に明晰夢の実験は魅力的なものだった。そうした実験を繰り返す内に私は「言語」というものに異常な関心を示すようになっていった。当時の私は言挙げすることによって私が伝えようとする内容から多くの細部が失われてしまうことにフラストレーションを感じていた。一方で逆に言葉が現実を作り出していく感覚も同時に感じており、我々にとって最も身近なものであるはずの「言葉」がとてつもなく奇妙なものに思えてきていた。言葉を使って我々がしている行為とは一体何なのだろう。と。私は実験映画が劇映画のくびきから人々を解放し、映像というものが単なる劇の延長ではなく、様々な可能性を秘めたメディアであるということを暴露したように、言語を「伝える」ことから解放しようと思った。つまりすべての言語が、歩くことやセックスや食事と同様に人間の行為であるという側面をクローズアップすることによって言語の可能性を広げようと思ったのである。それは実験映画が映像というものをまずもって視覚の体験だということを我々に思い出させてくれるということとパラレルだ。そして2つの実験を小説という形を通して行った。

私の関心は高校時代からただ「どこまでヤバい空間へ飛べるか」そして偉大な先達たちのように自分でもそういった空間を作るにはどうすればいいか?ということだけであった。言い換えれば、物理世界や言語を超えた空間に「質感」としか呼べないような世界を作り出しそこに臨場感をもたせてくれるものを求めていたのだ。魅力的な映画の数々はとにかく臨場感の技術に優れている。臨場感ということを考えた時、私はVRに興味を持ったが、実際に体験してみて興ざめしてしまった。確かに面白いものではある。しかいVRでの「居る」という感覚はまだ視覚的空間的なものに過ぎない。勿論すぐれた設計で作られたVR空間というものはある特異な現実へ人々を運ぶかもしれない。しかしそこでのVR技術が果たす役割というのはあくまでも素材でありそこで人々が赴く場所は必ずしもVR特有の世界ではないのだ。この私の落胆をうまく表現してくれているのが苫米地英人がどこかで書いていたエピソードだ。

わが苫米地博士によれば、80年代のVR研究では「プレゼンス感」「操作参加性」「知的整合性」の3つがリアリティを再現するための重要な軸であったという。「プレゼンス感」は画角をでかくすることによって、「操作参加性」はデータグローブやデータスーツを用いることで臨場感を高めようとしていた。「知的整合性」とはりんごが空中で止まらず落下するというようなことをいう。基本的に3つの軸でリアリティについて研究していた苫米地はある日、山手線で少女が小説を読んで涙を流している場面に遭遇し「負けた!」と思ったようだ。彼女の存在は「リアリティの再現にはプレゼンス感も操作参加性も必要ない」ことを証明していたというのだ。重要なのは「人間の脳から臨場感のある記憶を引っ張り出す技術」であるという。私はメディアの特性にヤバさを求めていたが重要なのはその操作の仕方なのだという当たり前のことに気づいたのだった。

私がVRに落胆しているのには他にも理由がある。それはメタバースなど現在VRが持ち上げられていっている方向への疑念である。インターネットの発展はそのパイオニア達の希望とは違った方向へ進んでしまった。人間の知能を拡大するものとして夢見られたコンピュータやインターネットは実際には人々を分断させ、短気にさせ、健忘症にさせ、つまりはバカにしてきた。メタバースなどはそうしたSNSなどに代表される残念な方向性の延長に存在するように感じるのだ。それは私には本来無限の可能性を持った映像メディアがプロパガンダや洗脳装置として利用されてきた歴史と重なって見えている。昔はよかったという単純な話ではないが、少なくとも私には現在のインターネット環境やVRの潮流よりも、コンピュータのパイオニア達や実験映画のパイオニア達の向いていた方向の先に「ヤバい空間」を感じるのだ。

情報テクノロジーと資本が結びつき、ゲームやSNSなどインタラクティブなものが隆盛していく一方で古典文学や作家性のある映画などは衰退の一途をたどっている。みんなが作家に変化することで過去の作家たちの存在感が薄れていくのを感じる。そうしてどんどん文化が貧しいものへと変わっていくのを。これは私自身の中での戦いでもある。実際2時間の映画を観ることや一冊の本を読み通すことも段々と苦痛になってきているし、SNSに翻弄され、ユーチューブに依存し、目の前の快楽に飛びつき長い時間をかけたゲシュタルト構築作業を怠っている。本当はゆったりとコーヒーを飲みながら古典文学を読みふけったり、映画館で映画を堪能したいのだが、実際にはNetflixの便利さに負け質の悪い映像体験に甘んじている。しかしそうした状況の中でも映画館で観たタル・ベーラの7時間半にもおよぶ『サタンタンゴ』は久々に私を「質感」の世界へ連れて行ってくれたし、ドストエフスキーや谷崎潤一郎は高度な臨場感技術で私を新たなゲシュタルトへ連れて行ってくれた。こうしたものは自らを仮想現実の中へと縛り付ける私に思い出させてくれる。外部はまだ存在するのだと。



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