行動原理について

自分はなぜ、あの時あの行動をしたのか、などと深く掘り下げようと考えることが多くなってきたので、ノートを使って言語化していきたいと思います。

今回のテーマとして、なぜサッカー頑張ってこれたのかっていうのを掘り下げようかなと思います。

小学1年からサッカーを始め、様々なチームでプレーをしてきました。高校までは大体のチームで試合に出場することができ、どこか調子に乗っていたというか、自分は上手いんだと勘違いしていた自分がいました。

そこで大学のサッカー部に入り、初めて自分より遥かにうまい選手たちが揃っているチームに所属することになりました。

その中で自分はもう試合出れなくてもいいや、とかBチームで楽しくサッカーできてるからいいやとか考えていた自分がいました。

その状況にいたころ、母校との練習試合が組まれ、自分はBチームの一員として試合に出場し、特に成長した姿を見せることなく終わってしまいました。

試合後、先生から早くAチームで試合出ろよと言われ、まだこんな自分を応援してくれてる人がいるんだと、そういった人たちのために頑張ろうって思えるようになりました。

ふと思い返すと、高校サッカーでも試合終盤きつい時に走れたり、あと一歩出るか出ないかの踏ん張りどきに頑張れた原動力となったのは、試合に出れない人たちの声援であったり、存在というものが大きかったのかなと思います。

その応援してくれてる人たちのために頑張ろうと思い、そこからはたくさん遊んだりもしていましたが、サッカーをやるとなったら全力でやる、練習前に筋トレをするといった努力もするようになりました。

それが実ったのか、試合にちょこちょこ出れるようになり、関東決勝にも出れてしまったことで、応援してくれてる人たちに恩返しできたなって思ってしまった自分がいました。

そこから自分はサッカーへの熱量を失ったわけではないのですが、部費とか自分で払ってまでやる必要ないじゃん、せっかくの大学生活遊んだ方がいいじゃんとか思うようになりました。(もちろんサッカーの時間はめちゃくちゃ真面目にやってましたが笑)

そこで部活の方はやめてしまったのですが、なんで続けられなかったのかなと掘り下げてみました。

あの時人のために頑張ろうって思ってたことがダメだったのかなと今では少し思います。

もちろん人のために頑張るということを否定するわけではありません。

でも人のためにがんばるってのは、いざ何か試合に出たり、SNSなどに名前が載るようになると勝手にもう期待に応えられただろとゴールを決めてしまい、達成感を得てしまっていたんじゃないかと。

そこで今思うのは、純粋に自分がやりたい、自分が楽しい、って思えることが、結果人の役に立ててればいいじゃん!って。

人の役に立ってるかなんて自分が決めることじゃなくて、他人が決めること。

嫌われる勇気にも書いてあったのですが、

「馬を水辺まで運ぶことはできるが、水を飲ますことはできない」

という表現がある通り、自分が他人の評価を決めることはできないよってこと。


でも自分の中でやっぱり一番力を発揮できる時は人のためにってことだと思います。


これからは自分のやりたいことをやり続け、それを応援してくれる人、そう言った人たちへの貢献感というもの原動力に生きていければいいかなと思います。