阪神大震災が発生して25年。


当時、小学4年生。

大きな揺れで目が覚め、続く長い揺れの中、あちこちでガラスが割れ、タンスが倒れ、親が必死に名前を叫んでいました。


日常生活において、いくら照明を落とそうが、カーテンを閉めようが、TVやオーディオの小さな電源ランプが光っていたり、カーテンの隙間から入る街灯の光だったりで、そう真っ暗になる事はありません。


あの時怖いと感じたのは、地震の揺れそのものよりも、何も見えない闇と、聞き慣れないけたたましい音だったんだと思います。


揺れが治まると、父親は僕らを待機させ、何も見えない真っ暗な中、自宅内を確認していました。

裸足でパキパキと割れたガラスを踏みつける、あの音も嫌だったな。


玄関の扉は開かず、父親が持って来た靴を履き、それぞれパジャマのまま、毛布を被ってベランダ伝いに2軒先のお宅から外へ。


日が昇って来ると、今度はあちこちで煙が上がり、それが直ぐに大きな炎に変わりました。

気づけば、大きな黒煙が空を覆っていました。

次第に大人たちのバケツリレーの手が止まり、茫然と昨日までそこにあった町を眺めている姿を、子どもの僕は少し離れた所で見ていました。


あれだけ大勢の大人が諦める姿をそれまで見た事が無く、子どもの僕にとっては衝撃的な気持ちになったのを覚えています。


震災以降、学校は避難所に変わり、追悼式が行われ、先生や大人達からは「亡くなった友達の分まで強く生きよう」「頑張ろう」と。

僕たち子どもも「人に迷惑を掛けちゃいけない」「わがまま言っちゃいけない」、そんな雰囲気がありました。


「大人が悪い」とか「先生が悪い」といった話がした訳ではありません。

あの時誰もが精一杯毎日を送っていました。

ただ、僕らはそういう子ども時代を過ごしたんだなと。


僕の幼少期は震災以降、所謂「自粛ムード」と言うのか、そういう雰囲気があったんだと思います。

人はその内、その環境や状況に次第に慣れていきます。

時間が経つにつれ、震災のあったその状況さえも「当り前」の様になり、それ以前や本来の姿がどうか分からなくなったりするものです。


親となり、子どもの姿を見ながら、自分の幼少期の頃と照らし合わせると

そう感じます。


さて、話を今日に戻します。

(震災の記憶についてはまた別途書いてみます)


今日、妻と子供たちは、昨年亡くなった私の父方の祖父を偲んで、故郷の喜界島に大勢の親戚と共に向かいました。

(私はイベント講師の為居残り)←これも後日書こ。


祖父は喜界島から神戸に移り、被災後は共に避難生活を送っていました。

幼い頃から喜界島の話を沢山話してくれて、「いつか一緒に行こう」と。

結局一度も行けないまま、この世を去りました。


息子は今4年生。

自分の1月17日とは全く違う日を過ごしています。


僕が小さい時から行きたかった場所へ、息子が代わりに行ってくれています。

沢山わがまま聞いてもらって、最高の思い出を作ってきて欲しいな。

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