見出し画像

魔法は解けて、夢から醒めた”夢”。①

終わってしまった。2022年8月24日(水)、あの日本武道館にて開催された「不可解参(狂)」。そして、8月27日(土)にて行われたZ‐Anでの特別再放送。特別再放送のアーカイブは、配信期間内であれば人によって見る期間を調整できる。そのため、観測者一同でこのライブの時間を一緒に共有して見れるのは上記だけなのである。

私は現地参戦することが出来たのだが、ライブが終わってからというもの、ずっとぽっかり穴が空いたような感情に襲われていた。アーカイブを見終えるまで、動画撮影を許された「不可解」パートや誰かの感想、メディアに取り上げられたライブの内容を見てはひたすらに涙目になった。心が弱っていた。抜け殻のような日々だった。

だけど、特別再放送を見て、泣いて、何故かその憑き物のようなものが取れてしまった。何故なんだろうか。もう遠隔操作されないペンライトを見て悲しくなってしまったのか。完全に終わった気でいたのに追加曲の存在を忘れてこの感情に邪魔を入れられたからなのか。私にはわからない。ともかく、タイトルにあるように「魔法」は解けてしまったのだ。

さて、タイトルにある「魔法は解けて」、そしてその後に続く言葉として「夢から覚め」を繋げようと思ったのだが、パソコンの予想変換で「夢から醒めた夢」というものが出てきた。はて、何だろうと調べてみると劇団の演目が出てきた。以下のものは、その作品紹介の公式サイトである。

数ある夢の一つを一人の少女が冒険する。なんだか、花譜ちゃんとうまく結びつけられそうな内容ですよねぇ。まぁ私にはこれ以上深堀できる文才がないのでここまでにしとこ。
でも、夢のような武道館ライブから明けたこの生活すらも夢かもしれねぇな、みたいなコンセプトでタイトル設定しとく。なんかもう文崩れてきた。

さて、今回のnoteなのだが、合わせて2回しかまだ視聴していないのだが、(アーカイブ期間はできるだけパンフが届いてから見ようと思っている)今回の「不可解参(狂)」を観て感じたところについて述べたいと思う。主に「観測者がこの日本武道館に集ったこと」と、まだ新曲については歌詞が噛み切れていない部分があるが「ライブ本編について」なんとか形にしたいと思っている。

観測者が日本武道館に集ったこと

私は今回の現地参戦を合わせて、計3回のライブを経験している。幸祜ちゃんの「PLAYER」と「魔女集会」、そして今回の「不可解参(狂)」である。私は今までの界隈の動き上、あまり観測者とは名乗っていなかったしアカウント名にも特段つけてはいない。しかし、「PLAYER」を現地参戦してからというもの、この神椿界隈に対する熱が、火が彼女によって灯されたため私が再び「観測者」として成ったとも言える。

それからというもの、ちょくちょくというかだいぶTwitterを稼働していき、魔女集会時には特にエンカする予定もほぼ建てなかった私が、今回の「不可解参(狂)」では嬉しいことに複数の方々と対面し、ライブ前後に話すことが出来た。現地参戦した方は、ライブ以外にもこの側面がとても記憶に残ったことだと思う。

さて、今回このライブには7000人もの方が動員されたという。一般の方々だけだとしても5000人ほどはいたのであろうか?過去最大規模の観測者らによる祭典だったに違いない。TLでは、全国各地から続々と東京に入る様子を伝えていた。あの日あの時あの場所では、住むところも年齢も思想も境遇やらなんやらも全てを洗いながし、ただ「観測者」として在らせてくれた。

しかしその一方で、色んなものを抱えて生きてこの場所にやってきている人も多くいたと思う。それでも、あの音楽を一同に浴びた同士だった。今までライブを現地参戦してきて、初めてこのような感情を抱いたと思う。
そこで指摘したいのは、「ペンライト」という存在である。勿論、会場内にはペンライトを持っていなかったor使用できなかった方もいたと思うが、二刀流使いの方は置いといて単純に考えれば「ペンライトの数=(関係者を含めた)観測者の数」だったのである。

私は席の関係上、全体をしばしば俯瞰してみることが出来た。また、会場の左右のモニターでは、視点の一つとして花譜ちゃんの背と前に広がるアリーナ席を中心としたものを映していた。そこでやはり目を見張るのは、おびただしいペンライトの数とそれが放つ美しい光の粒である。まさしく「電子の海」・「無数の粒でできた翼」とも形容できるような光景であった。

私はその光景を見ながら、この光の下では様々な境遇・人生を送って来た人々が一同に花譜ちゃんへ懸命にペンライトを振っていると思うと、なんだかとても泣けてきたのである。
というわけで、箱外でのライブを除けば久しぶりのペンライト使用ができたライブなのであったわけだが、武道館という規模も功を奏して、先のような感情に至ってしまったわけである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

最後まで行動を共にした観測者たちと別れる時、とても寂しかった。今回初めて会ったのに。そうして私たちは出会い別れ、リアルの自分にエンチャントした観測者としての自身を休業し、いつもの生活に戻っていく。

     「私たちは 今日も社会へ」

私は未だ惰性を謳歌しやるべきことを全くこなしていないクソ野郎のままだ。だから、ライブに影響を受けて大きく行動を移すことができる人々を毎回羨ましく思うのだ。何もできやしない、やりはしないと、浅瀬でただ溺れ一人泣き叫ぶのだ。足ですら十全につくことができる浅瀬だというのに。

こんな私に、花譜ちゃんは「マイディア」を送ってくれた。勿論私にだけではないのだけれど。「あなたたち」ではなく、誰でもない「あなた」に。
マイディアに至るまで、いくつもの歌詞に共感し、多くの涙を流した。
彼女は、なんでこんなことが言えるのだろうか。「私はお礼を言われるようなことなどいつも出来ていない」と、いつも思ってしまって辛くなる。もちろん想いは嬉しいけど私は素直に受け取れる構造をしていないのだ。為すことを為していないから。なんかもう何書いてるのか分からなくなってきた。

私はライブ開催まで、およそ人の形だけはぎりぎり保っていた「なにか」だったが、次の「不可解参(想)」に向けて、私はそれすら保たれているのだろうか。合言葉は「生きて、生きて生きて生きて、また、会いましょう。」

***********************

やべぇ、なんかこんなコレジャナイ感が凄い、しれっと公開だけしとこ意味わからんこのnote。何が言いたかったんだ?ライブ本編についてはまた今度にしてくださいああああああああああああああああああああ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?