「なにかを求めること」と「心の平安」の両立はできるのか?
『自分とか、ないから。』読了しました。
文章もすごく面白くて、すぐに読んじゃった。
簡単に内容を説明すると、東大卒でこじらせニートの方が東洋哲学を説明してくれた本ですw
ブッダから始まって荘子老子、逹磨、親鸞、そして空海に至るまで。
仏教、道教、密教の「ツボ」をわかりやすく解説してくれています。
読了後、なぜか強烈に意識に残ったのは、
【求めるほど、我に堕ちていく】
ということ。
「これはメモだ!」ってポストイット探したけど、マツケンサンバの付箋しかなくて、それに書いた。
マツケンが胎蔵曼荼羅みたいな配置になっててカオスな付箋。
なんで家には、お気に入りとはいえ、こんなの(失礼w)しかないのか。
ミニマリストを後悔した瞬間である。
おっと、閑話休題。
なんの話だっけ。
そうそう、【求めるほど、我に堕ちていく】ね。
「我(が)」って、いわゆる執着や恐れ、焦りなどのエゴ。
これがあると、欲しいものが手に入らないとき、そりゃもう猛烈な苦しみを味わう(求不得苦ってやつ)
最初に感じたのは、
そもそも「何かを求めること」自体が、「それをいま手にしていない」という「不足」のエネルギーでは?ということ。
そして、タイトルにもなっている、
何かを求めることと、心の平安は両立するの?
という素朴な疑問。
でも、何かを得ることに「喜び」を感じている人もいるし、
みんながみんな苦しんでいる…というわけではなさそう。
じゃあ、両者の違いってなに?
思えば、わたしは結構長い人生を、後者…手に入れられない!苦しい!側で費やしてきたような気がする…😇
なんやコレ。
なにが違うんや。
そう思いはじめるとなんだか寝れなくなって、丑の刻近くにこれを書いているというわけです(爆)
その疑問を解決するヒントは、老子の言葉の中にありました。(二周目を読み返した)
まず、ひとつめ。
「無事を以て天下を取る」
無事とは「ありのまま」の自分のこと。
つまり、「ありのままの自分最強!」って意味。
そして、さらに老子曰く、
「天下の至柔は、天下の至堅を馳騁(ちてい)す」
つまり、
世界で最も柔らかいものが、
世界で最も堅いものを制す
らしい。
馳騁(ちてい)なんて言葉…
もう一生涯、口にしない自信あるわ。
ありのままの自分、等身大の自分って、肩に力が入っていなくて柔らかいエネルギー。
「なんとしてでも手に入れなければ!」っていう堅い堅いエネルギー(執着やおそれなどのエゴ)を制し、全身全霊の喜びから願望に向きあえる気がする。
手に入らなくても、手に入っても。
すでに自分であるだけで幸せだし…
どっちでも、まぁいっか〜!
そんな心のよゆうが、ゆとりを生んで、結果的にものごとがうまく運んだり、欲しいものが手に入るんじゃないか。
もっと究極を言えば、
手に入れられなくても。
手に入れられたとしても。
「ただそうである」だけ。
すべてこう思えるような意識になると、この世(三次元)ゲームをクリア!で「即身成仏ログアウト」できるのかも😂
それはまだ、したくないけど😇
なーんだ、結局は「ありのまま」なのね。
等身大の自分で生きることが、なんであれ喜びの在り方(動機)になるんやってことを再認識しました。
あースッキリ。
これで、やっと寝れるw
でもさ、
ときに「手に入らない」という苦しみや焦り、エゴまみれでみっともない自分を晒しても。
もし、それが「そのとき」の「ありのままのわたし」であるなら。
そんな自分すら「ダメやん」「なんなの?」と否定せず。(でも、表現するときは周りへの思いやりをもって)
そして、まだまだこの世で、大切な人たちと生きていたいな。
なんだか最後いい感じの気づきになったので、寝ます😂
#実はちょっと即身成仏ログアウトも気になる
#最近さらにありのままに向き合わされている
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