オウム真理教を知らない世代である25歳の僕が思う不気味さ

 生まれた時から不景気だ。地方に生まれた僕にとって、過疎というものは身近な言葉だ。親の車の助手席に乗ってる時から、廃れていく街並みと、土建屋によって鮮明な色味に塗られて行く道路の舗装工事は、いつもそこにある当たり前の風景だった。

 ポストモダン哲学が唱えるところの大きな物語の失調、あるいは象徴界の欠落、それは田舎では消防団に説得力がなくなって行く過程として体感できる。俺たちの街並みは俺たちが守る。たとえそれがただの飲み会でも。みんなが縦に横に繋がれればそれでいいのさ。そんな文化の消失だ。付近で一番大きい都市にあったドーム型のテーマパークはどこにでもあるがゆえに廃れ、大型ショッピングモールはどこにでもあるくせに流通の効率性とマーケティングが功を奏して、いつも人でごった返している。近所の書店は潰れ、気付けばアマゾンで本を取り寄せるようになった。最近はナマの本ではなく電子書籍を買っている。一体どこにナマがあるのか?一体どこに行けばリアルやアクチュアルやオーセンティックに触れられるのか?

そんな空気の中でゾンビのように、僕は二十代前半を這い回って来た。この街の何処かに、きっと物語があるはずだ。通行の邪魔になる街中の巨木が切り倒されていないのにはきっと物語があるし、橋の袂の小さなラーメン屋の店員の愛想が一見さんには悪いのも、きっと物語があるからなのだ。そんな小さな物語の残滓を集めて、僕は空疎な過疎からアクチュアルな街中に潜り込もうとする。この風景じゃない、他の風景がいつかきっと復活する日がやって来る。みんなが風景の空疎さに気づいて、やっと我に帰る瞬間がやって来る。例えばまことしやかに囁かれている、東京五輪後のディストピアが訪れたのならーーー

まるで前世紀末に流行ったノストラダムスの大予言だ。世界に終焉が訪れて、新たなる完全な世界がやって来るというハルマゲドン。そういえば、オウム真理教もハルマゲドンを説いていたらしい。「友達がやっているから」みたいな援助交際じみた動機で、新興宗教に入る同年代も増えていると聞いた。きっと彼や彼女たちは、風景から消えたアクチュアルを求めているのだろうーーーだから僕はオウムを、自分とは異なる原理を持つものとして主体の外に切り捨てることができない。オウム真理教は僕が街の風景を眺めるとき、いつも網膜に巣食っている。

「お前はオウムだ」「お前だってオウムじゃないか」

本当はオウムは、どこにも根城を持たない存在としてこの日本社会に巣食っている。オウム事件を知らない僕たちの世代が、オウムを他人事だと思うことが恐ろしい。僕たちの世代がすべきなのは、お互いの心に巣食うオウムを指差して笑いながら、既存のSNSよりもアクチュアルな方法で、コミュニケーションすることだと僕は思う。だけどそれをするには、僕も、一般的な僕と同世代の人間も、あまりにオウムに蝕まれている気がする。

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